夏の朝
はっと目が覚めた。頬が冷たい。目を覚ましても、涙は止まらない。
白くかすんだ部屋の中で、膝を抱えて静かに泣いた。
ぼーとする。鼻の奥が痛い。午前5時3分。夏の朝はすこぶる早い。
ケンジはちょっとやそっとじゃ起きやしないが、できるかぎり静かにベッドから抜け出す。顔を洗い、下だけジーパンに履き替え、財布をもって家を出た。
この世界に蝉しかいないんじゃないかって思うくらいに、蝉の叫びで満ちた朝。頭をかすめるのは、彼女の柔らかな肌と、美しい髪。夢の中で何度も愛し合った、私の人魚。
小さなころから、同じ夢を見てきた。信じられないくらい美しい人魚と愛し合う夢。彼女の肌はいつも冷たく、湿っている。そして彼女の歌は、何度聞いても涙が出るほどに美しい。
白けた夏の朝。神様が、この瞬間だけを大きなはさみで切り取ってしまったかのような朝。私は小さな公園のベンチで、もう二度と夜なんて来ないんじゃないかって、少し考えた。
「あの」
その声はまぎれなく、彼女のそれ。顔を上げれば優しい顔した、私の人魚。
「おはようございます」とはにかんで、こちらの言葉を待っていた。
その瞬間、私の中にいくつもの言葉があふれかえって、口から出た一言は「おはようございます」だった。
彼女はヨウコと名乗り、リードを引っ張り大きなゴールデンレトリバーのシュンスケを紹介した。朝の散歩が彼女たちの日課らしい。人間の彼女と犬のシュンスケの。
私は赤い目をできるかぎり隠しながら、一人で散歩だと嘘をついた。だってランニングって格好していないし、犬だって猫だって連れていなかったから。
ヨウコさんは、とてもご機嫌のようだった。ヨウコさんのいつもを知らないけれど、これが彼女の最高のご機嫌だって、なんとなくわかっていた。
彼女は素敵なカフェを紹介するわと言って嬉しそうに歩き出した。そこで朝ごはんにしましょって。私たちはいつの間にそんなに仲良くなったのだろうか。上機嫌なヨウコさんの鼻歌は、夢の中で何度も何度も聞いたそれで。私はヨウコさんの後ろを歩きながら、静かに泣いた。
ヨウコさんのおすすめのカフェは、ヨウコさんの旦那がやっているカフェで。つまりヨウコさんのお家だった。優しいコーヒーのにおいを、肺いっぱいに入れて、涙が止まるのを待った。ヨウコさんは何も言わずに、私を見つめていた。きっとわかってるくせに。
旦那さんは、髭の生えた大きな熊のような人だった。毛むくじゃらのその奥の、信じられないくらいつぶらな瞳は、何もかもわかっているような気がした。毛むくじゃらの腕でそっと持ってきてくれたクロワッサンは、美味しくて、また泣いた。
本格的に太陽が昇ってきた。夏が来た。止まったままの朝は、いつの間にか騒音とともに動き出していた。私はクロワッサンを3つテイクアウトした。ケンジさんの朝ごはん用に。ヨウコさんは、私の手を握り「また来てね」といった。彼女の手はひんやりと冷たかった。「また、来ます。今度こそ。」そういった私は、もう泣かなかった。ヨウコさんは少し驚いたように、その長い睫の大きな瞳をさらに大きくして、「今度こそね」と笑った。