2.話
あの首の持ち主を彼女はよく知っている。
彼女の通う高校の、同じクラスの、隣の席。毎朝おはようと言ってにこりと笑う彼の表情と、首だけになった彼の、異様に穏やかな表情とが彼女の中で重なった。
ずっと発していた悲鳴はいつの間にか消えうせ、激しい動揺のせいでがたがたと震えていた体はバランスを失ってうつぶせに倒れた。体を起こす体力も気力もなく、彼女は顔をを山小屋の埃っぽい床に押し当てたままやがてすすり泣きを始めた。
外からの風の音や木々のざわめきも息を潜めたかのようにしなくなり、小屋全体に響くのは彼女の悲痛な泣き声だけだった。
なぜ彼が、どうしてここで、あんな姿で。
疑問はたくさん浮かぶものの、すべて恐怖と混乱に絡め取られ、うまく頭を働かせることが出来なかった。
何に対して泣いているのかもわからなかった。
よく知るクラスメートの残酷な状態に嘆いているのか、それとも切断された首を見たことによるショックで泣いているのか、もしくは自分の置かれた不可解な状況に恐怖しているのか。
けれどそれ以上に、ひどく動揺すべきことがあった。彼女の置かれた状況を更に異常にするものが彼女をより深い混乱に導いていた。
まさかとも思うが、間違いない。
これは夢ではないのだ。どんなに信じがたい状況だとしても、どんな身も心も磨り減っていても、感覚だけははっきりしている。現実かそうでないかだけは、嫌というほど判別できる。
いっそのこと夢か幻であったらどんなにいいか。
けれどこれは確かに現実で、あまりにも信じられないことだけれど、実際に起こっていることなのだ。
彼女は言葉に出来ないほどのたくさんの感情におぼれてしばらくの間ずっと泣き続けた。
泣いて泣いて、もうこれ以上泣いて涙がいい加減に枯れてきた頃、彼女は体を起こすことが出来ずうつぶせになったまま、ひどく激しい悲鳴をあげたせいでつぶれてしまった喉をどうにかしてかすれた声で呟いた。
「なんで…」
その声はかすれすぎているうえにうつぶせのままに発せられたせいでこもってうまく空気を震わせることが出来なかった。けれど彼女は構わずに言葉を続けた。
「どうして、生きているの?」
だんだん声が震えてくる。涙も枯れたはずなのに、また泣いてしまいそうだ。
信じられない。信じたくない。怖い。怖くてしょうがない。
「それとも死んでるの…?」
彼女は意識的にそちらには目を向けようとはしなかった。
悲鳴をあげている間は取り付かれたようにあの首を凝視していたにもかかわらず、一度体勢が崩れ倒れてしまって見えなくなると、恐ろしくてもうそちらを見る気にはならなかった。
けれど彼女は見ない代わりにそちらに意識を集中させた。どんな物音も聞き逃すまいと神経を研ぎ澄ませた。
そして。
「…わからない」
そちらから聞き覚えのある声が聞こえたのだ。
その事実に彼女はすくみあがった。
その声はまさに今首だけになって無残にも放り出された彼自身の声だったのだ。彼女が目を覚ましたときに声をかけたのも、紛れもなく彼だった。
でもそんなはずがない。そんなことが起こり得るはずがない。彼は死んでいるはずだ。それだけは明確なのだ。
これは幻聴だと彼女は自分に言い聞かせた。きっととてもリアルな幻聴を聞いているのだ。だってそうとしか思えないじゃないか、確かに彼は首から上と首から下を切り離されていて、ここにいる彼は首から上だけなのだから。その彼がまさか口を利くなんてそんなことはあり得ない。
彼女は必死に自分に言い聞かせるために唇をかんだ。
わかっている、死人が話すなんてあるはずない。ましてや切断されて確実に死んでいる人間が、話すわけがない。
けれどそう言い聞かせる自分の中で、もう一人の自分が諦めたような、くたびれたような様子で囁くのに彼女は気付かずにはいられなかった。
これは確かに現実だ。首だけの人間が話を出来るなんてことは聞いたことがないけれど、今この場で、動揺はしていても気は確かで、現実と幻覚の区別がきちんとつけられる状態の私が幻聴を聞いているはずがない。現に今も体は使い物にならないが頭だけは正気でいるのだ。だとしたらこれは疑いようもない現実なのだ、と。
そんなのわかっている。嫌なくらいわかっている。これが夢でも幻でもないことくらい、目が覚めていたときからわかっていた。
でも彼女は心底これが夢であることに、彼女の創り出したいい加減な幻であることにしたくてたまらなかった。今すぐここから逃げ出したかった。体が動かなくても、心だけでも逃げ出してしまって、楽になりたかった。
しかし、彼女のこの切実な思いを無残に踏み潰すように、彼女の足元から彼の声がまた聞こえてきた。
