紅い花園
暗色の中で焔が舞い乱れている。空気を焦がし、地上を焼き、熱気を放つ焔の渦は異様とも言える。何故ならその中心には、通常では焼き殺される筈の人間が平然と立っているのだから。
晴天でありながらどこか陰惨な臭いのする闇夜は取り払われ、その代わりに眩いばかりの光が空間を支配している。しかしそれは神々しいというよりも禍々しいものであった。
留まっていた空気は流れ始め、静的であった事象の全てが動的になりつつある。其処に密室のような息苦しさは無く、荒々しい外界の開放感のみが存在する。
何よりも先程までとは恐怖の質が違う。じわじわと対象を付け狙うようにしていた眼に見えない恐怖は、純粋な力のみの赤く暴力的な恐怖に上塗りされてしまっているのだ。
南屋灯の身体を借りている二重存在アリカは、水のように形状を絶え間なく変化させ続けている紅色の壁の向こうで人知れず息を呑んだ。
思考がどうにも纏まらない。混乱しているのである。
――あれは誰だ?
火の濁流に囲まれているその人物は自分の知っている栖小埜葎という青年ではない。ましてや、その二重存在であるガラでもない。だとすれば、あれは一体誰なのだ。
強い突風に煽られ、焔の勢いが一瞬だけ治まった。焔に遮られていた葎の姿が、熱で歪んでいる空気の向こう側に線のぼやけた像として映し出される。
紅い眼――葎の眼は明るい紅い色に染め上がっている。二つの赤い光は静けさを伴った動きで、アリカの方にその焦点を向けた。
麻痺したように動けないでいる二重存在の少女は、瞬き一つせずに焔を纏う青年を見返した。
鳶色の不信感と恐怖が混ざり合った眼が赤い眼に無言で訴えかける。
お前は何者か――と。
しかし、赤い眼は何も答えようとせず、ただひたすらに哀れむような視線をアリカに向けてくる。それは同情するような、ある種の共感が籠ったものである。
何故そのような視線を自分に寄越すのか、アリカには全く解らなかった。自らに同情される理由も謂れもない。しいて言うのなら、この危険な状況こそがそうだろう。
とにかく――と、アリカは葎の姿をしている何者かに、威嚇するような視線をぶつけた。
しかし赤い眼が動じる事は無い。憂いのような色を湛えたまま静かに見返してくるのみだ。
鋭い視線は悉く鈍り、眼光ですらも焔の前では霞む。
ふいに葎の視線が焔に包み込まれている羽藤涼麻の方に動いた。彼は横たわる羽藤涼麻を一瞥してから再びアリカに向き直った。それを見たアリカは葎が何を言わんとしているのかを察した。
神妙な顔でアリカは頷く。あれの中身が何であれ、今は素直に従うしかあるまい――とアリカは不承不承それを受け入れたのである。彼女は気を失っている羽藤涼麻の許へと駆け出した。
赤熱の嵐を掻い潜り、仰向けに倒れている彼をひったくるようにして抱き抱える。亡者達は焔を恐れているのか、ある一定の距離を保ったまま近づこうとしない。単に雅峰の注意がアリカと羽藤涼麻から逸れたからなのかも知れないが、逃げる側としては好都合ではある。
アリカは羽藤涼麻を抱えたまま焔と亡者達が入り乱れる場を走り抜け、それらの影響が及んでいない背の高い木の上へと逃れた。
羽藤涼麻が保護されたのを見届けた赤い眼は、すう、と細められ、爆ぜる火焔の大海へと滑らかに移動した。其処には艶やかな焔の色とは似ても似つかない気味の悪い赤い色が蠢いている。遠目では灯火を映し出しているただの赤い壁にしか見えぬが、よくよく見ればそれが大勢の赤色の亡者達が寄り集まっているものである事が判る。亡者達は自分を焼く業火に怯え震えながら、皆一様に苦しそうに顔を歪めている。魂であろうとも、消滅はしなくとも、痛みだけは生きていた時分と同様に感じるのである。
亡者達の中心には焼け焦げた右腕をもう片方の腕で抱えた男、伊井都雅峰が立っていた。
雅峰は眼に赤々と優雅に揺らめく焔の花園を見て、狂気染みた笑顔を浮かべた。
愉しそうだ。否――愉しいのだ。眼の前に強大な力の塊、極上の魂があるというだけで、右腕を絶えず襲っている呪いのような痛みなど忘れられる。それよりも――。
喰らいたいのである。最早制御の出来なくなりつつある凶悪な食欲のみが彼を突き動かしている。それは自分の意思を持って行動しているというよりも、身体自体が勝手に反応し、動いている方が正しい。
箍が外れた獣ように、本能と欲望のまま雅峰は動き始めた。
「ふははっ……ひひっひひ……。素晴らしい……。…いい……。凄くいいよ……! いいなあ、それ……喰いたいなぁ。俺に……僕にそれを喰せてくれよ」
雅峰の背中から人相の区別もつかない亡者の上半身が彼の黒く焦げた腕に伸びていく。その亡者の頭は、通常の人間の頭部よりも一回りも二回りも大きく、それに合わせて口も拡大されている。
上半身だけの亡者は雅峰の椀部の手前で動きを止めた。
もぞり、と閉じられた口元が波打つ。ぬるりとした赤い唾液が糸を引き、巨大な口が開く。次の瞬間、雅峰の腕は亡者の口によって骨ごと噛み千切られた。
正真正銘の血液が炭化しかけた黒い薄膜のような皮膚と共に、雨上がりの汚泥のように滴り落ちる。
血管は焼けているようなので出血は少ないのだろうが、それでも神経は辛うじて通っている。腕を齧り取られたとなれば並大抵の苦痛では済まない筈だ。仮令痛覚が麻痺していたとしても、人間は視覚や嗅覚、聴覚などから取り入れた情報からでも痛みを脳内に構成し、鮮明に再現してしまう。
何かしらの方法で認識する事で人は痛みを感じるのである。無論、痛みを感じる対象に苦痛に対する拒否権はない。五感のいずれかが正常に働いている以上否応なしに『痛み』は対象に襲い掛かる。それは雅峰も例外では無い筈だ。
しかし、彼は耐え難い感覚にも哂ったままの表情を崩さない。
彼の場合、痛かろうが痛くあるまいが、食事にさえ支障をきたさなければ問題は無いのだ。
