SEASONS~紅葉~ 12
アパートの前に着いたときの浅見の慌てっぷりは運転手が怪訝な顔をするレベルで怪しかった。浅見がというよりも、それを連れ込もうとしている私に対する不信感だ。視線が鋭くならないうちに会計を済ませて引っ張り出した。タクシーが暫く動かなかったのが恐ろしかったが、大して広くもない道路にいつまでも停止している訳にもいかなかったようで、諦めてブレーキを踏んでくれたので良かった。通報されたらどうしよう。
「あの、え?沙世ちゃん?」
「来て」
戸惑う浅見に手を貸す気もないので、声をかけて部屋に向かう。修也はまだ帰る時間ではないので、当然ながら部屋の明かりは付いていない。鍵を取り出しドアを開けてから、表に出す気はなかったため息を一つ吐いた。
「どうぞ。何もない部屋だけど」
修也がいない部屋に上がることを、浅見はとても嫌がった。
「駄目だよ!?一人の時に男を部屋に入れるなんて絶対いいことないよ!」
「浅見君は何か問題行動でも起こすの?」
うちには金目のものは一切ないけど。米は盗まれたら困る。
「起こさない!沙世ちゃんにも、沙世ちゃんの物にも指一本触れない!」
「じゃあ一先ず入って。ご近所迷惑だし、体調不良の人間を外に放置はできないから」
これは人命救助の観点からの一時的な応急処置だ。言外に伝えると、浅見は大人しく部屋に入った。
うちの学生ボロアパートは安くてボロい分、他の学生アパートよりは広い。松戸以外の住人をあまり知らないけれど、複数の友人を連れ込んで飲み会をする様子が外からも聞こえる。居間兼私室が6畳、隣に小さな三畳の部屋と押し入れ。台所とトイレと風呂がそれぞれ。押し入れの半分は私の荷物置き場にさせて貰って、三畳間は修也が使っている。
片付いていることを目視で確認して、見られて困る物はないと判断して浅見を通す。修也とご飯を食べるのもこの部屋だから、毎回きちんと片付けていたのが幸いした。
「座ってて。なんなら寝ても良いよ」
修也の座布団と、普段使っているブランケットを渡して台所に移動する。部屋に入ってから途端に口数が減った浅見をよそに、冷蔵庫から牛乳を出してマグカップに砂糖と一緒に注ぎ込む。レンジで2分も温めれば手抜きホットミルクの完成だ。
マグカップを持って居間に戻るも、浅見の姿は数分前と変わらぬ状態。だるまさんが転んだでもやっているのか?
「ホットミルクだけど飲める?それとも何も口に出来ない?」
「う、ううん。飲める、よ……」
じゃあどうぞ。目の前に置くと、浅見はしずしずと手を伸ばしてチビチビと飲み始めた。そういえば暖房付けてなかった。エアコンのリモコンを手にし、スイッチを入れる。暖かい日もまだあるとは言え、夕方ともなると冷えてくる。この家は古いから尚更。
旧型のエアコンがブオンと起動すると、部屋の静かさが一層際立った。
……さて、どうしようか。
公園に呼び出したのは私だけど、家にまで呼ぶつもりはなかった。外で話すくらいが丁度いいと思っていたのに、あの場で話す空気ではなかったし浅見の体調が想像以上に思わしくなかったのがいけない。
「それ飲んで、少し休んだら帰りなよ。タクシー必要なら呼ぶから」
お喋りする体力なんてないでしょう。声をかけた責任を三割程度感じたので、すぐに放り出す真似はしない。仮眠を取りたいというのなら、私は数時間ほど外に出て留守にしても良い。修也にはなるべく早く帰って来て欲しいとさっきのタクシーの中でメールをした。私じゃなくて修也がいるなら問題ないでしょ。
「え……大丈夫だよ?電車で帰るし。あ、さっきのタクシー代払わないと……」