「…僕は、もうすっかり殺されたものだと思っていた。いや、もう死んでいるのか、それともまだ生きているのか、僕自身にもわからない。わかるのは今現在こうやって意識があって、話すことが出来るということだけなんだ…」
静かな山小屋という狭い空間の中で、彼の声は思いのほか大きく響いた。その声はあまりにも穏やかで、かえって状況の異常さに拍車をかけていて、彼女の恐怖でなえてしまった神経を更にすり減らした。
「覚えているかな?僕らは襲われたんだ。何の前触れもなく、ただ教室の扉のすぐ近くにいたからという理由で。君はさらわれ、僕は見せしめのために殺された…」
殺された、という言葉に真実味がもてないらしく、彼は不意に黙り込んだ。
彼からしてみればまだ意識はあるから、殺されたという言葉が果たして正しいのかどうか自信が持てなかったのだ。
一方彼女は彼の話を聞きながら記憶の糸をたぐっていた。今朝起きて学校に行ったことははっきり覚えているのだが、学校に着いた辺りからの記憶がぷつりと切れていて、それ以上思い出そうとするとひどく頭が痛み始め、その痛みが彼女の意識を散漫にした。
しばらく間をおいた後、また彼の落ち着いた、穏やかな声が足元からやってきた。
「首を切られてから…切断ではなくて、殺すために切られてから、僕は次第に意識を失って、完全に死んだと思った。切断された記憶はないからいつどこで行われたかはわからないけれど、気が付いたらここで、意識を失っている君のすぐ傍にいたんだ」
彼の発する声は淡々としていて、この異常な場にそぐわなかった。
自分の首が切断されたのだというのに、彼は動揺する様子も見せずにいる。
彼女は思いっきり耳をふさぎたくなった。彼の声など聞きたくなかった。もし体が自由に動けるのであればすぐにでも両手を力いっぱい耳に押し当てていただろうけれど、今は指一本動かすことも出来ない。
彼の声など聞きたくもないのに、容赦なく彼の声は彼女の耳に届いた。
「最初は、状況がわからなかった。僕はすっかり死んでいたと思っていたから、目が覚めたのはとても意外だった。目の前には意識のない君がいて、助けようと思って、起き上がろうとした。でもなんだか感覚が全くないんだ。動かそうとしても、まるで体の使い方が突然わからなくなったみたいになって…」
他人事のような口調の彼の声を彼女はどうにも聞いていられなくなった。
なぜ彼は落ち着いているんだろう。私は全身無傷で切断なんかされていないけれど、それでもこんなにも混乱しているのに、どうして彼は自分の状況をあんなにも淡々と、まるでどこかで聞いたばかばかしい話を聞かせるみたいによどみなく話すことが出来るのだろう。
彼の状況と存在は彼女にとって脅威だった。
本当に彼女は耐えられなくなり、唇を一層強くかんだ。
「…それで、しばらくして気付いたんだ。僕にはもう体がないってことが。体勢さえ自分自身では変えられない。それで」
「やめて!!」
思わず彼女は声を荒げて叫んだ。声はがらがらで、ひどくかすれていて、大きな声を無理やり出したら喉がひどくひりひりと痛んだ。けれど彼女は構わずに悲痛な叫び声をあげた。どうしても抑えることができなかった。
「やめてもう聞きたくない!!どうして首だけなのに話すの?!どうして死んだ人間が、そ、そんな風に…っ!!いや…もういや…こんなところいや!!帰りたいっ、誰か私を家に帰して!!!」
最後の方は涙声になり、彼女はまた顔を床に押し付けたまま泣き始めた。
「助けて…おかあさん……」
あれだけ泣いたのに、また涙はあふれてとめどなく流れ出た。きっとこのまま体中の水分がなくなって、もう泣くことができなくなるまで泣き続けるのだろうと彼女の心の中の、いやに冷静な、他人事のように状況を見ている自分がそう思った。
一方彼の方はそれきりぱたりと話すのをやめた。また小屋に響くのは彼女の泣き声だけになった。
彼が黙っていると、もう彼は生きているのか死んでいるのかわからなかった。それでなくても今まで生きていたのかどうなのかと考えると疑問に思うのだけれど、少なくとも話をしている間は完全に死んでいるとはいえなかった。だが黙っていれば、それはもう完璧に死体の一部でしかない。
果たして今彼は生きているのだろうか?彼女が動揺して声を荒げたから黙っているだけなのか、それともその瞬間に彼は完全に息絶えたのか。彼女は彼に目を向けるのがとても恐ろしくて自分で彼の生死を確認する勇気がもてなかった。
彼が生きているにしても死んでいるにしても、今小屋に響くのは彼女の鳴き声だけで、もう彼の声も、息遣いさえも聞こえては来ない。やっと泣き止み、嗚咽さえも止まると何の物音もしなくなった。