「ずるいよなぁ……。真さんも……お前も……そんな風に俺には無い力を持っていてさぁ……。いや……お前らだけじゃない……。みんなずるい。だって私と違ってちゃんと自分が何であるかって解ってるような顔をして生きてんだもんなァ……。羨ましい……ッ。ずるい……ッ。吾も欲しいのにさ……!」
雅峰は哂うのを止め、悔しそうに歯噛みした。鈍い色の瞳が闇に映える。しかし彼の眼は死んでいるかのように光を失っている。虚ろであり、夢の中を彷徨っているかの如く気力に欠けているのだ。
焦点の定まらない胡乱な瞳は、焔を映しながらぐるぐると動き回り、葎の前で止まった。
暗い嫉妬の光が瞳に宿る。理性のある冷たい赤色である。雅峰は前歯で下唇を深く抉った。
「欲しいのに……どうして手に入らないんだろう」
ぽつりと雅峰が呟いた。其処には途方もなく乾いた感情が籠っていた。
ぶち、と薄い皮膚が破ける音と同時に、黒焦げた雅峰の腕の先端から毒々しい色の真っ赤な液体が強い勢いで噴出してきた。それは赤い亡者達の身体と同質のものが液状化したものである。
液体は血飛沫にも似た飛沫を飛び散らせながら、朧げな腕の形を作り出した。骨子。血管。血肉。皮膚。全てが自在に変化する赤い液体によって擬似的に構成されていく。瞬く間に、色以外は普通の腕と何ら遜色のないものが現れた。色彩のみが狂っている。
赤い腕、赤い手を雅峰が確かめるように動かすと、その色は元の表皮と同色に戻っていった。
とりあえずの動作には問題が無かったらしく、彼は自らの視線を腕から離し、再度葎の方へと向けた。
「なぁ、栖小埜君。君はどうしても欲しいものがあったらどうする?」
そう雅峰が言った瞬間、彼の背から無数の赤き鎖が放たれた。
最初に亡者が現れた時と同様の光景である。ただし鎖は亡者達を繋ぐその姿を露にしながらも止まる事は無く、獲物を捕らえる蜘蛛の糸のように葎の身体に巻き付いた。
何重にも念入りに。動けないようにと重苦しい糸は絡み付いていく。一つの強固な塊となった鎖は、頭部や首を除いた葎の全身を覆い、完全に彼の手足の自由を奪ってしまった。
焔が止む。光が消える。ずるずると鎖が手繰り寄せられていく。底が抜けてしまったかのような闇の中には、雅峰のどこか濁ったような色の赤眼と、葎の蛍光色のように明るい赤眼だけが存在している。
月光の下で雅峰は愉しげに口を開いた。
「俺だったらねぇ――無理矢理奪うかな。こんな風にさ」
雅峰は目前に迫った葎の顔を凝視した。
葎に変化はない。表情を全く変えず、無言で雅峰を見返している。先程と同じである。
肌触りの悪い風が木々に吹き当たり、枝葉を強く揺らす。二人の青年の髪が緩やかに靡いた。
「返事は――相変わらず無いのか。ふふ……嫌われたもんだ。まあ、それも当然か」
ぼんやりと発光する両眼を大きく開き、雅峰は首を少しだけ傾けた。
「……ところでどうだい? この力はさ? 凄いだろう。他人を喰らって自分の力に出来るんだ。何人も食べたんだ。ちゃんと一人一人の顔も憶えているよ。喰らった人間は儂の一部になるんだからねぇ、忘れるなんて有り得ない。ある意味、皆俺の中で生きてるんだ」
返事が無くとも雅峰は自己満足的な独白を止めない。
それは買って貰ったばかりの玩具を、他の子供にひけらかしている子供のような口調である。罪を罪とも思わず、恥ずかしげも無く胸を張る。そのような恥知らずな自慢話を雅峰は垂れ流し続けている。
「安心してくれよ。君もガラも忘れないよ。ちゃんと俺の中で生き続けるのさ。だからさ――」
言葉が止まる。ふと、葎の鮮やかな赤眼が笑ったような気がしたのだ。
「――醜いな、お前は」
冷え切った嘲笑が小さく響き、雅峰の神経を逆撫でした。
「醜いぞ、醜くて眼も当てられない」
一応は葎の声であるが、人間の声とは到底思えない、温かみが感じられない声色である。
気が付けば葎の眼孔に収まる二つ揃いの赤眼が怪しく艶やかに輝いている。
雅峰はその眼が痛くなる程の鮮烈な色彩に得体の知れない恐怖を感じ、僅かに身を引いた。
「お前の『飢え』には『怒り』が、『悲しみ』が足りない。ただ貪り喰らうだけなのなら、畜生でも出来るわ。所詮貴様の『飢え』は畜生のそれと同じ。己を律する事も叶わぬ醜悪な剥き出しの本能だ。その鎖には相応しくない。その程度では鬼に哂われるぞ――」
葎を縛る乾いた血のような色の鎖が、内側から赫灼とした光を放ち始めた。
異常な熱量を感じ取った雅峰は鎖だけはそのままに飛び退いた。
空気が朱に染まる。不気味な程に静かな焔が鎖の隙間から溢れ出している。
夕焼けにも似た色の光は、紅、赤、橙、白――と色彩を変化させ、いよいよ限界を迎えた。
「――燃えて散れ」
白く変色していた鎖が砕け散る前に、雅峰は葎の拘束を解いた。本能的な恐怖が彼にそうさせたのだ。
軋る音で闇を切り裂きながら鎖が戻っていく。その直後、眩い紅焔が葎の身体を包んだ。
生きているかのように動くその焔は、空気を、水分を、そして何もかもを喰らい尽くし、一瞬にして葎の周辺を灰と化し、溶け出した地面がとろとろと流れる地獄のような光景へと変貌させた。
事前に鎖を解いていた雅峰はその凄まじいまでの熱量を誇る焔の直撃を喰らわずに済んだ。
が、まともに当たらなかったものの、爆熱の余波は強く、雅峰の皮膚を易々と黒く焦がした。
「あ――あああッ! 熱い! 熱い――」
全身を熱風で焼かれた雅峰は、身悶えしながら――。
「アハハッハハハッ! ハハハハハハ!」
――狂った声で哂った。
焼き散らした衣服の切れ端からは、何事も無かったかのような傷一つ無い皮膚が覗けている。見れば雅峰の体表の一部は未だ焼け爛れているが、先程彼の腕を再生した血液のような液体が次々にそれらの火傷を覆い、元の状態へと戻しているのが分かる。
燃え尽きた衣服も例外ではなく、赤い液体によって形を、そして質感までもが再現されている。
完全に元通りとなった雅峰は、逆巻く焔の中に佇む葎を物欲しげに見た。
