夜に開くは赤き口、貪り喰らうは餓鬼の道
やだー、このタイトル厨ニ病ー。無いわー。
……じゃなくて……。さて、それは一先ず置いといて……。
本編の方で色々と正体がバレてしまいましたね。
……伏線? やだなぁ、ちゃんとありましたって……下手……? 下手とか言ってはいけない! 下手でもいいじゃないか! ホントは駄目だけどさ!
まあ、解説やら、何やらはもう無くても……いや、やっぱ後でします……。
だって、書いた本人ですら訳分かんなくなってんですもん……orz
それと、過去の台詞をかなり改変してますが、そこら辺は目を瞑ってね!
てへぺろ☆(・ω<)
そんじゃ……さっきまでのお話のあらすじでも……。
あらすじ
メロンパン専門の大食い戦士である栖小埜葎は、とある大食い大会に出場した! しかし、その大食い大会では陰謀が渦巻いており、葎は図らずもそれに巻き込まれてしまう! 女装の変態、酒に強い変人画家、ただのロリコン、出番がワンシーンで終わってしまった少女、次々に姿を消す出場者達――etc……。
そんな中で葎は、何者かに秘蔵のチョコレートバーを狙われている青年、羽藤涼麻に出会い、何かんやで保護した!
夜になり涼麻は、葎に謎の笑い声が聞こえていると打ち明ける! 葎はそれを冗談と思い、だったら今晩一緒に過ごして確かめようと提案する!
wktkしながら待っている葎と、震え怯える涼麻――そんな二人の前に顔が何かヤバイ人物が現れた! それは中華饅頭専門の大食い戦士であった!
名前を名乗らぬその顔がヤバイ人物に、葎は肉食の大食い戦士アリカを投入する事で勝利した! そう、勝負の分かれ目を握った中華饅頭の種類は『あんまん』ではなく、『肉まん』であったのだ!
しかし、夜はまだ終わっていなかった……。
なんとかつての仲間、伊井都雅峰が大食い戦士として襲い掛かってきたのだ!
雅峰は、数々の大食い遍歴を披露しつつ、夏のとある日に葎が失った、大事にしまって置いた筈のメロンパンについて衝撃の事実を暴露した!
『そのメロンパン、俺が食べちゃった』――と!
しかもそれだけでは終わらなかった! 雅峰は言った!
『あんまり美味しくなかった』――と!
その惨たらしい口調に、大事なメロンパンを汚された葎は激怒し、雅峰に大食い勝負を挑む! 愛用の皿『ガラ』と共に!
※上記の内容は本編と若干異なる場合があります。ご注意下さい。
『餓鬼』
人間の一月をもつて一日夜となして月・年をなし、寿五百歳なり。
正法念経にのたまはく、「慳貪と嫉妬のもの、餓鬼道に堕つ」と。
源信『往生要集・巻上』
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月の蒼い光と赤黒い血を浴びたその人物が、とても羨ましく、とても妬ましかった。
そんなに歳が離れていないのにも関わらず、空っぽの俺とは違い、彼にはみっしりと中身が詰まっている。自己が。自我が。個性が。存在が。ちゃんと存在している。
いつも自分が自分で無いような気がしていた俺にとって、その揺るぎない個性は何よりも眩しく映り、その不動の自我を持つその人物に激しく嫉妬したのを覚えている。それは今でも変わらない。
俺には俺という人間が解らない。なのに周囲の人間は俺の存在を固定化させようとする。
この人間はこういう人間だから、こういう態度で接しよう。
この人はこういう性格なのだから、こういう風に調子を合わせておこう――。
実に下らないと思う。本当に相手が自分の思っている通りの人間か判らないのに、自分の価値観を普遍性の無いものだと信じて疑わない。自分の見ている世界が本物だと妄信している。
視界に映っているものを疑った事が無いのだろうか。視界の内にあるもの全てがまやかしでないと何故言い切れる? 俺ですら俺というものが理解出来ていないのに、何を信じられるというのだ。
自分がどういう人間か解らない。自分が立っている場所が分からない。自分の見ている世界が正常であるかが判らない。だからこそあのような――彼のような絶対的な個性が欲しくて仕方が無い。個性を手に入れれば基準が生まれる。基準が生まれれば、俺の世界は定まる。
欲しかった。羨ましかった。あのように自分もきちんとした形を保ちたかった。そうすれば自分が何者かである事を自覚し、いちいち自分の存在を疑う事なく真っ直ぐに生きていけるのだと思った。
その人物は俺に見向きもせず立ち去って行ってしまった。声をかけようにも、その前後の出来事のせいで声が出せなかった。焦る度に脚はもつれ、絡まり、自らが自らの往く手を阻害した。
離れていく――。
遠退いていく――。
なのに俺にはどうする事も出来ず、ただ見ているのみであった。
その後に感じたのは我慢出来ないほどの『飢え』だ。欲しいものが眼の前に存在していたのに、手に入らなかった。その事実が自らの内に眠る枯れたしまっていた飢えを呼び起こし、増長させ、押さえ切れないものへと変貌させた。
何でもいいから喰いたかった。だから、俺はあの赤い鎖を噛み千切ったのだ。口に広がる鉄の味。血のような生臭さも感じるそれは、俺を暫しの間満たしてくれた。
それでも完全には程遠い。至上の快感でこそあったが、まだ足りない。もっと、もっと、もっと欲しかった。飢えは限界まで満たされなくてはいけない。それこそ死ぬほどに。
様々なものを喰った。道に転がる石も、地面を這い蹲る汚らしい虫も、みんな喰った。しかし喰っても喰っても、あの赤い鎖を喰らった時の快感は沸き起こらず、更に飢えが増しただけ――。
