その1
ゆっくりと書き続けるつもりでいます。推敲を後回しにしているので、後で一回消して再度投稿し直す場合があります。ナンバリングも投稿回数を示すだけで、話の区切りで分けてません。
暇つぶしにどうぞ
どこまでも続く洞窟を通っているような気がしていた。出口は見えず、ドロドロと濁った暗闇が足元にまで伸びていて、それをかき分けるように進む。
意外に足元はしっかりしていて、意識もはっきりしている。
ただ、その頭で何を夢想ことなく、ひたむきさとか、そういうものも持たず、身体の中を這いずり回る回路の信号の通りに動く。意志もなく、意義もなく、意地もなく。
おそらく出口なんてなくて、自分の時間はこの閉じた世界で収束して消えていく。肉体も精神も、中空に塵となって段々霧散し、最後の一片たりとも“自分”であった事を忘れてしまう。
そんな風に消えていく中で、自分に残るものとは何なんだろうか。
なんて、そんな空想を抱えて、僕は目を覚ました。
小春日和。季節はもう冬にかかり始めているのに、日差しが心地良く、意識をかっさらう様な風が穏やかに吹く。
静かに伏せていた身体を起こす。
視線の先には数字を羅列させた黒板。カツカツと調子のよい音が鳴る。どうやら今は数学の授業中のようだ。担当教師は汚い字を書き散らしながら、説明を宙に漂わせ、一応自分の耳に入ってきた。
視線を降ろす。ノートは開いているものの、まっさらのままである。もう一度視線を上げ、黒板を確認する。授業序盤の板書は既に消されているみたいだった。時計を見ると、もうすぐ授業終了の時刻である。
自分は小さく肩をすくめる。音をたてないようにノートを閉じ、筆記用具をしまう。
一つ、欠伸をかみしめる。大きく伸びが出来ないのが不満であるが、仕方ない。
こんなに良い天気であるのにカリカリとせわしなく数式を書き連ねるなんて、不健全である。何かの漫画のキャラも似たような事を言っていた気がする。
ぽかぽかとした陽気を全身で浴び、どんどん意識が溶かされる。とんとんと軽く机を叩いて、一応眠気と戦ってみるものの、すぐに白旗を上げる。
再び目を閉じる。今寝たら、次起きるのはいつになるんだろう。気がついたら午後の授業も終わっていそうだ。
散々寝ていたはずなのに、すぐに眠気は降って湧き、暗闇の中を埋めていく。窮屈さを感じ始めた所で、自分は眠りについた。
そういえば、さっきはどんな夢を見ていたのだろうか。
「物事に対して批判的な視点を向けるのはもちろん大切だよ。しかし、批判するばかりではいけない。既存の考えを否定するのなら、それに変わる何か、代案を用意しなければならない。逆に肯定をするのならば、誰にも批判されない様に内容を固めていかなければならない。もちろんそれらは、結論を現状維持なんてゴミみたいなもので終わらせるのでなく、常に現状を改善するものとして、論理武装を施し、示さなければならない。
つまりまとめるならば、批判するのであるのならば、時間をかけ、身を労し、責任を負う覚悟を持って行うべきなんだ」
友人は声高々にそう述べ、一息つくように目の前のコーヒーを口に含む。育ちが良いのか、挙動がいちいち上品に見える。自分のように頬杖をついて飲む輩とは違うらしい。
予想していた通り、再び目を開けた時にはすでに本日の授業は終了していた。
特別思う事もなく、帰る準備をし、ホームルームを終えると、いつものように別のクラスに所属する友人が廊下にいた。
そのまま帰宅しても良かったが、校門を出た辺りで、友人が喫茶店に入る事を提案した。
今日は特別用事もなかったので、その提案に乗った。
学校からそう遠い所にない場所にあるその喫茶店は、週一回程度の頻度で訪れる。常連と呼ぶに少ないと思うが、学校よりも過ごしやすいように感じる。
ここでの過ごし方は二通りある。一人で静かに過ごす事と、こうして友人が述べる主義主張を黙って聞くという事の二つだ。
この友人は普段から、並々ならない主張を腹に抱えているようだ。それはどれもこれも重そうで、肩こりを患いそうである。
「であるのに、批判と称したくだらない感情論を振り回し、責任からは目を背ける人が世に蔓延っているように思う。
いや、それはちょっと違うのかもしれない。世間に挙げ連ねられるのは、要するに目立つからなんだろう。絶対数はそれほどいないのかもしれない。
それであるのなら、なおさらに性質が悪い。厚顔無恥である。面の皮が厚すぎて、瞼が開かなくなっているのかと問いたくなるほどに、その様は見苦しく、滑稽である。
批判するという事は、考えて行うものである。ことさらテーマ性の強いものであるならば、向上心を持って思索し、善いと思った行動を起こさなければならない。そんなこと、何百年も前から言われている事であり、日本の一般教養を学べば容易に辿り着けるものである。
欺瞞でそれを貶め、真意を汚し続ける今にどんな意味があるのだろうか。でたらめに積み重ねたゴミのような諦観の先に、何が残るのだろうか」
常日頃、友人はそういう事を考えているらしい。いや、普段はもっとくだらない事を。本人がそう言っていた。
彼にとって、考える内容は何でもいいらしい。ただの一時も休むことなく考え続けるために、適当なテーマを決め、思考を続ける。
「人の感情、思想の多様性、環境など、それら全てを前提に考えなければならないのは、善性である。何が善いか、悪いか。先を探りながら、現状をより良いものへ変える手段を模索する。それが思考であり、その為の批判である。
そして思考したら、行動しなければならない。でなければ思考そのものに意味なんてない。
全ては目的の為の手段である事を、人は知るべきである」
言い切ると、友人は吸いこんだ空気を小さく吐き出す。どうやら今日の演説はこれで終わりらしい。
こうやって友人は自身の頭の中身を吐き出しても、満足そうな表情を浮かべない。普通がどういうものか交友関係の狭い自分はよく分からないが、ここまで長々と話せば満足するものではないのか。
それこそ今の演説の中から引用するに、これはただの手段なのかもしれない。目的は別にあるから、言うなればこれは自身に対する気持ちの奮起のためなのかもしれない。
まぁ、何でもいいけど。
それからしばらくして、自分たちは店を出た。