「いいなぁ、それ! そうか、『飢え』が足りないのか……。じゃあ、もっと欲しがらなきゃなぁッ!」
氾濫した濁流のような勢いで、雅峰の背から歪な形に変形した亡者達が溢れ出してきた。
何やら先程とは若干表情が違う。苦痛に彩られていた筈のそれらの顔が、飢餓に苦しむ人々のような顔へと変貌している。動きも先程よりも活発になっている。
そればかりではなく、手当たり次第に――地面に敷かれている石畳ですら亡者達は食んでいる。
雅峰の異常な飢餓感が、鎖を通じて亡者達にも感染してしまっているのである。
がり、がり、と硬い造形物を齧る音を鳴り響かせつつ、亡者達は目標を艶かしい紅の渦中に立つ葎へと定めた。
「……汚らわしい」
動き出した亡者達に対し、葎は小さく呟きながら空気を撫でるように宙に左手を滑らす。
滑らかな弧を描く手の残像から鬼火のような火球が幾つも現れた。燈篭のような柔らかな光を放つ火球である。しかし、その内部に秘められている熱量は計り知れない。
耳が痛くなるような地響きを打ち鳴らし、亡者達が葎の方向へと雪崩れ込んでくる。
宙に浮いている火球が大きく広がり、亡者達と葎の間を明確に隔てた。
紅蓮の境界に阻まれている亡者達は焔に焼かれまいと数秒の内のた打ち回っていたが、暫くすると焔に向き合い、何と焔自体を手で掴み、口に運び、喰らい始めた。
じりじりと焔が亡者達に押されていく。劣勢になりつつある焔は身を翻すように荒れ狂い、蝿のように集ってくる亡者達をなぎ払った――が、払おうが吹き飛ばそうが、亡者達は治りの遅い傷跡から染み出す血のように湧いてくる。いつしか焔は葎の周囲を囲うのみとなった。
輪を縮めていくように、少しずつ、されど着実に亡者達は焔の檻を侵食していく。
雅峰は己の背中から伸びる鎖を掌で弄びながら、鎖の終着点。つまりその鎖に繋がれ、重なり合いながら今も焔を苦しげな表情で口に入れ続けている亡者達に歩み寄った。
「俺の『飢え』は足りたかな?」
亡者達にすっかり覆い隠され、姿が見えなくなっている葎に、彼は呼びかけた。
無数の呻き声に掻き消されてしまうのだから、無論返事など聞こえる筈もない。
「さあて……お次は……」
雅峰は群生している幹の細い針葉樹の林に向かって振り向いた。
其処には難を逃れたはいいが、動く事もままならないアリカが、気絶している羽藤涼真を土嚢でも担ぐようにして右肩に背負い、木の上でじっと息を潜めている。
にたり――と不気味な笑みを浮かべ、雅峰は舌なめずりをした。
葎が片付き次第アリカ達を襲うつもりなのだ。自分の優位は不変であると彼は信じて疑わない。
全てを最後には自分が捕食出来る――到底自分には及ばない羽藤涼麻や、アリカならば尚更だ。
「あっちは……そろそろ終わってる頃か」
彼はもう一人、単独で動いている自らの分け身が今頃どうしているかを考えた。
ふざけた性格ではあるが、肝心な部分は手を抜かない。ましてや相手は一人。返り討ちにされる事などまず無いであろう。余程の不測の事態が起きない限りは滞りなく済む筈だ。
「……今夜は腹が膨れそうだなぁ――」
弓形に湾曲した赤い口を、霧のように細かい光が照らす。
蒼白い月夜の下で、満足そうに雅峰はひとりごちた。
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どうして彼女は笑っているのだろう。
何故悔恨の一つも無いような、晴れやかな表情で笑っていられるのだろう。
腕の中に抱き止めた彼女は羽根のように軽くて――直ぐにでも崩れてしまいそうなほどに脆かった。
間違っている。彼女がこんな目に遭うなんて、そんなの間違っている。
確かに彼女は俺を欺いたかも知れない。謀り、騙し、偽ったかも知れない。
最初から俺を利用するつもりで近づいてきたのも、また事実なのだとも思う。
だけど。それでも俺は彼女の事が好きだった。真実が何であろうと、その気持ちに偽りは無い。
彼女の腹から刃を抜き取ったあいつは、ぴくりとも表情を変えずこちらを面白く無さそうに眺めている。いずれ俺も殺すつもりなのだろう。あいつにとってそれは造作もない事なのだ。
卑怯者め――そんな空虚な言葉を叫んだ所で意味は無い。握ったままの柄に爪が強く食い込む。力を入れ過ぎて罅が入った。何一つ出来ない自分が歯痒い。
俺は持て得る限りに憎しみを籠めてあいつを睨んだ。あいつは塵屑でも見るかのような視線を向けると、彼女の血がたっぷりと塗り付けられた刃を袖で拭った。
金色の鱗粉が宙を舞う。僅かな光でさえ反射しながら煌いて――綺麗な筈なのに堪らない嫌悪感しか感じない。見ているだけで喉元に熱いものが込み上げてくる。
ふいに腕の中の彼女が俺の顔を両手で引き寄せた。何かを言おうと口をパクパクと動かしている。
どうしても彼女が言っている事が聞き取れない。耳を近づけても何を言っているのか解らない。
そうか――そうだった。これは夢なのだ。俺は今、夢を見ている。だから――。
大切な彼女の言葉も。声すらもまともに聞き取れないのだ。
俺は眼を凝らして自分の見ている情景を再度認識しようとした。何だ。ちゃんと見てみれば全てがおかしい事に嫌でも気が付く。彼女にも、あいつにも顔が無い事に。
景色すらもぼんやりと霞んでいて、自分が居る場所の輪郭すらまともに捉え切れていない。
何て嫌な夢なんだ。早く目覚めてしまいたい。いつまでもこんな場所に居たら気が触れてしまいそうだ。もしかして違う――のか。既に狂ってしまっているからこんな歪な夢を見ているのか。
何でもいい。俺はこの先を知っている。早く終われ。もう二度と同じ光景を見たくないんだ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。あんな思いをするのはもう嫌だ。
――嫌だと思っていても、場面は次のものへと刻々と移り変わっていく。