満たされる筈も無い。俺が飢えていたのは食物などではなく、『個性』という、形の無い属性そのものであったのだから。何を食べてもそれの代用にしかなりえず、食べても食べても意味が無い。
耐え難い飢餓感を抱えたまま平坦な日常は過ぎ去っていく。繰り返し、判で押したような毎日が延々と続いた。憂鬱な苦しみだけが募り、余計に腹が減った。
そんなある日、あの館に導かれたのだ。あの、能面のみが住人と化している陰鬱な館に。
偶然と言えばそこまでかも知れない。偶然であったとしても、自分にとっては矢張り必然であったのだ。俺はあの場所で亡霊に取り憑かれ、貪り喰らわれかけ、そして――逆に喰らった。
恐怖ではなく『飢え』の方が強かったのだ。自分の求めていた個性が、力が、あの面にあるのだと思うと、無性にそれが欲しくなってしまったのである。
自分自身、あのように強烈な感情が発露するとは考えもしなかった。しかし、俺の『飢え』は想像以上に強く、遠い過去の亡霊ですらこの身に取り込まんと欲してしまった。そして望みは叶えられたのだ。
力を無事に喰らった俺は、能面の持ち主が過去に喰らった人間の魂がバラバラに引き裂かれ、その上で再構築している事を本能的に嗅ぎ付けた。その存在は、何を基準にしているのかは不明だが、生身の人間に寄生し、その人間の感情に触発され成長する。ある種の霊体なのだろうが、寄生する対象が存在しなくてはいけないし、何より強い感情が介在しなければ出現し得ない存在であった。
一先ず観察だけでもと、傍観しようとしていた矢先に俺は瑞樹神広尾に出くわした。
蛇のような女だった。殆ど隙がなく、強かで、理から外れた者達を制裁するやり口も陰惨で惨い。
彼女は俺を見るなり、腹の中を探るような質問ばかりをしてきた。俺は一切嘘を吐かなかった。質問には誠実に答え、答えられない事は言わなかった。言えば殺されると思ったからだ。
言及したのは、自分に不可思議な力が発生した事。そしてその扱いに困っている事だけ。
本当の事も言ってないが、嘘は吐いていない。ただ、はぐらかしただけである
広尾は到底そのような小手先の誤魔化しに納得したようには見えなかったが、とりあえず自分達の仲間に引き合わせると言って、数人の人間を呼び出した。その中に――彼が居た。
僥倖であった。思ってみない場面で彼に再会したのだ。これほどに嬉しい偶然は無い。
一つ気になったのは――彼は――不儀真は、以前の彼とは少し違ってしまっていた事だ。
彼からは以前目撃した時のような、薄く脆い鋭さが損なわれてしまっていた。誰が彼をあのような鈍にしまったのか、おおよその検討は付いている。
非常に残念だった。残念だったが、それはそれでいい。変化しても彼は彼であり、十分に羨望の的となる。俺は其処に辿り着けるように、彼になれるように人を、力を喰らう。
喰らって喰らって喰らい尽くして、自分の血肉とする。貪るごとに自分は固まる。他人の記憶を自分のものとし、他人の性質を自分のものとして、自我を形成していく。
喰い方は簡単だった。全ては赤い鎖と、我面の面が教えてくれた――。
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一年前、二月某日
眼が痛くなるような原色に近い光が闇夜に降り注いでいる。派手ではあるが品が無い。
雑多な声が飛び交い、喧騒と嬌声のみがその場を支配する。空気は濁り、酒気が臭い漂う。
胸焼けしそうな光すら射さぬ道端には、中身が見えない黒いビニール袋が膨れ上がったまま転がっている。おそらく分別など、ろくにされていないだろう。だからこそ、この汚らしい街の情景と寸分違わず重なり、上手に風景の一部として溶け込んでいるのだ。
景観というものは様々な要素が積み重なって出来上がっている。
人が、建物が、空気が、音が、匂いが、色彩が、陰影が、明度が、それらが寄せ集まり、一つの個として存在し、機能している。これはまるで人間の在り方にも似ている。
細胞の集合体として、それぞれが異なる役割を持つ部位の集合体として人間という個は成り立っており、大きな人体というネットワークを構築している。
建物が骨格。人がそれを取り囲む細胞。音や匂いは血管を流れる血潮。陰影や色彩や明度は、髪や、眼や耳と置き換えれば相違ない筈である。
しかして、景観には空気も存在している事を忘れてはならない。これは人体に置き換えると――。
所謂霊魂であると言える。非常に曖昧であり、存在しているのかも疑わしい存在だ。
それでも確かに存在している。感じる人間は感じるし、感じない人間は感じないだけである。
各個人の気質や魂のように、各景観にはそれぞれ独特の空気が流れている。故にその景観に似つかわしくない人間が紛れ込んでしまった場合、その違和感は景観の中に浮き彫りになってしまう。
雑多な景観に似合わぬ男が一人、千鳥足で歩いている。女性と見紛うような顔立ちの男性である。酔っているのか顔が赤く、衣服も肌蹴ている。容姿が容姿であるので、女性と間違えて声をかける輩も少なくは無い。男と承知で誘う者も居る。しかし、女性のような顔の男は虚ろな表情で一瞥するだけであった。 そのようにされては誘う方とて気持ちが萎えてしまう。男を呼び止める声は次第に少なくなり――。
聞こえなくなった。それを合図に男は道端の暗がりに仰向けに倒れこんだ。
空が揺れている――男はそんな風に思いながら、漆黒に視線を遣った。