しん、と静まり返った瞬間、彼女は突然激しい孤独感に襲われた。もし彼がこのまま口を利かなかったら、それは、彼女はたった一人で動けないまま、死体の一部と空間を共にしていることになる。
そう気付いた瞬間、彼女は恐怖のどん底に突き落とされたような気がした。ぞくりと悪寒が体中を這い回り、体中を鳥肌にしてまわった。
このまま私はどうなるのだろう。こんな薄汚い山小屋の中で、クラスメートの首だけが残されて。私も死んでしまうのだろうか。飢えて死ぬのかもしれないし、彼を殺した犯人が彼女を殺しにここに来るかもしれない。
どっちにしても、彼女は孤独だった。こんなところで逃げることも出来ずに一人で死んでいくなんて、考えただけで震えが止まらない。こんな孤独感を彼女は感じたことがなかった。一人ぼっちで、右も左もわからないまま恐怖に翻弄されながら死んでいくなんて、今まで思ってもみなかった。
誰でもいい、誰でもいいから傍にいて欲しい。私を独りにしないで欲しい。
そう思うと同時に彼女は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。彼を不気味に思い、怖がってひどいことを言ってしまった。少なくとも自分は完全に生きているのだ。首どころか手も足も体から切り離されてはいない。なのに、首を切断されてしまった彼よりも取り乱して、彼が話すことを怖がって拒絶してしまった。
彼女は思い切って、彼に向かって声をかけた。
「ごめんなさい…」
喉は叫んだせいで一層痛みを増し、彼女の発せられた声はあまりにもかすれすぎて、空気が漏れたような音にしかならなかった。けれど、彼はそれをちゃんと聞き取ったらしく、すぐに彼女の足元から返事が返ってきた。
「気にしてないよ、君はあたり前の反応をしただけだから」
彼の口調からは本当に気にしていないように思えた。彼の話し方は最初から最後まで、彼女の知る彼の話し方と寸分違わず穏やかで、彼女の耳に心地よく響いた。今の彼の姿さえ見なければ、この声を聞いた者はみんな彼は無事であると思うだろう。
「わ、私…すごく怖くて…その、し、死体なんて見たことなくて、なのに話をしてて、すごく怖くなって…だから。ごめんなさい」
「誰でもそうなるよ。僕だって、もし生首が話を始めたらひどく取り乱すだろうし」
彼女は彼が取り乱す様子を想像してみようとしたがどうしても出来なかった。彼女の知る彼はいつも穏やかで、物腰も柔らかくて、もし立場が逆だったとしても、彼だったら自分なんかとは違って怖がったり取り乱すこともなく状況を受け入れていたのではないかと彼女は思った。
「もし君がよければなんだけど…」
彼女が物思いにふけていると、不意に彼が話しかけてきた。
「もし気に障らなければ、僕と話をしないか?」
「……?」
突然の彼の提案に彼女は返す言葉を見つけられずにいた。彼は続けた。
「もし聞いていて嫌なときは言ってくれればいいし、無理に君に意見を求めたりはしない。ただ、話しておきたいんだ。この状態がいつまでもつのか、わからないから…」
その言葉に彼女は緊張した。
この状態がいつまで続くかわからない。彼の言うとおりだった。今はこうして彼は話を出来るが、いつできなくなってしまうか分からない。あと5分もしないうちに彼が完全に死んでしまってもおかしくないのだ。いや、今こうやって話していること自体がもう奇跡なのだ。
「…遺言…てこと?」
恐る恐る彼女は聞いてみた。
「そうだね、そんな大それたものでもないけれど、最後に少し、話しておきたくなったんだ…」
最後に。そう彼は言った。
彼女にはもしかしたら助かる道があるかもしれないけれど、彼には死しか待ち受けるものがない。今聞いてあげられるのは、彼女しかいない。
彼女は急に使命感に襲われた。
聞いてあげなくちゃいけない。彼が何を言うとしても、さっきみたいに拒絶してはいけない。そんな気がした。
「うん、話をしよう」
彼女は何とか気丈に振舞おうと努力しながらなんとかそう言うことが出来た。
足元の方で、安心したような彼の様子が伝わってきた。
でも彼はすぐには話を始めようとはしなかった。何を話すか考えているのだろうか、と彼女は辛抱強く待つことにした。
思いのほか長い間沈黙が続き、もしやもう死んでしまったのではないかと心配になり始めた頃、やっと彼は言葉を紡ぎだした。
「僕は…」
彼の声は淡々としていたけれども、どこか陰のある話し方をしていた。
「僕は…すべてを恨んでいた」
今、彼との最後の会話が、始まった。