彼女の顔が真正面に迫る。顔の無い顔が、存在する訳がない口を動かし、俺の名前を呼ぶ。
彼女の顔が――近くに。赤いものが――唇から。
仄かな血の味と共に涙が零れ出た。
「――もう止めてくれッ!」
深い水底に沈んでいた意識が自意識の水面へと浮き上がった。
「はぁ……! はぁ……! はぁ……! う――っ……」
嗚咽が込み上げてくる。不快感が喉元から胃の中にまで深く染み込んでいるようだ。ずっと奥にある深い場所から意識の表層に急浮上した反動なのか、強い眩暈がする。
俺は一、二度吐く真似事をしてから胸を押さえた。
気持ちの悪い感情を吐き出そうにも、中身が空っぽで吐き出せない。
嫌な夢だった。いつも以上に生々しくて、それなのにはっきりとは思い出せない。
不安感――とは違うのか。限りなくそれに近い感情が湧いてくる。内容を思い出せない夢を見た後は、いつもこんな気持ちになる。例えそれが良い夢であろうが悪い夢がそんな事は関係がない。
儚い夢の残り香。夢を見ていた時の感情を、そのまま夢の中に置き忘れてしまったかのような喪失感。郷愁にも似た、胸を締め付けられるような痛み。それだけが自分の中に取り残されている。
落ち着きを取り戻すと声が聞こえてきた。美しい歌声が聞こえるのだ。
これは――先程聞こえた歌声と同じ声。誰が歌っているのか。綺麗な音色だ。
だが、綺麗だが、酷く悲しい旋律を奏でている。
水気のない乾燥した風がどこからか吹いてくる。声はその風に乗ってこちらへと流れ来ている。
この風は一体どこから吹いているのだろう――そう思い、俺は周囲を見渡した。
息を呑む。空が、大地が、何もかもが紅色に統一されている。始めこそ火が全てを覆っているのかとも思ったが、そうではない。無数の紅い花が地上に生い茂っていて、燃えるような茜空がそれを内包しているのだ。現実には有り得ない光景という訳でもないが、かなり現実離れしている。本来自分が居るべきではない場所に迷い込んでしまったかのような現実味の無さがある。
紅い花。それは数え切れない程の彼岸花だった。成る程、茎の上に咲いた幾つもの花弁は爆ぜていて、焔のようにも見える。それらが寄り集まっているのだから、さながら大規模な火事のような光景にも見えるのも何ら不思議ではないだろう。
一先ず立ち上がってみる。手足の感覚はちゃんとある。本物の夢の中のように身体の自由が利かないという事は無い。あの独特のふわふわとした浮遊感すら感じられない。
此処はガラの世界なのか――それも違うような――。
漠然とした勘だが、此処にあいつは居ない気がする。
ずきり、と鈍い痛みが頭の芯を突き刺す。その痛みにこれが夢ではない事を自覚した。
「何なんだよ……。何が起きてやがるんだ……。一体誰がこんな所に……」
額を親指で押さえながら俺は呟いた。
勿論この場には誰も居ない。それでも呟かずにはいられなかった。
とりあえず、歌声が聞こえてくる方角を目指そうと歩み始めた瞬間――。
「――私だよ。私が此処に貴方を呼んだの」
独り言のつもりで放った問いに返事があった。いつのまにか歌が止んでいる。
風が花々を吹き揺らす音の中で返ってきたのは透明な女性の声だった。女性と言うより少女というのが正しい。まだ幼さの残るものであるが――それにしては成熟したような声。
ああ、そうか。これが奇妙な歌声の主の本来の声なのか。
この声を俺は以前にも聞いた事がある。確か――夢の中で。夢の中で聞いた。
だが、その時に聞いた印象とはまた違った感じがする。
振り返ると、深緋色の着物を着た少女がこちらを見上げていた。
――この子は――。
見た瞬間に身体が痙攣のように一瞬震えた。声が聞こえていたので、当然其処に誰かが居る事は分かっていた筈なのに、それでも驚いた。少女が着ている着物のせいかも知れない。帯だけが黒く、後は全て彼岸花と一体化してしまっている。少女の日本人形のように白い顔と、黒い髪。そして漆黒の帯のみがこの紅い世界から浮いているのだ。浮いているというのなら、自分だって十分浮いていると思うが、俺の場合浮いてる浮いていない以前に、そもそもこの空間に居るべきではなく、完全に蚊帳の外といった感じがする。
「あははは……どうしたの? 吃驚しちゃった?」
少女は何故か寂しげな声を出した。その声が引っ掛かる。
この声は――。
「違うよ。貴方が想っているのは私じゃない」
心を読んだかのように、紅い少女はそう言った。
「ちょ……ちょっと待ってくれ……。その前に君は……」
単純な問いかけが尻すぼみに消えていく。とにかく思考がごちゃごちゃと混線してしまっている。こうなると舌も上手く回らないし、口もほぼ開閉するだけのものと化してしまう。
有難い事に紅い少女は俺が言わんとしている言葉を汲み取ってくれたようで、くすりと笑い、順を追って話すから――と、俺の手を掴み取り、歩き始めた。
「えっ……あ……え?」
どうしてこんな状況になったのかも上手く呑み込めないまま、手を引く彼女の後を付いて行く。
足の踏み場もない程に地面を埋め尽くしている彼岸花の道なき道をひたすらに進む。
少女は振り返らずにぐんぐんと紅い花の中を突き進んでいく。何だか声を掛けるのも憚られるような雰囲気がある。何か言わねばなるまい。されるがままではなく、ちゃんと質問をして。
しかし、先に口を開いたのは俺ではなく少女の方だった。
「どうしてこうなったか――って疑問に思っているでしょう」
――紅い瞳。
「貴方達が危なくなったから。だから私が出てきたの。……安心して、今の所は無事だから。でも……そんなに時間はないから急がないといけないけどね」
少しだけ振り返った少女の眼は、伊井都雅峰のように紅く染まっていた。
状況が状況なだけに表情に表れていたのだろう、少女は俺の顔を見ると苦笑した。
「私は敵じゃないよ。私はいつだって葎の味方……。信じられないでしょうけど、今は信じて」
