1.発見
多少グロテスクな表現を含みます。苦手な方はご注意ください。
まるでこの世の終わりのように思えた。
体はまるで何十キロもの距離を全力疾走した後のように強ばり、指一本動かすことすら困難で、頭は金属バッドで殴られた直後のように痛んだ。実際殴られたかどうかはわからないけれど、きっと殴られてはいないのだろう。こんなありえないほどの痛みが物理的な打撃からきたものであったなら間違いなく即死していただろう。けれど彼女は一応生きていた。
ひどく理不尽なほどの深い強制的な眠りの中にいたらしい彼女は、また強制的な目覚めを強いられた。
眠りを妨げたものはとても強いどこかから降り注ぐ日の光と、そして今までかいだことのない強い金属の臭いの混じった不吉な生臭い臭いだった。
眠りから覚めても、彼女は目を閉じたままでいた。本能が彼女に強い警告を与えていたからだ。
自分の身に異常なことが起きているのだ、と彼女は思った。自分が横たわっているのはどこか固い場所で、聞こえてくる風の音や木のざわめきは、明らかに彼女の知らない場所からのものであり、またこの場所が彼女を歓迎しているとは到底思えなかった。
彼女の身に何が起こったのか、そしてなぜここで横たわっているのか、彼女は何一つ思い出すことが出来なかった。ものを考えることが出来ないほど彼女の頭はひどく痛みを訴えていたし、体は激しく疲労していた。
とにかく、目を開けなければと彼女は思った。どんな恐ろしいことが彼女を襲うのか彼女は具体的にはわからなかったけれど、目を閉じていたままでは何もわからないし、どんな状況にも進まない。
けれど、体がそれを妙に強く拒絶する。
ただ目を開ける、ただそれだけのことなのに全身がそれを嫌がっているのを感じる。髪の毛の先一本一本までもが拒否するように緊張しているのがわかる。
彼女は目を開けるまでにたっぷりと時間をかけて深呼吸をしたかったけれど、むっとするひどい鉄の臭いにむせかえり強い吐き気を覚えた。
この臭いに嫌な予感を抱かない者はきっといない。
せめて新鮮な空気を吸いたい。
彼女は目を開けてしまいたいという要求とこのまま目を閉じて、何も見たくないという要求の狭間で揺れていた。
これは、夢ではない。
このまままた眠ってしまえば、きっと目覚めるときには自分のよく知る自宅の自分の部屋のベッドの上で寝ているだろうなんてことが到底考えられないほど今の状況は異常でありながらも現実的だった。
目を開けることがとても恐ろしく、またその恐怖がどこからやってくるのかもわからず、それなのにその恐怖は絶対に根拠のあるものであるという確信に、彼女はぎゅっと閉じる目に力をこめた。
その時だった。
「……さん?」
不意に自分の名を呼ぶ青年の声がすぐ近くに聞こえた。
どこか聞き覚えのあるその声に、彼女ははじけるように目を開けた。
独りではなかった。絶望的な状況であったとしても私は独りじゃなかったのだ。
そう思い安堵から一気に嗚咽をもらしそうになりながら目を開けた彼女は一瞬あっけに取られた。
彼女は見覚えのない、汚らしい山小屋の中にいたのだ。
小屋の角に、背を預ける格好で、横たわると言うよりは座ったまま眠っていたようだ。
小屋の窓からは日の光が惜しげもなく入り込み小屋は明るい。
そして、彼女は一瞬自分以外に誰もいない、と思った。誰の姿も見えなかった。
けれどすぐに先ほどの声の持ち主がわかった。わかって、けれどそこに目を向けようとはしなかった。
急に体中の血液が激しく循環を始めた。
どくん、どくんと強く心臓を働かせ続ける。
恐怖が一気に彼女を襲い、そしてがたがたと体が震え始める。
暑くもないのに体中が汗でびっしょりと濡れている。
だめだ。
彼女は自分に言い聞かせた。
だめだ、見てはいけない。
視界の端の下方に、投げ出した彼女の足元の方に見え隠れする影に、彼女は目を向けないように努力した。
それを見てはいけない。本能が体中に命令をかける。
けれどそれとは別に見てしまいたい衝動に駆られた。
見てはいけない緊張感に耐えられない自分が確かにいた。
恐怖で涙があふれ出た。その温かい液体は限りを知らないようで、ものすごい勢いで頬を流れて首もとを汚していく。
体の震えは今まで感じたことのないほどの激しいもので、自分の体なのにまるで思い通りにいかない。
見ちゃだめだ。
そう思うのに顔は今にも下に向かおうとしてしまう。
止められない。
見てはいけない!