揺れているのは夜空ではなく、男の方なのだ。酔いによって男の意識は揺らぎ、ある出来事によって心までもが揺さぶられている。自ら揺れている者が景色を揺れていると形容するのもおかしな話である。
吸い込まれそうな黒い空が口を開けている。星はおろか、月さえ見えない。
吸い込まれたら自分は消えてしまうのだろうか――と、男は――姥季淡慈は漠然とそう考える。
それもいいかも知れない。ゆっくりと思考を鈍らせていき、彼は瞼を閉じた。
「――ああ、ちょっと待って下さい。貴方ですよ貴方。お顔色が宜しくありませんね」
さして特徴の無い声であった。うっかりすると記憶にすら残らないであろう声音である。
「……あんた……誰だ?」
何時の間にか淡慈の顔を覗き込むようにして、一人の男が立っていた。先程の声の主であろう。その証拠に声と同様に個性というものが存在しない。好青年を絵に描いたかのような男だ。
その凡庸な男は淡慈を抱き起こしながら淡慈の先程の問いに答えた。
「いやあ、誰だっていいじゃないですか。そんな顔で歩いていたら誰だって声をかけますよ」
単に世話焼き――なのだろうか。表情まで平々凡々としている男からは真意が読み取れない。
起き上がった淡慈は夢か幻かを見ているような気分で周囲を見回した。
変わらぬ風景。変わらぬ猥雑さ。饐えた匂い。何も変わっていない筈だが――。
「……まぁいいや……。誰だって……どうせ――」
どうせ――何なのだ。その先が出てこない。意味もなく勝手に言葉が出てきてしまったのだ。自棄になっている現在の自分の口は驚く程に緩んでいる。だから、『どうせ』などと自虐的な響きを持つ言葉という言葉が流れ出てしまったのである。その事は淡慈自身がよく理解している。
口を噤んだ淡慈を見て、男はこの場に不釣合いなさっぱりとした笑顔で微笑みかけた。
「いけませんね、飲み過ぎは。どうしたんですか。何か宜しくない事でもあったとか? だからそんなに荒れている――おおっと……おせっかいでしたか、すみません。こういう性分なもので」
饒舌に男は喋る。柔らかく掴み所の無い男の声に、淡慈は幻聴を聞いているような心地になった。
「いい……いいですよ別に……。……片思いしていた相手に振られたんですよ……。男っぽくないから駄目だってさ……。意味分からないよな……ふふふ……ああ……クソ……!」
男の口調が心地いいからだろうか、淡慈は上滑りする言葉を溜め込んでいた感情と共に吐露した。
偶然声をかけてきた男にこんな事を話すのはどうなのか、という自己抑制はとうに歯止めが利かなくなっている。押さえ切れない。押さえようとも思わない。とにかく誰にでもいいから聞いて欲しかった。
「そうですか。それはそれは。ご愁傷さまと言いますか、何と言いますか。慰めの言葉の一つもかけたい所ですが……必要ですか?」
憤りの籠った淡慈の言葉に――男は哂った。
「要りませんよ……。かけて貰ったって何の足しにもなりゃしない……」
吐き捨てるように淡慈は言う。
「そうですか――。あの、差し出がましいとは思うのですが、そのままで本当に宜しいのですか。それが原因だとしたら、僕には貴方が……ええと、その女性を諦めきれてないように見えるのですが」
ぬるり、と雲が動き始めた。ゆっくりと、ゆっくりと、粘性のある動きで雲は空を移動していく。
「諦めるも何も……もう振られているんです……今更何をしろっていうんですか。余計に女々しいって言われるだけですよ……。俺は……恥の上塗りなんてしたくないんだ……!」
男として見る事が出来ないと言われたから――。
遠回しに女々しいと言われたから――。
そんな事、自分にはどうしようもないのに。なのに。なのに。
何故それが理由なのだ。それ以外であれば納得出来たかも知れないのに。
「いえいえ……別に他意はありませんから……そんなに怒らないで下さいよ。……私はただ……そのままで貴方は満足出来るのかな――と思っただけですよ」
男の言っている意味が解らなかった。満足とは――満足。ああ――。
――そうだ。
淡慈は自分の心境を鑑みた。
自分は果たしてこの現状に満足しているのかと問われれば――それは否である。
「な――何が言いたいんですか……」
しかしどうしようも無いのだ。満たされなくても我慢しなくてはならない。
相手に拒否されたのなら、それはもう諦めるしかない――。
諦めるしか――。
諦める――。
妥協するのか――。
ふいに黒く淀んだ考えが淡慈の中に湧き出た。彼はそれを隠すように取り繕った笑みを浮かべた。
「そもそも何でこんな話、見ず知らずの人にべらべらと話しているんでしょうね……」
夢の中なのだから。だから――何でも――いや、それは駄目だ。何で――何故――。
――何故駄目なのだ。
「貴方は――そのまま何もしなくていいのですね。満たされないまま、飢えを抱えたまま――」
小さな声で男は眼の前に立つ淡慈に囁きかけた。その囁きは、耳に入った瞬間に大きくなり、何度も反芻し、淡慈の頭の中で氾濫した。それが淡慈自身が考えた言葉であるかのように。
大きく歪に、風船の如く膨れ上がり――。
「だからっ! 何をしろって言うんだよ!」
大きな声で淡慈は男を問い質す。男は矢張り哂っている。
「手に入らないのなら……奪ってしまえばいいのですよ」
奪う。奪うとは――何を。何を奪えばいいのだ。
「う……奪うって……な、何を……! 俺はあの子には……な、何もするつもりは……」
「何も手篭めにしろなんて言っていませんよ。それとも――そうしたいのですか?」
陰が男の顔に差している。どんな顔をしているのか解らない。
