最後の神様は明日いなくなります
百年前、一柱を残して神々は世界からいなくなった。
そして明日、最後の神様がいなくなる。
ヒイナが最後の神様の話を祖母から聞いたのは、祖母が子供の頃に住んでいたという家に初めて行ったときだ。祖母は一月に一度、山ひとつ向こうの廃村に行っていた。ヒイナが七つになり、山に入ることを許されたときに「一緒に行きたい」と言ったのだ。
「もう誰もいない村だよ?」
祖母は困ったような顔をしてヒイナに聞いた。その村は親のいなかった祖母が隣村に嫁ぐときに、廃村になったらしい。
「じゃあ、おばあちゃんはどうして毎月行くの?」
「・・・・・・もう、数人しかいないからねえ」
何が、とヒイナが尋ねても祖母は曖昧な笑うだけでなにも言わなかった。そうして誤魔化そうとした祖母に、ヒイナは強引についていったのだ。
まだ朽ちてはいないが人が住まなくなった虚ろさに溢れる廃村をヒイナは祖母と歩いた。鳥の声だけが空気を揺らす、静けさに沈んだところだった。
「誰もいないの?」
「ああ」
二人の声だけが響く。
廃村を抜けると、また山道があった。
「この先だよ」
祖母が指し示すその先に、朽ち果てた社があった。
清らかな空気。
最初にそう思った。
ヒイナ一人でいっぱいになりそうな小さな社だった。かつては色鮮やかだったろう屋根の朱色はくすみ、ところどころ剥げていた。屋根や柱のこった趣向は壊れていた。
森の中に切り開かれた空間には日が差し込んでいた。夜中に見たら怖いかな。そう考えて、ヒイナは否定した。ここは、怖い場所ではない。
「ご挨拶するよ」
祖母はそう言って、背負っていた袋から竹筒と紙包みを取りだして社に供えた。
「なぁに、これ」
「お酒と饅頭だよ」
「誰かいるの」
ヒイナの問いに祖母は微笑む。
「神様だよ」
祖母は少しだけ寂しそうに見えた。
「神様は、昔に人と戦って、いなくなったんじゃないの?」
「百年前の話だね」
「かごをなくしてじゆうをえたってキリト叔父さんが言ってたよ」
人は加護を失い自由を得た。そう表される百年前の戦いだが、ヒイナはその言葉の意味はよく分からなかった。
「こちらに最後の神様がいらっしゃるんだよ」
祖母はそう言って、両手を顔の前で合わせて礼をした。分からないまま、ヒイナも真似をした。
「ササノハ様」
祖母の声に、社の扉が開いた。
「よく来たね、ハル」
低い、柔らかい声にヒイナは顔をあげた。
ずいぶん昔の装束の壮年の男が笑って宙に浮いていた。
「話に聞いていたよ」
「・・・・・・孫の、ヒイナです」
驚いて、驚きすぎてヒイナは普通に挨拶をした。
社の掃除を始めた祖母を見て、ヒイナはとりあえず社の周囲を見渡した。祖母は毎月草むしりもしているのか、踏み固められた地面には特に草花は生えていなかった。
「ヒイナ、幾つになった」
祖母を手伝おうとしたヒイナを神が呼び止めた。
「七つになりました」
「そうか。大きくなったな」
神はヒイナの前までふよふよと空中を移動すると、ヒイナの頭を撫でる仕草をした。何か、大きくて温かいものが頭を包み込むのを感じ、ヒイナは神を見上げた。
「神様は、アマツクニに行かなかったの?」
神々の世界、アマツクニ。
まだ神話にならない神々と人々の争いのあとに、神々が向かったとされるのがアマツクニだった。
神が去ったあとの各地の神域には大きな街が作られた。神の痕跡はどこにもなかった。
「・・・・・・争いが終わる頃、この村で難産の人がいてね」
神は柔らかく目を細めた。
「他の神がアマツクニに向かうとき、本当に危なかったんだ・・・・・・だから、無事に産まれてからここを去ろうと思って、残ったんだよ」
「どうなったの?」
「母親も赤ん坊も無事に、産まれたよ。ただ少し早かったから、赤ん坊が大きくなるまで見ていようと思った」
どこか遠くを見るような目をした神が語った。
「そうしていたら離れがたくて、