不安ではあるが害意は無さそうだ。それに本当に害意があるのなら、とっくに背中を刺されている。先程彼女は俺の真後ろに立っていた。あの位置からなら不意打ちなど造作も無かっただろうし、何より立ち上がるその前には俺は眼を閉じた馬鹿みたいに無防備な格好で寝ていたのだ。何かするつもりなら、わざわざ起きて待つ必要は無い。寝首を掻けばそれで済む。それをしないという事は、とりあえずは敵ではないという事に繋がる。
だが素性を全く知らないのも考えものだ。せめて名前ぐらいは聞いて置かねばなるまい。
「あ、あのっ……君は……ええと……どちらさまで……?」
少女は不思議そうな顔で首を少し傾けた。
「名前……憶えていないの……? なら仕方ないね。…………私は――」
途中まで言いかけた所で少女は口を噤んだ。軽く眉を寄せているが、表情自体は笑顔だ。
「私にとって名前なんてあって無いようなものだから」
今度は困ったような顔で少女は言った。
「名前が無い……?」
「そうだよ。最初……私には名前が無かった。葎が……貴方が私に初めての名をくれた……。きっと貴方はその事すらも憶えていないでしょう」
ああ、またか。これもまた俺の知らない過去に続いているのか。
「……憶えていないんだよね。知ってるよ。ずっと此処から貴方と彼を見ていたもの」
「彼って……ガラか? あいつと君はどんな関係――」
――自分の手で一度殺したなんて言えないよなぁ。
「い……」
脳裏に焼き付いた伊井都雅峰の言葉――あれはどういう意味なのだろう。
頭が冴えてくるのと同時に疑問が泡のように沸々と溢れてくる。
ガラが俺を――。
紅い少女は、その夕陽のような眼をこちらへとじっと向け続けている。彼女は一体何を見ているのか。何だか心の底を覗き見されているようで無性に居心地が悪い。
紅い少女がゆっくりと唇を動かした。
「事実が真実とは限らない。本当に信じるべきものは他人の言葉ではなく、自分の言葉――」
一面に広がっている紅の花が風にざわめく。
焔の欠片のような花々の色と茜空の光が相まって、少女の白い肌が真っ赤に色付いた。
停留した時間の中で少女は続ける。
「一つだけ……。彼が貴方を殺したのは本当の事。でもね、彼は貴方を助ける為に殺した。それは貴方のせいでもあって、私のせいでもある。彼は自分を犠牲にして貴方を救った」
あいつが俺を殺した――それは事実なのか。いや、何となくそんな気はしていた。あのような自分に有利な状況で伊井都雅峰が嘘を吐く理由が見当たらない。
しかしどうにも実感がない。俺には死んだ覚えもないし、ガラに殺された記憶もない。
「………あいつは……」
伊井都雅峰の言葉が真実だとして、眼の前の彼女の言葉も真実だとする。両者は共通していながらも、どこか受ける印象が違う。伊井都雅峰の言葉だけでは、ただ俺がガラに殺されたという事象だけしか頭に思い浮かばない。その他の情報が少な過ぎる。しかもガラはあえてそれを黙っていた。
後ろめたい事があったからなのか――あいつはあの時何も答えなかった。
紅い少女の話では、ガラは何かしらの理由があって俺にそれを黙っていたとも推測出来る。
何か――理由があって。
そうか。それも俺の過去に結び付いているのか。それがあの煮え切らない態度の理由。
「あいつは……何を隠しているんだ……?」
少女は眼を伏せた。言うべきか迷っているようにも見える。
「貴方に何も言わなかったのは――ううん、違うか……言えなかったのは貴方の為」
ぽつぽつと紅い少女は語り始めた。
「昔の記憶を思い出してしまえば、きっと貴方は自分を責める。それを防ごうと彼は重要な部分だけはぼやかして、曖昧な言葉で貴方との関係性を塗り固めた」
それではあいつのあの人を喰ったような性格も――偽りのものなのか。
「私も教えたくない。葎が悲しむのなんて見たくないもの」
少女は伏せた眼を上げて、恐ろしい程に紅い瞳をこちらに向けた。
「でも、どうしてもと言うのなら……」
教えてあげるよ――。
「知ったら――何か変わるのか……?」
紅い少女は嫣然と笑った。
「それは記憶の蓋を開けてからからのお楽しみ」
臆病にも思い悩んでいる。どうするべきか――そんなの解っているのに。
本当に訊いていいのか。それとも止めるべきなのか。しかし、それでは後悔するのでは。
頭の周りで自分の声がぐるぐると回っている。
「貴方は貴方の信じるものを信じればいい。自分が何を信じればいいかは知っている筈。……葎がどのように彼の事をどんな風に考えているのか私は知っているよ」
断ち切れない迷いが錠付き鎖のように連なって、自分の知らない不透明な過去に続いている。
それは俺の首に繋がっていて、ぐいぐいと喉元を締め上げてくる。鎖を外す鍵は自分自身が持っているのに、中々外す事が出来ない。鎖が外れてからが心配なのだ。鎖が外れても一人で歩き出せるのか――そう思うと鍵を握っている手に力が入らなくなる。
眼の前には真っ黒な闇が広がっていて、鎖の外れた俺は其処を否が応でも進まなければいけない。一人で。孤独に。淡々と。鎖を外せば背後にあった道標も同時に消えてしまう。
そう――俺を繋いでいる鎖こそが道標でもあるのだ。それを失えば帰り道が分からなくなって、振り返って戻る事も出来なくなってしまう。後はひたすらに進み続けなければいけなくなる。
鎖が無ければ快適だろう。苦しめられる事もない。だが、鎖が無くては過去には帰れない。
だから――躊躇っている。
「……じきに……私も戻らないといけない」
前を往っていた少女が足を止めた。俯かせていた顔を上げると、眼の前に幾つもの赤い鎖が巻き付いた巨大な壁のようなものが聳え立っていた。
壁――違う――これは壁ではない。扉――いいや、門だ。
赤い鎖に覆われた赤い門――。
「さあ、願って。門を開いて」
門と言うからには、この先に何かが待ち受けているのは確かだろう。
それは一体なんだ? 畏怖すら感じる赤き門の向こうには何がある?
