その5
ヒュっと、風がなびく音を聞く。近くの信号機は点滅を繰り返し、その明滅が視神経を無暗に刺激する。
弟からの呼び出しで、自分は夜の更け具合に相まって黒色が深くなった空の下、軽い逍遥とシャレこんでいた。
コートを羽織っているが、寒さが身にしみる。なんだかんだ10月の中旬を過ぎているのだから、当たり前なのかもしれない。着込めば良かったと、少し後悔した。
秋の様相は薄れ、段々と近づく冬の気配を肌身で感じた。静謐とした雰囲気が辺りを侵し、色々な物の存在感を塗り潰していく。無味乾燥とした、中身のない感傷が身のうちを満たしていく気がした。
歩みを進める度に、周りの築年数が上がっていく。駅周辺は段々開発が進むのに対し、この辺りだけ時間が止まったような、いや、時間を逆行しているような印象を受ける。
味気のない、一昔前の街灯が立っている。もうどのくらい使われてないのだろうか。小さい頃は頼りないながらも明かりがついていたと思う。定かではない。
空き家が立ち並ぶ。もうどの位この場所は放置されているのだろうか。町の間隙をぬって、弟に呼び出された場所へと向かう。
その途中自販機を見つけたので、弟の分も含めて二本、自分の分はブラックの缶コーヒー、弟の分には缶のお汁粉を買ってやる。
缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲む。安っぽい、苦い麦茶の様な味が口内に広がり、ホッと息をはくと、白い靄が中空を漂う。
この辺だと信号機すら見当たらない。駅前とは数十年単位の時代の広がりを感じる。とても手軽なタイムトラベルを経験しているようだった。費用はかからない。
曲がり角の多い道に入る。前後の蓋を閉められた感覚がした。視界が狭まり、思考が内向的になっていく。時間も場所も置き去りにして、自身も剥げ落ちていくようで、自分は歩調を緩める。
「あ、兄ちゃん」
家から10分ほど離れた、どことも言えない道の途中。かびた塀が自分の左右から重圧を与え、黒い天井を添えた空が頭上を覆う。ここだけある種の密室が出来ている。そんな感じがした。
「見てみて」
弟の足元には大きな塊と小さな塊が散らばる。これ以上足を踏み入れるには散らかり過ぎて、足の踏み場に迷ってしまう。
元々コンクリートはこんな色だっただろうか、と思案する。月明かりも頼りないから、街灯の恩恵すら感じられないからだろうか。黒々と染まった周囲に違和感をしながら辺りを見回す。
鼻孔をくすぐるような臭いがする。クラっと視界すらも乱す臭いに、そっと自分は鼻の穴を塞ぐ。
「なんだかんだ3回目だから、慣れで結構サクッと終わって物足りないんだよね」
弟は口をとがらせながら、愚痴を漏らし、足元にある裏返しになっている物体を蹴飛ばす。中身の入った重い砂袋のようで、軽く蹴っただけでは全然動かなかった。むきになって、弟は勢いをつけて蹴りあげると、裏返しだった物体がひっくり返る。
その物体と目が合う。自分はそっと目を閉じ、視線を下げる。
ある程度、自分も慣れてきているはずだが、ゾワゾワと背筋を駆け上がるものは何度経験しても気持ちのいいものではない。思う事はないが、感じる事はあるようだ。
息を吐き出し、そして吸いこむ。ツンと鼻をつつかれたような感覚を無視して、目を開け、真っ直ぐと弟へと視線を向ける。
よりによって、弟は着ているコートは白味の強い色をしたコートを着ていた。赤というよりは黒の強い色があちこちにちりばめている。オシャレと言われれば、自分とは違って見た目の良い弟の容姿なら納得できるのかもしれない。
「こんなことなら他のコートにすれば良かった」
少しばかりの後悔を顔に浮かべる。ただ、それは本当に小さなものらしく、すぐにニヤニヤと笑みが見え隠れを繰り返す。
今日、弟は人生で三回目の人殺しを行った。
「人の死って、とても身近な悲劇だと思う。人が死ねば悲しい。至極当たり前、当然人が持ち合わせているものと言っていい。