男の背後から射す、煌びやかな光だけが淡慈の眼には鮮明に映っている。
「違う! そんな事……! 違う違う違う! ふざけるな!」
完全に取り乱した淡慈は叫びながら、男に掴みかかった。
男は捕まらない。霞や霧、幻影のようである。
「ならば取り乱す必要は無いでしょう。何をそんなに恐れているのですか。……なるほど、自分の欲望を――心の奥底に仕舞いこんでいるものを直視するのが怖いのですね?」
自分の欲望は――自分はあの顔を――綺麗な顔――。
淡慈は頭を振り、どくどくと湧いて出るその考えを振り払った。
「お、お前……何が言いたい…! よっ欲望な、なんて……」
「ちょっとした忠告ですよ。悩んでいるようでしたからね。見捨てて置けなかったんです。お気に障ったのなら申し訳ない。さて、そろそろ僕は失礼頂きますかねえ」
そう言うと、男は淡慈に背を向けた。淡慈はその後を追った。答えを――欲望の回答を欲して。
「待てよ! だから! 何を……! 何を言いたいんだよッ! 奪えって……!」
突然男が立ち止まった。そして肩越しから顔を見せ――また哂った。
「それは貴方が決める事です……。貴方が本当に欲しいものを奪えばいい」
「俺の…? ほ、欲しいもの……?」
欲しいもの。欲しいものとは。自分が本当に欲しいのは。
雲がしきりに蠢いている。風は吹いていないのに、緩慢に動いている。
「そう――貴方の欲しいものを……ね」
「でも……! どうやって……。ほ、欲しいものが……あ、あるとして……どうやって奪えばいいんだよ……。俺にはそんな方法……何も……!」
暗く沈んだ声で男は言う。
「何を言ってるんです? 貴方にはあるじゃないですか。ちゃんと立派な方法が」
ざわり、と気持ちの悪い風が男と淡慈の間を抜けた。胸が焼け付くような悪臭がする。
「方法……? ………おっ…教えてくれ! 俺には……解らないんだ……! 頼む教えてくれ!」
男は首を振った。哂っているのか。哂っているのだろう。
急激に淡慈の意識が覚醒していく。これは夢ではない。男は確かに存在しているし、自分は単に酔いつ潰れていただけだ。現実で。現実が。夢が――どこからが夢だった? これも――。
「いいえ、その必要はありません。貴方はその方法を知っている筈ですよ」
現実と夢の境界が曖昧に濁されている。歪んだ夢の登場人物である男は前を向き――。
「おいっ! 待って……待ってくれ……! 待て! 待ってくれよ!」
「それでは頑張って下さいね」
雑踏に無音で姿を消した。
次々に朦朧としていた淡慈の感覚が戻っていく。
音が、色が、臭いが、全て正常に――現実のものへと変化していく。
大声を発する淡慈を物珍しそうに眺める視線の数々。それすらも霞ませてしまう客引きの声。底無しの闇を気休めのように照らす毒々しい光彩。じっとりと衣服に染み付いた汗。生々しい。
現実が戻ってきた。淡慈は呆然と両膝を着いた。ごつごつとしたアスファルトの感触。
間違いない。此処は夢ではない。それでも――。
それでも――夢から覚めても淡慈の耳には、男の哂い声だけが残っていた。
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一年前、三月某日
梅の蕾はいつ開くのだろう。乾いた枝には鮮やかな薄紅色と緑色が混じったものが瘤のように芽吹き出している。まだ膨らみかけであるから、もう暫くは待たなければならないのだろうか。
A4のスケッチブックから、ぐんと近づけていた顔を離した古雫絵理は、柔らかな梅の蕾と似たような色をした形のいい唇から小さく溜息を零した。
これでは花というか華が無い。葉が殆ど落ちてしまった骨張った梅の木など素っ気無さ過ぎる。
――寒い。そろそろ止めようかな。
絵理は冷たい空気に顔を顰めた。二月から三月になったばかりなので当然空気は凍えている。それに先程からずっと開け放した硝子戸の傍に座っているから足先がかなり冷えていて、指の芯から寒さがじんわりと込み上げ骨にまでもそれが伝わっている。あまりにも寒いので『寒い』という感覚すらも若干薄れかけているぐらいである。それでも寒いものは寒いのだが。
鉛筆の先がすっかり丸まってしまっている。これはこれで悪くない。尖っていると消した時に痕が残るから、それよりはこっちの丸まってしまった先端の方がいい。
黒い粉が染み付いた自らの指を絵理はしげしげと観察した。細かい粉は皮膚の表面を覆い、艶っぽい光沢を放っている。夢中で描いていると、いつもこうなってしまうのだ。母は――。
母が鉛筆を握っても、描いても、こんな風にはならないのに、自分はいつもこんなに指を黒く染め上げてしまう。器用でない事に対しての自覚はある。不器用であるとも思う。
だが、直そうとは思わない。以前母から言われた事があるのだ。『それもそれで個性』なのだと。十人十色という言葉があるぐらいなのだから、自分は自分のままでいいのだと。そんな事より人の意見や、自分の願望に左右されて自分の絵を見失う事の方がよっぽど怖いのだとも聞いた。
――自分を見失うとは、どういう事なの。
今一、そういった感覚が絵理には解らない。多分それは彼女が自らを肯定的に受け入れている証拠なのである。自分を否定し、周りを否定しても何の特にもならない。無闇やたらに『自分』という人間像を見失ってしまうだけだ――という事を絵理は本能的に悟っている。
誰かになりたい。誰かの真似をしなければならない。皆がしているから。皆に合わせないと――。