「これ……前にも……。……この先には何があるんだ?」
「地獄が」
紅い少女は抑揚無く、何気なく、紅い少女はそう言い放った。
押し潰されそうな沈黙が降りてくる。胸の中に強い波風が立つ。
――怖い。
「願うも願わないも貴方の自由――……。願おうとも世界は変わらない。変わるのは貴方自身」
真紅の瞳がこちらをじっと見詰めてくる。その視線を俺は受け止め切れず、顔を逸らした。
「貴方が望むのなら、私は貴方の昔の記憶を戻してあげる事も出来る。そして気に入らないものも、みんな壊してあげる。気に入らなければみんな――ね」
彼女の声が、自分の心臓に突きつけられている冷たい刃のようにも思えた。
ここで迂闊に返答すれば、その刃は俺に刺さるのだろうか。考えると寒気すら込み上げてくる。
「……思い出してみて。今まで貴方の傍には誰がいた? 誰と一緒に貴方は歩いてきた?」
滑らかの動きで少女はこちらに近づいて来た。この前と同じ。間近に少女の顔が迫る。彼女は決断を促すように、顔を背けられないように両手で俺の顔を掴んだ。
もう逃げられない。答えなければいけない。回答を口に出さなければ。
「過去は、現在よりも大切なの?」
俺にとって大切なのは――。
「もう夢は終わりだよ」
少女の言葉を契機に塞き止めていた感情が次々に溢れ出してくる。
ずっと言いたかった言葉が少しずつだが、確実に凝固していく。
強く強く掌を握った。
じっとりと汗ばんでいる。
緊張しているのだ。どうしようもなく緊張していて震えている。
だが今なら言える。ちゃんと言葉に出して、今度こそ逃げないで言える。
「……俺さ……。あいつに初めて遭った時からずっと考えていたんだ――」
口が上手に動いてくれない。思いの丈をそのまま口にするのは存外難しいものだ。
でも、溜め込んでいた言葉は、口にする度に自分の一部になっていくような感覚がある。
最後まで言い終えると、紅い瞳が笑い、少女は『そう』と一言だけ呟いた。
「――……今度は間違えなかった」
そう言うと彼女はそっと身を寄せてきた。あまりにも唐突な出来事だったので、咄嗟に避ける事も出来ず、俺は少女を受け止める形となった。
華奢な肩がせり上がってくる――などと思っていると、額に柔らかい感触を感じた。
それが紅い少女の唇だと気付くのに、数秒掛かった。
「なッ!? ちょっと!? 何を――!?」
眼がぐるぐる回転する。予想外の事態が起きると人は自動的に眼を回すらしい。
「これぐらいはいいでしょう? あの子のように口と口じゃないんだから」
紅い少女は身体を離すと、実に少女らしい表情ではにかんだ。
「あ、あの子……?」
少なくともこの人生経験上でそのような行為をした覚えは一度たりとも無いのだが。
訊き返すと少女は空恍けて、さあ誰でしょう? と言った。
ふいに浮かんだ記憶の洞。顔の無い少女。口の中に――。
いや――そんな訳は無い。あんなのは嘘に決まっている。幾ら記憶が欠けているとはいえ、あのような事を忘れるなんて有り得ない。
「……何となく憶えているみたいだね」
柔らかい声に引き戻され、俺は我に返った。紅い少女が不服そうな表情で俺の袖を引いている。
「それはそうと……今度はちゃんと……」
唇に人差し指を当てながら少女は微笑む。随分と悪戯っぽい微笑みだ。
そんな彼女の顔に対してどんな表情をすればいいのか判らず、俺は唸った。
「あー……うー……それは……。あのですね……軽犯罪法に引っ掛かりそうな気もしますし……。私……生涯をメロンパンに捧げると決めておりますゆえ……」
ガラと同類であれば、歳とかそういうものは関係ないのだろうが、見た目が十六、七の少女を相手にする訳にはいかないだろう。第一、相手をよく知らないし、第二に俺はメロンパンを愛している。そしてメロンパンも俺を愛している。その気持ちを裏切るなんて到底俺には出来ない。
俺の中の崇高なる菓子パンに向けた葛藤を見抜いたのか、紅い少女はあからさまに不機嫌そうな顔で口を尖らせた。
「そればっかりじゃない。このへたれ」
見た目に似つかわしくない刺刺しい物言いだ。ちょっと悲しくなってきた。
「うっ……。それ……よく言われるよ……。いつもは若干違う意味だけど……」
言われ慣れているとはいえ、改めて言われると結構傷付く。
「……えーっとですね……とにかく……」
誤魔化すように。否、事実誤魔化しているのだが、俺は軽く咳払いをしてから改まった声を取り繕った。何だかこういう事を面と向かって人に言うのは恥ずかしい。
頭の端を掻きつつ、喉元で右往左往している言葉をどうにか吐き出す。
「君のお陰で決心付いたよ……。ありがとう」
紅い少女は一瞬動きを止めると、くすくすと笑い出した。
ああ、やっぱり何か気恥ずかしい。
「……彼を呼ぶね。……ちゃんと伝えられる?」
俺は頷いた。もうちょっとだ。後はあいつとのけじめを付けるだけ。それで過去の清算は終わる。
紅い少女の切り揃えた前髪が揺れる。少女は身を翻し、後ろを向いた。
横から強い風が駆け抜け、少女の着物の裾がはためき、紅い花弁が雪のように宙に巻き上がる。
「伝えなきゃいけないんだ。あいつには一度きっちり言ってやらないと」
自分に言い聞かせるように、決意をするように、背中を向けた少女にはっきりと伝える。
彼女の顔は見えないが――。
何となく、少しだけ悲しそうな微笑を浮かべているような気がした。
「変わったね……。以前の貴方とは違う。でも……それでも貴方らしいかな」
振り返った少女は、思った通り、物悲しさを帯びた微笑を湛えていた。
瞼を閉じる。視界が塞がると心臓の音がいつもより大きく聞こえた。
無数の風の糸が一つに纏められていく。何かを紡ぎ出すように、他の風と一つになりながら赤く焼けた空へと登っていく。流れゆく空気のせせらぎの中に、またね、という声が紛れていた。