まぁ、それほどに死ってのはありふれたもので、相対的な価値、希少性が低い。超安価。だから、そんなものにいちいち気を取られる事は非常に時間の無駄だと思う。もっと言ってしまえば、死んだ奴の為に時間を割くこと自体が間違いで、愚かしい事だと思うよ。
とは言っても、おそらくオレも人の死を悲しむだけの感性を持ってる。けど、それは万人に向けられるものじゃない。オレはそれを本当に身近な人にしか向けれないと思う。例えば、さすがに兄ちゃんが死んだらオレは悲しむね。立ち直るのに数年かかるかも。あ、それは大げさかな。兄ちゃんはしぶとそうだから、オレよりも長生きしそうだから、いらない心配かも。
今回殺したのはオレの高校での友達なんだ。別に嫌いというわけじゃない。嫌いどころかその逆、結構気の合う友達だったりする。
まぁ、何が言いたいかっていうと、友達が死ぬことでオレは悲しむかどうか、“友達を殺してみたい”って自分の身勝手な欲で殺し、自分はどう思うのか、オレは経験してみたかったんだよね」
ブランコ位しか遊具のない、橋の下の小さな公園にて、湧き出る弟の声が僅かに響く。弟はブランコに座り、錆びた鎖が音を鳴らす。
さすがに夜も遅いので、眠気が自分の頭の中を埋めていく。欠伸を一つかき、弟の口上の続きに耳を傾ける。
「結果は虚しいものだね。予想はついてたけど、こうなってくると、本当に彼とオレは友達だったのか怪しくなってくる。この手の経験欲に付随する知的欲求は満たしづらいのは欠点だね。検証しなければよく分からないけど、検証したら何回も確認が出来ないんだもん。不都合でならないね」
嬉々とした調子で弟は話す。何がそんなに楽しいのか自分には分からない。ただ、そうして楽しそうにしている弟を見るのは正直悪い気がしない。
「あと何回かは繰り返さないと分かりそうにないなぁ。まぁ、しばらくは他の事して過ごさなければならないだろうけど」
もう少し頻繁に出来たらいいのだけど、と弟は不満を示す。これからしばらくは警察が夜中を闊歩する事は経験上知っている。
弟は時折、夜中に外を出歩いてはこういう事をしている。
やる事はいつも同じというわけではない。公園の遊具をペンキで汚したり、野良犬を殺したり、騒音を鳴らしてみたりと、色々な事をする。
一度、弟がこんな事を話していた。
「オレがこういう事をするのは、ただ知識欲、経験欲を満たしたいだけだよ。経験するという事が俺にとって“知識を得る”ということなんだ」
弟は昔から本を読むことが苦手だった。学校の問題を解くのも、一度回答の見て、解放を真似して書かないと公式などを覚えられなかった。忍耐だけはあったから、成績自体は悪くなかったけど。
「何度、道徳的な悪を繰り返しても、それがなんで悪い事なのかよく分からない。どうして人がそれを戒めるのか分からない。他人の迷惑を考えなければならないらしいけど、それで自分のやりたい事をやらないのは違う様に思うんだ」
そういえば、よく両親に弟は怒られていた。しかし、弟はそれを理解できなかった。ただ“駄目”と言われたからといって、なぜ駄目なのかを自分の中で整理する事が出来なかった。
そういう自身の性分、気質を弟は理解していた。
「理解できないのなら、努力するのは当たり前だろ。努力することは褒められる事なんだろ。なら、努力はすべきなんじゃないのかな。ただでさえオレはハンディキャップを背負っているのだから」
けれど、弟にも人並みに知的欲求があった。知らない者は知りたいし、分からなくても近づきたいし、やったことのないことはやりたい。
「将来オレは大したものをこの世に残せないと思う。それはどうにも、虚しすぎる」
ただ、自制というものは経験だけで得られるものではないようで、弟はこの歳になるまで無邪気に歳を重ねた。
「爪あとくらいは残したいだろ」
弟はそう言葉を締めくくった。その言葉を聞くのは二度や三度ではない。何度も何度も、自身の根幹に傷つけているような印象を受ける位に、言葉を繰り返す。
「次は何をしようか」
そんな、自分の弟である。