声
「ねえ、紗子」
「なぁに。母さん」
雑誌に目を落としていた私は、後ろから聞こえた声に返事をした。
特別な感情も何も含まれない、いつもの会話の応酬。
――でも、少しして気付いた。
二年前に喉頭がんを患った母は、手術によって声帯を全摘出していた。
喋れるはずなど、ないのだ。
振り返るとリビングのソファで編み物をしていた母が、うたた寝をしているかのように手すりに頭を預け、目を瞑っていた。
静かに近づき、手に触れる。
冷たくなっていた。
――慌ただしく日々は過ぎ、全てが終わった後。私はリビングで――母があの日、永い眠りについたソファで、編み物を編んでいた。
頭の中では、何度も、何度も。最後に聞いた母の声を、蘇らせていた。
『ねぇ、紗子』
それは少し高く、瑞々しい声だった。
私が幼い頃に聞いた、若かりし頃の母の声だった。
――きっと、幻聴なんかじゃなかった。――確かに、聞こえた。
そう思いながら、母のやり掛けの編み物の、続きを編んだ。