ゆるやかに風が凪ぎ、それを合図に瞼を開くと、視界からあの少女の姿は消えていた。
代わりに一人の男が呆然と立っている。背の高い、黒いナポレオンコートを着ている男。
「……葎」
小さく呟いた男は、空や、咲き乱れている彼岸花に視線を巡らせると、妙に納得したように頷いた。
「なるほどね……。姿が見えない所を見ると、彼女はどうしても私に会いたくないようだね。其処にあるのは『門』か。……感慨深いというか何と言うか……久しぶりだ」
風が止んだ風景の中では、普段は自分の内側から聞こえてくる奴の声がよく聞こえる。
そういえば、こいつはこんな声をしていたんだ――と。常に一緒に居たから、外側から改めて聞いてみると新鮮味すら感じる。
空気のようにずっと隣に居た声。そして俺を過去に縛り付ける最後の鎖。
「……よう、ガラ。待ってたぜ」
俺は男の顔を見据えた。今度こそ夢から目覚める為に。
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向けた視線が、雨上がりの紫陽花のような色彩の本紫色の瞳に受け止められる。
逃げ続けてきた俺と違う。おそらくこいつは俺が過去から眼を背けている間にも、一人で俺が記憶を取り戻す事を待ち、それが俺にどのような影響を与える影響を危惧し続けていたのだと思う。
こいつは一人で戦っていた。過去の為にも。俺の身勝手な願いを叶える為にも。
何から話せばいいのやら――そんな事を思っている内に、先にガラの方から声を掛けてきた。
「全て……彼女から聞いたのかね」
こうなるのを予期していたような、諦めにも似た声だった。
「いいや、何も。……訊こうと思ったけどさ……止めといた」
こいつ――何て真面目腐った顔をしているのだろう。
いつものようにふざけた態度はどうした。これではこちらの調子まで崩れていきそうだ。
「…………何故。知りたがっていたんじゃないのかね」
「さっきまではな。今はそこまで知りたいとは思っちゃいない」
俺がそう言うと、ガラは解らないね――と顔を俯かせた。
「言い訳なら聞いてやる。聞くだけどな」
「……しないさ。私が君を騙していたのは真実なのだから」
俺はガラに向かって歩み進んで行った。
ガラは自分の立っている場から動かず、俺をじっと待ち構えている。
既に汗の引いている掌をぎゅっと握る。そこに今まで溜め込んでいた気持ちを籠めていく。
硬く作った拳を更にきつく握り締めて、勢いよく振り被った。
真紫の眼が驚いたように大きく開く。形のいい顔――俺はそこにありったけの力で拳を打ち込んだ。
長身のガラは呆気なく、焔のように燃ゆる花が敷かれている地面に倒れた。
「おっ、意外とすんなりと殴れた」
いつもは避けられたり、逆に拳を掴まれたり、何がどうしたのか何時の間にか背後を取られていたりするが、今回に限ってはぶん殴れた。こいつはいい。爽快とは正にこの事だ。すっきりした。
「な、何を――」
殴った側の頬に手を当てながら、ガラは上半身を起こした。
流石のガラも、いきなり殴られるとは思っていなかったのだろう、いつになく表情を崩している。
ああ、やっぱこいつがこんな風にしているのはおかしい。ガラはもっとこう――ふざけているのがお似合いだ。このように急に叱られた子供のような顔をしているのは、ガラらしくない。
「あのなぁ! 馬鹿かお前! 俺は過去だの何だのってのはうんざりなんだ! 悪いけど、俺は今の俺であって、お前の言う昔の俺じゃない! 勝手に知らない記憶なんかを押し付けんな!」
呆然とガラは俺を見上げている。慣れていないからか、ちょっと拳が痛い。
「知らないって……君……!」
「あーもう! うるさい! たまには口を挟まず黙って聞け」
吹っ切れた口から言葉が飛び出してくる。
止まってはいけない。止まったらまた逆戻りしそうだ。
それなら――畳み掛けるように一気に言ってしまえばいい。
「俺は……俺は知らない過去より知ってる現在の方が大事なんだよ」
――あいつに初めて遭った時からずっと考えていたんだ。何であいつは俺の代わりに手を伸ばしてくれるのかって。俺の代わりに……俺が助けたいと思った人に。そんな義理なんて無い筈なのに……。
いっつもそうなんだ。そりゃへらへらしているし、凄く喧しいけど、それでもあいつはいつも俺の代わりに戦ってくれている。傷付いても、文句一つ言わずに。
最初は……正直疑っていたんだ。自分の中に訳分かんない奴が現れたって……怖かった。思わせぶりな態度だし……。変な事ばっかり言うから、やきもきもした。
そう、俺はあいつを信用してなかったんだ。だけど力だけは借りていた……。それっておかしいだろ? やってもらう事だけやってもらって、それで文句言ってんだから。
「……昔、お前との間に何があったかなんて分からない。だけどな――」
出会っててから数ヶ月経ってさ、ふと思ったんだ。あいつは俺の事を信じてくれているのに、俺はあいつを信じなくていいのかって。だからさ、考えた。とりあえずだけど、疑う事だけは止めよう、って。
そうは言っても簡単に疑うのを止めるのも中々難しいよな。悩んだよ。悩んで……どうしたらいいのか分からなくもなったりした。でも……そんな時に、ガラの白い庭で見たんだ。
あいつさ、一人の時はいつも遠くを見ているんだ。それで……俺が近づくと思い出したみたいにいつもの調子に戻るんだよ。最初こそ変な奴って思っていたけど、あいつのその表情が胸を刺さるようで、見ていると無性に苛立ってくるんだ。あいつにじゃないさ。自分に対してね。
……結局一番過去に拘っていたのは俺の方で、現在のあいつから眼を逸らしていたんだよな。
薄々分かっていた。あんな表情をさせているのは自分だって。勘のいいあいつの事だ。俺が信用していない事にも気付いていたんだろ。だからって訳じゃないけどさ、他にも原因があったんだろうけど……。