そもそも、そのような考えが絵理の中に存在しないから、彼女は自分を追い求めようとする人間の思考が解せないのだ。自分は自分であり何者でもない。現に此処に立っているのだから否定しようにも否定出来る筈がない。他人を羨んで他人を目指したとしても結局自分という人間像に落ち着くしかない。仮に自分の存在が疑わしくてもそれが理由で死ぬわけでもあるまいし、いちいち己を疑ったり、他人の姿を模倣して、必死で足掻いて苦しんで、一体何になる――というのが絵理の持論である。
――やっぱり寒い。
絵理は顔を強張らせながら戸を閉めた。外気が遮断されたからなのか、少しだけ部屋の中が暖かくなったような気がする。続けて彼女は悴む手を擦りつつ、くすんだ透明越しの風景を眺め見た。
硝子戸の向こうには小さな中庭が見える。自宅の庭だ。決して広くは無いが母との思い出の詰まった秘密の庭でもある。今でも夏になると、絵理と母は二人で開いた戸の縁に腰を掛けて夕涼みをしている。
庭の右斜め前方には玄関がある。梅の木はその手前、何と自宅の中に生えている。どうも、この家を購入する際に絵理の母がこの梅の木を気に入ったらしく、そのまま残しているのだそうだ。
ぼんやりと視線を硝子の向こう側に遣りつつ、絵理は鉛筆を手に取った――が、直ぐに投げ出した。
窓を閉めると途端に描けなくなってしまったのだ。気持ちというか性格の問題である。
彼女には母のように、全てを景観の一部として取り入れた描き方が出来ない。一つの対象を描くのなら、それのみに集中したいのだ。風景を額縁のように囲ってしまう窓枠や、像を暈けさせる硝子があると、どうにも上手くいかなくなってしまう。遮蔽物が少ない方が彼女にとっては好ましい。
――いいか。続きはお母さんが帰ってきてからでも。
おそらく今日は帰ってくるだろう――と、絵理には妙な自信があった。
此処の所、仕事が行き詰っているのやら、忙しいのやらで、絵理の母は滅多に帰ってこない。それは職業柄仕方の無い事であるので、絵理も半ば諦めている。
が、今日は早々に帰ってくる気がする。そんな中途半端な予感がある。
絵理は鉛筆を握り締めた。彼女の絵の描き方は自己流だ。母に教えて貰った事は無い。
『その時期になったら教えてあげる』と彼女の母は常々言っている。『その』というのがどの時期であるのか、絵理には皆目見当が付かないが、そろそろである事に間違いは無い――筈だ。絵理は『その時期』を心待ちにしている。
――あれは――。
硝子戸の外を見ていた絵理の視界に、奇妙なものが映った。
向かいの家の屋根の上に――男が立っている。どこにでも居そうな普通の男が。
男は哂っていた。遠目からでも判る程にくっきりと哂っている。
――なんだろう。あの人。
修繕業者という訳でも無さそうだ。第一、向かいの家の屋根は壊れているようには見えない。
近所でもあのような男を見かけた記憶は無い。では、あの男は一体――。
背中の表面を不気味な冷たさが抜けていく。
――戸を開けたままにしておくとね、悪いものまで一緒に入って来るんだよ。
絵理は母のそんな言葉を思い出した。子供の頃によく聞いた冗談である。
――悪いもの――まさかね。
あれは単に家を空ける事が多い母が、絵理を怖がらせて自分が居ない間の戸締りを意識させる為に言ったもので、本当に『悪いもの』なんて存在する筈は無いのだ。
中学生にもなってそんな冗談をまだ信じているなんて。
絵理はアルミの枠に手を掛けた。
庭へと通ずる硝子戸は、やけに静かに開いた。遮る物が少なくなった風景の中に男の姿は――。
「……そんな……さっきまで……」
――無かった。
眼を凝らしても男の姿は見当たらない。
春の息吹すら感じられないうら寂しい眺めが広がっているのみである。
勘違いだったのか。絵理が硝子戸を閉めようとすると、ひゅう、という上擦った笛の音のような音の風が部屋の中に入り込んできた。不愉快な風であった。不愉快で――貪欲で――それでいて――。
玄関の方で微かな音がした。ぼう、としていた絵理はその音で我に返った。
母が帰って来たのだろう。先程の音は玄関扉が閉まる音だ。
でも――。
「でも――何で今日に限ってこんなに早い――」
彼女が振り返ろうとした瞬間。
「うふふふふふ」
耳元で男のものとも、女のものとも判らぬ哂い声が聞こえた。
母の声ではない。聞き覚えの無い声だった。
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一年前、六月某日
西に沈む赤い太陽を背にしながら、完全なる影と変貌している男は、同じく影のような黒さに染まっている全裸の少女に自分の上着を渡し、着るように命じた。黒い少女は伸び切った前髪から覗く怯えた眼で男を見上げながらも、素直に従った。茜色の色彩が少女の顔を照らす――。
光が少女の顔を侵食していく。それでも少女に纏わり付いた黒々とした闇は払拭出来ない。
少女の傍には背景に溶け込んでしまいそうな黒いノートがぽつりと、開いたままの状態で落ちている。それが少女の本体である。そこから少女は生まれた。
哀れみなのか、同情なのか、それは男には判らなかった。単なる気紛れなのかも知れぬ。
男には元より食欲以外の感情が欠如しているのだ。思う所など殆ど無い。
しかし、自分とよく似ている少女に少なからず共感した事だけは真実である。
奇妙な縁ではあるだろう、偶然にこんなものを拾ったのだから。
少し考えるようにして男は少女の顔を見回すと、不意打ちのように突然尋ねた。
「……消えたいかい。それとも消えたくないかい」