大丈夫じゃない人間ほど大丈夫と言いがち。少しだけ血行が巡っている顔色になってきたけど、目に覇気がない時点で駄目だ。
「いらない。今日会えるか聞いたのは私だけど、ここまで重症だと思ってなかった。今の状態でよくホットドッグなんて食べられたね?」
弱っている人間が食べたら追撃をくらいそうな食べ物ベスト10に入るような食品じゃないの。胃への負荷が強過ぎる。
「最近食欲無くて、全然食べてなかったんだけど、沙世ちゃんが作ったものなら食べられると思って……」
またため息。人前で何度もするのは失礼にあたると分かっているけど、生理現象だから止められない。
「いつから食べてないの?夜は寝れてるの?」
子供を叱るお母さんのように、怒りはあるけどそれを押さえながら必要なことを聞く。朧げな記憶だけど、お母さんが大事にしていた手鏡を割ってしまい庭に隠した時、こうやって静かに叱られたような気がした。
「食事は、ずっと。気が付いた時にゼリーとか缶ジュース飲んでたり、誰かが食えって持ってきたクラッカーとかビスケットを食べたり食べなかったり。夜はあんまり寝れてない。気付いたら朝になってて、大学で眠くなる」
浅見は下宿しているから食事くらいまともに取れるだろうし、自分が壊滅的になってもその家の伯母さんがどうにかしているんじゃないかと期待してたけど、そうもいかなかったらしい。思い上がるなよ、勘違いするなよって言われそうで凄く嫌だが、確認しないといけない。
「時期的には、私と浅見君の親戚の人が話をした後で合ってる?」
あの従姉と会って、私が以前にも増して浅見を避け出してから。今までだって会っていた頻度は高くないけれど、徹底的に逃げる態度を示したのは知り合ってからは今回が初めてだ。
まさか浅見にとってこんなにも精神的負担になるとは。
マグカップを置き、座布団から降りて正座をし直す浅見。深々と頭を下げられたものだから、私もぎょっとする。
「従姉が、大変ご迷惑をおかけしました」
初めて見た浅見の頭頂部。勘弁してくれと近付いてこちらも膝を折る。
「頭あげて。従姉さんにはびっくりしたけど、浅見君に謝って貰うことではないから」
浅見の数々のはしゃぎっぷりに比べたら、浅見従姉の暴走はつむじ風に等しい。一方的な言い分に腹は立ったが、こちらもきっちり言い返したので気分は害していない。けれど浅見としたら、従姉の行動は許せなかったのだろう。
浅見が上体を起こすけれど首は項垂れて表情は見えない。
「本当は、とっくにわかってたんだ」
膝に置いてる手にギュッと力が入っている。私は静かに耳を傾けた。
「沙世ちゃんには最初に告白して振られてる。俺に関心がある様子もなかったし、昔遊んだことも覚えていないのは寂しかったけど仕方ないって思った。けど今の俺のことを知って貰えたら、もう一度告白できるんじゃないかと期待してた」
同じ幼稚園に通っていたなんて知らない。小中学校の時は接点もなかった。過去を振り返って思い出す浅見の姿が本当の浅見なのか、前世の記憶の残像なのか分からなくなる。
「凄く悲しいし、ちょっとつらいんだけどさ。沙世ちゃんは、俺のことが好きじゃないよね」
うん、好きじゃない。
多分少し前の私ならはっきり言えた。自分の彼氏が惚れた男。なぜか男にモテる男。この男が私を構うせいで、他の人間から敵視されまくるので関わって欲しくないと思ってた。なんなら今でも思ってる。
「だけど沙世ちゃんは優しいから、俺が周りをウロチョロしてもあまり嫌な顔しないでいてくれた。きっと断りたいこともあったんだろうけど、結局最後は受け入れてくれて、凄く嬉しかったんだ」
積極的に嫌な顔してたと思うんだけど、見えてなかったの?視力検査しておいで?