とにかく……俺が理由の一つであった事は間違いないんだ。きっと、あいつは……ガラは……俺が知らない俺の過去を見ていたんだって、そう思う。
だけど思い出に浸ってるなんてやっぱあいつらしくないよな。まぁ……『あいつらしい』って言ってるけど、考えてみれば俺はあいつの事なんて全く知らないんだ。あいつは昔の俺を知っているみたいだけど、俺は昔のあいつがどんな性格で、どんな喋り方をするのかさえ知らないんだ。
俺が知っているのは、所詮今のあいつであって、昔のあいつじゃない。過去にガラとどんな事があったんだとしても俺には解らない。考えようとしても、思い浮かぶのは最近の……。つっても一年も経っていないだけどね。ごく最近のあいつとのくだらない思い出だけなんだ。強制性転換させられたり……。怪談を女中に仕立て上げたり……。何故かお菓子作りとかお茶会に巻き込まれたり……。そんな事ばっかりなんだよ。
はは……でもさ……ちょっと愉しかった。いや……かなりかな。馬鹿らしいんだけどさ、それが心地いいんだよ。何でかな……。自分でも分かんないんだけど……。
ガラと出逢ってから、寧さんとか、真さんとか、中学生の五人組とか、その他にも多くのかけがえないのない繋がりが出来たんだ。それも全部あいつが居たから出来た繋がりなんだ。
過去の事は解らないけど、今の事なら解るんだ。あいつを信用していいのか、悪いのか。
馬鹿だよな。迷う必要なんて無かったのに無駄な遠回りしてた。
俺……あいつと出逢った事は間違いじゃなかったって、自信を持って言えるよ。
もう逃げない。今度こそ、しっかりと伝える――。
「俺は現在のお前を信じてる」
――お前を信じてるって。
「あー……。それじゃ駄目かな……?」
ちょっと格好つけた事に恥ずかしくなり、照れ隠しに頭をがりがりと掻いた。
ガラは相変わらず茶化す事もなく、真剣な眼差しをこちらに向け続けている。
「君は……それでいいのか。昔の自分を捨ててしまっても」
確認するかのように、重々しくも厳かにガラは言う。
俺は深く頷いた。確かめるまでもない。腹は決まってる。もう過去は振り返らない。
「いいんだ。もう過去に振り回されるのは御免だからさ」
それを聞いたガラは眼を瞑り、噛み締めるように微笑んだ。
いつものガラの顔だ。その表情を久しぶりに見た気がして、俺は内心安堵した。
「…………ふっ……私もそれには同感だな……」
やっぱりこいつはこうではくてはいけない。賺した態度で、キザったらしく。
これが俺の知っている――信用している、ガラという人物像だ。
「……ん? お前……それ……」
倒れたガラの胸元で赤い光を浴びた金属のようなものが輝いている。
見覚えが――というかいつも見ているような――。
よくよく見ると、それが一輪の花を模したシルバーのペンダントである事が判った。
俺がいつも身に付けているペンダント、待雪草のペンダントと同じものである。それが夕焼けのような空の光彩を写し取っているのだ。
「何だよ、片方はお前が持ってたのか……」
欠けたペンダントの片割れがこんな近くにあるとは思いもしなかった。
「君がくれたんじゃないか」
呆れ顔でガラは自分が首に掛かっているペンダントを摘み上げた。
本来は二輪だった花――その片方が眼の前にある。妙な感じというか、不思議な気分になってくる。
「あーうん……。すまん、憶えてないわ……」
俺が悪い事をしたみたいだ。いや、したのか。
だが、こればかりは仕方が無いし、許される――と願おう。
「ふー……やれやれ。……だと思ったよ」
大げさに溜息を吐きつつ、ガラは眉間の辺りを人差し指と親指で押さえた。
どうやら俺の馬鹿さ加減に頭が痛む――という事を示しているらしい。
調子が戻ってくれたのは有難いのだが、これはこれでむかつく。
「しょ、しょうがねえだろ! 憶えてないもんは憶えてないんだし……! あっと……それよりだな! あの約束果たしてもらうぞ! 忘れてねえだろうな!」
都合が悪くなった俺は、一先ず話を変える事にした。
「……約束? 君と何か約束をしたかね?」
考え込むようにしてガラは自らの顎に手を当てた。それらしい記憶が見当たらないようだ。
何だかんだ言って、こいつだって人の事は言えないじゃないか。
「最初にお前言ったろ『全て救ってやる』って。約束はちゃんと守れよ」
一瞬虚を衝かれたかのようにガラは眼を丸くすると、苦笑いを零した。
俺はガラに手を差し出した。やっと自分の手で掴む事が出来る。誰かに頼るのはもう止めだ。今度こそ自分の力で、誰かを救ってみせる。
「全く……身勝手な事を言うね。救う身にもなってみたまえ。私とて、独りでは骨が折れるんだぞ?」
ガラは俺の掌を掴み返す。その瞬間、世界が色を変えた。
まるで錦眼鏡を回したかのように華やかに。そして季節の移り変わりが一度に訪れたかのように色鮮やかに。地上にある焔の如き彼岸花は雪のような待雪草へと姿を変え、空は燃えるような紅から天上へと突き抜けるような蒼天へと塗り替えられた。生温い熱風は清清しい涼風に、白い花弁を巻き込みながら、力強く止まった時計の秒針を動かしていく。
ずっと見続けていた夢が終わる。終わって――また始まる。
「何言ってんだよ、今度は俺も一緒だ」
これからも、俺はいつまでも終わらない長ったらしい夢の中を走り続けるのだろう。
「葎がデレた……!? む……しまった! 録音機器を忘れた……。後でもう一回頼む」
しかもどこで間違えたのか、二人三脚になってしまっている。
「お前なぁ……。はぁ……。いいからさっさと終わらせて帰ろうぜ……」
まぁそれだっていいさ。進む先が辛い道のりだって構わない。
「あ……相棒っ」
こいつと二人で進むなら、それも悪くないんじゃないかって――今ならそう思えるから。
終わったかと思ったら、終わってなかった。
これがあの有名なイザナ……(以下ry