感情の籠っていない男の言葉に、黒い少女は驚き、眼を見開いた。
「きえ……たく……ない……!」
この男なら――この男なら自分をどうにかしてくれるのではないか。
そんな漠然とした期待が少女を突き動かす。既に身体の感覚は薄れ、形を保てなくなっている。
自分が解けていくのだ。黒く長い髪が、ぼやけた煤のような黒い身体が順に消えていく。
少女は掠れた声で叫び続けた。『消えたくない』と。
「何故」
冷淡な声で男は問うた。自分の考え違いであったら――と男は値踏みするような視線を少女に送る。
返答によっては少女に手を貸すのは止め、今直ぐこの場から立ち去る腹積もりである。
自分と同属の臭いがしたからこそ男は手を差し伸べたのだ。本来ならこれ以上助ける義理も無い。
「わ……私……は……理沙……を……! 私……の……存在……を……否定した……あ、あの人間達に……復讐し――したい……! ころ……した……いっ……!」
たどたどしい言葉で黒い少女は男に訴えかける。男を見上げる眼光は強い怨嗟に縁取られている。
その怨嗟は自分を捨てたもう一人の自分に向けられたものである。
男は闇に浮かぶ己が眼を細め、黒い少女を見返した。
「お前は自分が何者か理解しているのか?」
「私――……わ――からない……。判ら……ない……。私は理沙の影で――それで――私は……そこから……」
黒い少女は薄々気付いていた。自分が一人の少女の『作り話』という虚構から生まれた事に。
所詮自分というものは自らを構築した少女の代用品でしかなく、その役割を剥ぎ取ってしまえば、中身など入っていない事にも。平面状の文字というものでいとも簡単に組み上げられ、いとも簡単に消し去られてしまう事にも。黒く狭い鳥籠に囲われている空しい存在である事にも。
勝手に黒いノートを閉じた少女が許せない。自分を『気持ち悪い』と言ったあの女も許せない。
自分は確かに此処に存在しているのに、その存在を認めようとしない。
それどころか否定し、眼の届かない所にまで退けようとする。
あんな奴ら、皆死んでしまえばいい――。
「解らないねえ……? じゃあさ、お前はどうしたいんだよ?」
男は再び問うた。
「認めて欲しい……。私は……私は此処にイル……。ちゃんと居る……! 認めろ……! 認めろ!」
日が沈み、舐めらかな闇が広がった。少女は荒い息を吐いた。
「……お前も一緒か。くく……そうかそうか。じゃあ、助けてやらないとなぁ。でも――」
光ばかりではなく、音すらも吸い込まれそうな闇の下で男は少女の耳元に顔を近づけた。
「ちゃんと殺せよ?」
嬉しそうな声を聞いた黒い少女は、横目で男の顔を見た。
しかし其処に男の顔はなく、代わりに真っ赤な線が暗黒に綺麗な弧を曳いている。
――彼は何処に。
耳を澄ますとと微かな声が聞こえてきた。くぐもった声である。そしてその声の主は直ぐに判った。
――最初から――動いてなど――いなかった。
少女の真横では闇に溶け込んだ男が声を押し殺しながら哂っていた。
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美味しい果実が食べたくて、懸命に水を与えてやった。『きっかけ』という名の水をたっぷりと。
種から青い芽が伸び出していく様子は見ていて飽きなかった。千差万別とはよくも言ったものだ。
感嘆してしまうような美しさも。吐き気を催すような醜さも。全て真っ赤な果実に集約されていて、実る度に顔が綻んだ。それは魂のあり方を示してくれる。自分には無き個性を示してくれる。
種を植え付けられた事に気が付かない者も居たけれど、それはそれで都合が良い。下手に気付かれて抵抗されるよりは遥かに捥ぎ取るのが楽だから。しかし一番良いのは、ちゃんと自分に種が植えられている事を自覚し、種と共に共存する事を選んだ者だ。魂の関わり合いが深い程果実の味は甘美になる。
種は元から植えられていた。それは無面の亡霊が知っていた。あれらは自分の食べた人間だと顔の無き亡霊は言った。だから亡霊の言う通りに種を育て、果実を捥ぎ取り、喰らった。
順調だった。けれど――まだ腹が空いている。もっと食べなくては。もっともっともっともっと。
この飢えが満たされるまで食べ続けなくてはならないのだ。
その為には努力を惜しまない。種には水を与え続けるし、鳥が啄ばんでしまわぬように、虫が集らぬようによくよく見張る。万事抜かりは無い。抜かりは無いが――。
一つ気懸かりな事がある。植えた筈の無い種が一つだけあった事だ。無面の亡霊に訊いても亡霊は知らぬと言う。亡霊は喰らった人間の顔は逐一憶えているから、忘れているとは考え難い。
それならば、あれは――あいつらは一体何者なのだろう。知らぬ間に種が撒かれている事などあろうものか。勝手に芽吹き出したとでもいうのか。いいや、それは有り得ない。植えた分しか種は無い。
とりあえず静観する事にした。食べ頃であるから、さっさと食べてしまってもいいのだが――。
――鮮やかな紫色の果実には毒があるかも知れぬ。
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五月某日
貴方……何故此処に……。
やあ、どうも。酷いお怪我だ――どうしたんですか、それ。くく……もしかして――。
……何か文句あるかしら……。私、機嫌が悪いの。用が無いなら消えてくれない? でないと……。
でないと――どうします? 貴方――いえ、貴女でしたか。貴女には何も出来ない。違いますか?