冗談はさておき、鈍感で気付かないふりをしていることには私も勘付いていた。お互いが本当の感情を見抜いていたけど、核心に触れようとしてこなかった。
振られても諦めずに恋心を抱いている浅見を無視する私と、自分のことを嫌っているけど放置している私を無視する浅見。
言葉にしなければ一緒に居られると思えば、浅見だって踏み込んでは来ない。私はそれを利用して踏み込まれないうちに逃げたがっていた。
膠着状態を打破してしまったのが浅見の従姉。
「このままだったら、少しずつでもこちらを向いてくれるかもって期待してて」
従姉が突撃してきたことで浅見は間接的に振られた。二度目の失恋になるのだろうか。一回目でくじけなかった心が、二回目でポキッと折れた。私を追うか避けるかのどちらかになるとは思っていたけどここまで憔悴するとは予想外だった。
私も人に振られた側の人間だ。最初も二度目も衝撃的だったし三日三晩寝込みたい気持ちだったけれど環境がそうはさせてくれず、時間と共に癒して行くしかなかった。なので浅見も同じように時間が解決するのかと思ったのだけど、先に体力を削ってしまったようだ。
「変に期待しちゃった分、落ち込んだ」
浅見の言葉に恨みがましい念はない。本当に言葉通り、一人で期待して一人で落ち込んでる。多分。
申し訳ありませんでした、なんて私が謝るのも筋違いなので相槌を打つならば、そうですか、と頷くくらい。言わないけど。
室内の音がエアコンの送風音だけになった。
何から話せば良いのか。これで話を終えても良いのか。このままハイさようならと浅見を帰したとして、この男はこれから先ちゃんと食事を取れるのか。
考えて、台所に立った。浅見の肩がビクッと上がったけど見えなかったことにする。冷蔵庫から牛乳を取り出して、自分のマグカップに注いでから温めずに部屋に戻る。浅見に出したマグカップの対面にそれを置き、再び腰かけた。
「ホットドッグに入れてた手紙、読んだ?」
「えっ……?」
「入ってなかった?」
あのアイドル、まさか捨てたか?
「う、ううん。入ってた。封筒に入った、あれは……手紙?」
引っかかったのそこか。ちゃんと薄緑のレターセットを使って書いた手紙だよ。宛名あったでしょ。
中身は全部ご飯の作り方だけどさ。
「あれは料理が出来ない子供でも作れるような、適当な病人食のレシピ」
粉末のだしと水を入れた鍋にコンビニで買ってきた鮭おにぎりを入れて火にかけるお粥もどき。インスタントのスープと溶き玉子を電子レンジで温めて作るなんちゃって茶碗蒸し。砂糖と牛乳を入れて温めるだけのホットミルク。美味しいかと聞かれたら万人が喜ぶ味とは言えない。いい大人ならもっと良いもの作れるだろうと怒られるレベルだ。少なくとも、下宿先で温かいご飯を食べられる人間に教える内容ではない。
「小学生の頃、お母さんがご飯を食べられない時に私が作ってたやつ」
食が細くなっていく母を見るのが嫌だった。食べられないということに恐怖を感じた。
私が小学校に入学してすぐの頃、母の病気が見つかった。詳しい病名などを子供に知らせる筈もなく、具合が悪いから病院に行く、お腹が痛いから少し休む、悪い所がないか泊まりで見て貰って来る、漠然としか教えて貰えなかった。
通院と入退院を繰り返す母を助けるために、父と私で家事を手伝っていた。修也の送り迎えや買い物は父親が。洗濯物の取り込みや掃除機かけ、ゴミ捨てなどは私の仕事だった。母は病気になってから通院入院以外は家にいたので、小学校から帰ると遊びにも行かずに母の手伝いをしていた。
最初の頃はご飯の支度が出来ていた母も、徐々に体力がなくなりベッドで横になることが多くなっていった。父親が総菜や弁当を買って帰るようになり私たちの食事はどうにかなったけれど、母の口には合わずにいつも食べられなくて残していた。
病気と食の細さからどんどん痩せて行く母を見るのがつらくなって、少しでも食べて欲しいと幼いながらに考えたのがあのヘンテコなレシピだ。最初は普通のおにぎりを作っていたけど、ご飯を炊いていなかったり冷蔵庫が空の時に近所のコンビニに走って何が出来るか考えた。私が作ったよ、と言えば母も一口、二口は食べてくれたから。
私が二年生になった年の秋に入院した母は、翌年の冬に小さくなって帰って来た。
「浅見君には申し訳ないんだけど、小学校の記憶ってほとんど覚えてないんだよね。特に一年生から三年生の思い出がないの」
授業内容は覚えているけど、授業の光景はわからない。学校行事もおぼろげだ。母親がいなかったことは確かだけど。放課後に誰かと遊ぶこともなかった、友達と呼べる子はいただろうか。
母が亡くなってから周りの大人が気を遣い「沙世子ちゃんと仲良くしてあげなさい」と声掛けをしてくれたのか、高学年に上がった頃には優しい友人ができた。そこに浅見の姿はなかったね。
「ごめんね、私は浅見が思い出せない」