このとおりなんだよ」
ヒイナは神を見上げた。昔々の装束を着た、浮いている以外はただの人に見える神。
「寂しくないの?」
ヒイナの問いに、神は微笑んだ。
「ハルが来てくれているよ」
その笑みが日の光に透けてしまいそうに思って、ヒイナは、わたしも一緒に来るよ、と言った。
神はわずかに目を見開いて、そうかい、と笑った。
あれから十年が過ぎた。
祖母は緩やかに、これまで羽織ってきた衣を脱いで身軽になるように何かを少しずつ忘れ、歩みがゆっくりとなり、しかし神様の社には毎月向かい、あの廃村を懐かしむ目は霞み、ある暖かい日、何かちょっと眠いから昼寝するわね、と言って、二度と目を覚まさなかった。
暖かい、晴れた日だった。
神のいない世界でも葬式はある。しきたりはある。
祖母が死んで二日目に、村の外にある墓場に祖母を埋める。埋めるのは男衆のため、ヒイナは土に覆われていく祖母の棺を眺めていた。これから家族は、一抱えもあるくらいの大きめで美しい石を探さなければならない。六日目までは花を供え、七日目にはその磨いた石を祖母の眠る墓の上に置くからだ。それでも。ヒイナは思う。
まず神様に伝えないといけない。
葬式のあと、ヒイナは急いで神の社に向かおうとした。山に入ったところで呼び止められた。
「ヒイナ」
木々の間から、神がふよふよと浮いて向かってきた。
「神様」
神がヒイナの前に浮いて、頭を撫でる仕草をする。
温かい。
「神様」
「うん」
山奥の社の他で神と会うのは初めてだった。ヒイナの視界が歪む。
「神様・・・・・・祖母が、おばあちゃんが、亡くなり、ました」
「うん」
神は微笑んでいる。
「眠ったまま、ちょっと笑って。晴れてて、気持ちいい日で」
「そうだったね」
温かい。
神に撫でられる頭から温かさに包まれて、ヒイナは言葉を続けられずに泣いた。
帰りに、神は、
「ハルは私が送るよ」
と言って姿を消した。
六日目の夜、ヒイナは一人囲炉裏の前で石を磨いていた。平たい石は、ヒイナが幼い頃に祖母とままごと遊びをしていたときに使っていた庭の石だ。
だいぶ磨かれて黒光りするようになった。手を止めて、ヒイナは囲炉裏の炎に照らされた石を眺める。
これを明日、祖母の墓とする。
ヒイナは大きく息を吐き、顔をあげる。
目の前には神が浮いていた。
「神様」
あまり、驚かなかった。
「ハルの石だね」
「はい」
「よく磨かれている」
「はい」
神は、ヒイナを見て、笑う。
「ヒイナ。明日、ハルを送って、そのまま私はアマツクニに行くよ」
「はい、神様」
驚かなかった。
そんな気がしていた。もう何年も、何年も、かつて廃村に暮らしていたという人が亡くなったときいて肩を落とす祖母を見て、少しずつ朽ちていく社を見て、ヒイナはなんとなく思っていた。
ヒイナは、神の加護の対象ではないと。
「ハルが最後の村人だった」
神は柔らかく笑う。
「他の者は皆、送った。もう私が護る者はいない」
「はい」
目に涙が浮かぶのを感じて、ヒイナは慌てて袖で目尻をぬぐう。
「ヒイナ、手を出しなさい」
神の言葉に、ヒイナは顔をあげて手を出した。
そこに空中から緑色の石が落ちた。
親指ほどの大きさの、勾玉だった。
「私の社に奉られているものだよ。持っていなさい」
「そんな大切なものを」
「いいんだよ。明日、社は崩れる。これは神の器ではなく、ただの石になる」
神がヒイナの頭を撫でる。
「ヒイナ、健やかにあれ。加護はない。もう神はいない」
「はい」
「人にはもう、祈る神はない。だが、人は祈るものだ。辛いときには祈りなさい。何も応えはなくとも、そのとき遥か遠くで私はお前の幸いを願う」
ヒイナは手のひらの勾玉を握りしめた。
「はい、神様。ありがとうございます」
泣きながら、ヒイナは言った。神は笑って、溶けるように消えた。
ヒイナは泣き続けた。勾玉は温かく、それを感じて、ヒイナは更に泣いた。