ふざけているの? 手負いでも貴方一人ぐらい。……にやけた面を止めなさい、殺すわよ…!
あーあ、せっかく心配して来たんですけどねえ。こんなに無碍にされると悲しくなっちゃうなあ。
……白々しい。彼は貴方に感謝しているようだけど、私は貴方が前から気に食わなかった。その張り付いたような笑み……見ているだけで気分が悪くなる……!
おやおや、随分と辛辣な事を言いますね。ですが、この笑顔も概ね好評でしてね。
それは貴方の事を知らないからよ。同属である私には判る……。貴方は……狂ってる……!
狂ってるのはお互い様でしょう? あちこちで楽しんでいるようじゃないですか。
私は……彼の……。
宿主の為――そう仰るのですね。いいですねぇ。報われないと知りながらも自分が好いた男に尽くすなんて。泣けてきますよ。いや、本当に。
何故……何故私が女だと……!
違いますか。いいえ、違いませんよ。あれ? これは中身の話をしているんですよね。ああ、そうですよ。なら、違いません。だって、我面さんはちゃんと貴女も食べたって言ってるんですから。
なっ……何を言ってる……。
何って……そのままですけど。別に変な事は言ってませんよ。貴女が思い出せないだけで、僕達はちゃぁーんと知っています。貴女を喰らった事をね。
此処に……! お前は此処に何をしに来たッ!
いえね。そろそろ食べ頃かと思ったんで立ち寄っただけなんですけどね。来てみたら、目的のものが大怪我をしている。これは好都合ですよ。だからね、今決めたんです。
決め……た……? ……何をするつも――。
決まってるじゃないか。お前をこの場で喰う事を――だよ。
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら……。
六月某日
そろそろ、出ておいでよ。覗き魔。
へぇ……驚いたなぁ、気付いていたんですか。
ジロジロ見られていればそりゃ気付くよ。ところで……君は……。
僕はですね、不儀真――あの人と同じ『JRPC』の人間ですよ。伊井都雅峰と言います。宜しく。
……それで…? 君は私達をどうするつもりなんだい? ただの覗きって事は無いだろ? こんな年増を覗いても意味無いしね……。それに不儀君の指示でも無さそうだ。
ご名答! これは全部わたしの独断ですよ。覗きの趣味はありません。此処に来たのは食事の為――お腹が直ぐに空いちゃうんですよねぇ。食べても食べても食べた気がしない。
……というと……やっぱり……それは……君のそれは……。
そうですよ。殺した人間……あー……違うかな。食べた人間ですね。でもこれ、貴女も無関係じゃないんですよ? 一年前の三月の事……憶えてますか?
何の事…? 言ってる意味が解らないよ。
やだなぁ、娘さんの事ですよ。名前は……。そうそう、古雫絵理さん! そうでしたよね!
な――何で君が……それを……。
娘さんを殺したのは姥季淡慈という男、その男を嗾けたのは俺ですから。
……!! じゃあ…君が……全部……! 何で……そんな事を……!
貴女の――ほら、中にもう一人居るでしょう。貴女の心を揺さぶって、その男が目覚めるのを促したんです。ふふ……『何で』って顔してますねえ。……教えて差し上げます。貴女の中のそれ――『二重存在』ってやつの味は、貴女に働いた心的作用に大きく左右される。貴女が強い感情を懐けば懐くほど、美味しい果実になっていく――。そして思った通り美味しく実ってくれました。吾は美味い魂が食べたいんですよ。食べれば食べるほどに俺は完成するんだ。
……歪んでる。そんな事をしても君は所詮君でしかない……。何でそれが解らないの……。
歪んでなんていませんよ。私は魂と共に他人の過去を手に入れて、同時に自分を手に入れている。皆此方の血肉となった。僕は自分でもあり、他人でもあるんですよ。
……君って可哀想な奴なんだね……それで……そうやって……自分を失くしていくの?
何を馬鹿な事を。失くすどころか、手前は順調に出来上がってきている。以前はこんな事も言えなかったんですけどね。ちゃんとオレは此処に存在しているじゃないですか。
いいや……。君は……君っていう人間はもう何処にも居ない。断言できる。君――自覚無い? 自分が無いって。消えてしまってるって。……断言出来るよ……君は――可哀想だ……。
可哀想? ははっ、ご冗談を! あたしのどこが可哀想だと? 羨まれる事はあっても、憐憫の情をかけられる謂れなんてない!
私は君みたいな奴を見たことが無いよ……君のように哀れな奴はね。他人の個性で自分を塗り固めて……。その中心にある筈の自分を見失っている……本末転倒じゃないか……。
……止めろ! 止めろ! そんな眼で見るな! ぼくを哀れむな!
