白鋼のエリシオン 01 出会い
落ちる。落ちる
―――墜ちる。
何も見えない、何も聞こえない。ただ感じるのは、自分が「墜ちている」と言う感覚だけ。
何故自分は墜ちているのだろうか。何故自分は―――。
思い出せない。自分の名は覚えている。自分の来歴は覚えている。だが、どうしても何故こうなっているのかだけは分からない。何か凄まじい衝撃がこの身を襲ったという事だけは朧気に覚えているのだが。ならば自分は死んだのか? いや、そのような感覚ではない。
ただただ墜ちる。落ちる。深い深い、奈落の底へ。もしこれが地球ならばとっくに反対側の地表へ出ているであろう距離は堕ちた気がする。いや、それどころか大気圏すら越えて落ちているのではないか。
―――そして、最後に感じたのは。眩い輝き。
* * *
「これで、今日の夕食に使う食材は揃いましたね。あ、あと泉のほとりで釣りをしていこうかしら」
森の中を、一人の若い女性が歩いていた。木漏れ日を一身に受けるその姿は、まさに可憐の一言。手にした篭の中には、様々な野草が入れられている。言葉通り、食料なのだろう。
「……あら?」
泉のほとりを見て、女が立ち止まる。
泉のほとり。そこに、半身を泉に浸けるように倒れている男の姿が。
「あの、大丈夫ですか?」
近寄って肩を揺らしてみる。死体ではない。ちゃんと息をしている。しかし、反応はない。
「もしかして、この人……」
女はある考えに至り、何かを決意するかのように頷いた。
* * *
「ん……」
眩い光に開いた目を細める。あの落ちる感覚の最後に気を失って、気付いたらここにいた。どうやら、ベッドに寝かしつけられているらしい。
「あ、気が付いたみたいですね」
声のした方へ目を向ける。視線の先には、部屋の入口に立つ長い栗色のすこしウェーブした髪の少女。20代前半だろうか?
「ここは……」
「私の家です。森の泉で気を失ってるのを見つけて、私がここまで運んできました」
「森の泉だと?」
何故俺は森で気を失っていたんだ? 記憶は曖昧だが、最後に居たのは少なくとも森に落ちるような場所ではなかったはずだ。
そのことを告げると、少女はやっぱりですか、と微笑んだ。やっぱり? 何かしっているのだろうか。
「多分、ここはあなたがいた世界ではないと思います」
「………………は?」
少女が何を言っているのか分からず、数瞬遅れて聞き返す。俺のいた世界じゃないだと?
「はい。まず確認ですが、記憶はちゃんとありますか?」
「ああ。気を失う前の事は曖昧だがな」
「では、エフォルタスという地名を聞いたことはありますか? ここの地名なのですが」
「いいや、ないな……」
「聖アメンテス国は?」
「それもない」
他にも少女は地名や国名を告げていくが、どれもこれも聞いたことのないものだ。本当に異世界に来てしまったということか? しかも、それが分かるとはこの少女、何者だ?
「いえ、私はただ普通の田舎娘ですよ。別の世界から人が飛ばされてくるなんて、結構頻繁にあることですし」
―――彼女の話はこうだった。無尽蔵に存在する世界。お互いに意図して移動することはまず不可能だが、それでも偶然別の世界に飛ばされるということがあるらしい。そして、それは珍しい事ではなく、例えるならば世界がくしゃみをするようなもの。どの世界で、いつ起こるかは分からないが、それでも数秒に一度は無尽蔵の世界のどれかから人が飛ばされる。そして、この世界は人が飛ばされてくることが比較的多い傾向にあるらしい。
「つまり、帰る方法はないと?」
「残念ながら……」
少女がしゅんとなる。
「いや、構わないさ。何か残してきたものがあったわけじゃないからな。……むしろ感謝すらしているよ。ここまでされれば、新しい人生を歩まざるを得なくなるからね」
とはいったものの、これからどうしたものか。当然生活の基盤なんてない。あるのはこの身体だけだ。
「そのことで、ひとつ提案があるんですけど」
「提案?」
「はい。あの……私と結婚してください」
「…………………………すまない、すこし耳が一瞬おかしくなってしまったようだ。もう一度言ってもらえるか?」
「じゃあ、もう一度いいます。私と結婚してください」
―――どうやら聞き間違いではなかったらしい。
「な、何を言い出すんだ君は!? け、結婚だと!? あ、会ったばかりの相手に求婚するなんて、ふ、普通あり得ないだろう!?」
見事に動揺が言葉に表れてしまう。そして、その言葉に少女は見るからに落ち込んだ。
「そうですよね……。でも、私の周りに男の人なんて住んでないので出会いもありませんし、結構あなたが私の好みですし……。なにより、そうすれば一緒に住む名目が立つと思ったんです」
(自分の理由半分、俺の心配半分といったところか……)
悪い提案という訳ではない。なかなか可愛い娘だし、生活の基盤も手に入るとなれば一石二鳥ではある。未知の世界で生きていかなくてはならなくなった身としてはこの提案はこれ以上ない魅力的なものだ。だが、だとしてもあまりにも飛躍しすぎている。なにより。なによりだ。
「そもそも、互いにまだ名前も知らないんだぞ? それで結婚というのはどうなんだ」
はっとしたように少女が口元に手を当てる。今に至るまでそのことに気付いていなかったのか。
「す、すいません。自己紹介が遅れました。私、時槻 九音と申します」
「九音、か。俺の名はヴァン。ヴァン・アルドレットだ。歳は29。まあ、この世界での一年が何日かで年齢は変わるだろうがな。そうだな……結婚はともかく、これからよろしく頼む」
こうして、俺のこの世界での生活は始まった。