だめだ見てはいけない!!
パニックに陥りながら彼女は自分の目が視界の下方に向かってしまいそうになるのを必死に押しとめることに意識を集中させた。
数センチでも下を見てしまえば、見えてしまう。
どうしようもない絶望がそこにはあることがわかる。
頭ではわかっているのだ。そこにはこの異常な状況を救うようなものは存在しない。
存在するのは恐怖だけだ。恐怖と絶望だけがそこに横たわっているのだ。
ああだめだ、どうしても目がそれを見ようとしてしまう。
見てしまえば自分を痛めつけてしまうことがわかっているのに、見ようとしてしまう。
だめだだめだだめだだめだだめだ!!
みるなみるなみるな!!
体は恐怖と緊張感で激しく震え、振動のせいでがたがたと耳障りに音がするほどだ。
だめ、みちゃだめ…!!
緊張感に耐えられなくなったかのように視線は本人の意思を無視して勝手に下へと向かっていく。そのことが一層彼女をパニック状態にさせた。
見てはいけないと体中が警告する中で、眼球だけが見たいと望んでいる。
ゆっくり、本当にゆっくりと彼女の眼球は足元の物体に焦点を合わせようと試みる。
だめだだめだ!本当にやめてくれ!!
だめ…
いや…!やめて!!
だめ!!!
視界の下方の物体にだんだん焦点が合わさりそうになり、彼女はこの上ない恐怖に襲われ呼吸さえ忘れて激しいパニックに陥った。
だめだめだめだめだめだめだめだめみるなみるなみるなみるなみるなだめだみるなみちゃいややめてやめてやめてやめてみるなみるなみるなみるなみるなみるなだめだめだめだめいやいやいやいやいやいや見ちゃだめ見ちゃだめ見ちゃいやみちゃいやみちゃいやだめだめだめだめいやいやいやいやいやいやいやいいやいやいやいやだめだめみるなみるなみるなみるな………!!!!!!
見ちゃだめ……っっ!!!
どんなに心の中で拒否をしても無情にも視界はそれをとらえた。
「……っっ!!!!」
………
すべての感覚を失った気がした。
指一本満足に動かせないほどの疲労感も、鈍器で殴られたかのようなひどい頭痛も、むせ返るほどの悪臭も、まるで感じ方を忘れてしまったかのように、もしくは感覚をどこかにおいてきてしまったかのようにすべて感じなかった。
ただ、ひどく耳鳴りがする。でも何の音かわからない。
ひどくうるさく耳に何か響く。
とてもうるさいこの音はどこからやってくるのだろう。
めまいさえも覚えるこの音はどこから…?
ああ、そうか、これは悲鳴だ。
私の、悲鳴だ。
私の悲鳴を私自身が聞いているんだ。
恐怖とパニックと絶望でのどが裂けるほどの悲鳴をあげている一方で、まるで他人事のように冷静にそれを見守っている自分がいた。
見たくなんかなかった。こんなもの見なければ良かった。
目など開けなければ良かった。目が覚めなければ良かった。
こんなもの見てしまうのならば。こんなものを見てしまうくらいなら…
私が死んでしまえば良かったのに!!
とめどなく口から出てくる悲鳴をどうにも出来ないまま彼女はその物体から目をそらすことが出来なかった。
どす黒い血にまみれた、身体をもたないその死体に、彼女は釘付けにされてしまい凝視したまま動けなくなっていた。
耳をつんざくその悲鳴の中、彼は……切断されて無造作に彼女の足元に放り出された血まみれの彼の首は、憂いを帯びた眼差しで、ただただ彼女を見つめていたのだった。