ほんっと……とことん可哀想だね……。
世迷いごとも大概にしろ! 我は……うらは……自分を手に入れたんだ! 沢山沢山食い潰したんだ! 見ろ、この姿を! これが俺だ! ちゃんと居るだろう! これがあての個性だ! 止めろ止めろ止めろ止めろ……! 何故……お前はそんなに落ち着いているッ! これから殺されるというのに! お前もあの人と同じなのか! 不儀真と! 羨ましい……! 妬ましい……! 何故俺には……それが手に入れられないッ……! 寄越せ! 寄越せよ! 俺は個性が欲しい!
……怖いんだ? 私が。自分以外の全てが。ちゃんと自分の原型を保っているから――。
僕は――俺はあの人のようになれればそれでいい! お前は黙って喰われろ!
好きにしなよ……。私に未来は見えない…過去しか見えないさ……。だけどね……一つだけ言える事がある……君はいつかきっと破滅する。彼等は絶対に君にたどり着く、そして彼等の手で君は終わる。
煩い! ずっとずっと食い続けてやる! 俺はまだ腹が空いているんだ! ああ……その喧しい口が二度と使えないように食い殺してやる! ははっ……ふはッ……あっはっはっは……!
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら。
十月某日
い……嫌だ……!刑事さん! 刑事さん! 助けてく――。
助けなんて来ませんよ。せっかく貸してあげたのに……。さあ――もう十分愉しんだでしょう。
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら。
喰らえば喰らうだけ力が増した。貪った魂は自分そのものとなった。
十一月某日
こ……この辺りなら……だ――。
大丈夫かなあ。まさか本当に逃げ切れたと思ってる?
だ……誰……!
さあ――? 当ててみたらどうだい。まぁ、さっきから哂っていたし、知っているとは思うけどなぁ。
な、何……っ! ……何で見てるの……っ!
ああそれか。それらは俺であって僕でもある。皆、私自身だよ。
いや……! いやぁあああああッ!!
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら。
元の――伊井都雅峰という人間がどんなに人間だったか忘れてしまった。
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら。
記憶も混濁してきた。最早自分が一体どの自分なのかも判らない。
自分は誰なのだ。私なのか。俺なのか。僕なのか。どれが自分だったのだ。
ああ、でもそんな事はもうどうでもいいかのか――。
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら。
とにかく喰い散らかすのが愉快で哂いが止まらない。
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら――。
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骨の髄まで溶けてしまいそうな濃縮された闇の中には、二色の繊月が朧げな赤と蒼の光を怪しく放っている。降り注ぐ光を揺らすように、けらけらと、厭らしい哂い声が雑音のように歪な波紋を広げている。
葎はその声の主、伊井都雅峰を愕然とした表情で見詰める事しか出来なかった。
狂っている。どこをどう間違えたのか全ての歯車が狂い出してしまっている。噛合ってはならぬ事象が噛合い、予期せぬ方向へと動き出している。暗く、見通しの悪い曲がりくねった道へと。
ぎいぎい、ぎいぎい、と、そんな音で軋みながら凹凸のある鋼鉄の車輪は回る。星空の黒いカーテンに隠されたまま、その無骨な姿を見せず、鈍い音のみで自分の存在を誇示している。
いけない。このままでは壊れてしまう。無理矢理噛合わせた歯車はその負荷に耐え切れず壊れてしまう。壊れてしまっては喜劇は立ち行かぬ。このままでは自ずと喜劇は転じて悲劇へと変貌していく。
それは駄目だ。道理に適わないし、筋が通らない。不愉快だ。こんなのは――。
――矢張り間違っているのだ。
葎は朦朧とした思考のみが残留している頭の中の空白の隅で、そんな事を思った。
雅峰は立ち竦む葎の顔を見返すと声を出して哂うのを止め、にい、と普段と変わらぬ顔で微笑んだ。
それは狂気に満ちたものでもなく、悪辣な精神を反映したものでもない。何事も無かったかのような極々普通の微笑である。しかし、場の雰囲気に副っていない。それがおかしいのだ。
思わぬ人物の登場に一瞬呆気に取られたものの、既に自分を持ち直しているアリカは、唸るような声で雅峰を恫喝し、威圧的でありつつ一方的な問いを発した。
「そこのお前……! この能面野郎との関係は……!」
アリカは横たわる能面の男――俄面陰我を自分の顔の間際にまで引き寄せた。顔だけは依然として雅峰の方向を向いたままであり、戸惑いと怒りが綯い交ぜになった視線を彼に送っている。
「……ん? ああ、そっか。会った事が無かったか。こっちは知ってるんだけどなぁ」
「御託はいい! 答えろ!」
激しい口調で言うアリカを見て、雅峰は眼を若干細めた。他人事を遠くから見るような眼付きだ。
彼が口を開く寸前で吹き続けていた風が凪ぎ、溺れてしまいそうな息苦しさの空気が停留した。
「先輩後輩の関係かなあ? うーん……でも先輩は瑞樹神先輩が居るから――違うか」
世間話でもしているかのような調子である。アリカはそんな雅峰を強く睨んだ。
「さて……そろそろ遊びは止めにしますか。イン、戻って来い」
それを気にする素振りすら見せず、雅峰は陰俄に向けて抑揚無く言った。
「……若造が、我をこき使うなどと……。嗚呼……口惜しや……この口で喰ろうてやりたかったわ」
わざとらしく嘆いた陰我は、液体の如く融けた。陰我を掴んでいた筈のアリカの掌から赤黒い血にも似た液体が滑り落ちていく。それは白く小さな手首から滴り落ち、やがて地面へと至った。
つう、と静かな音を立てて地へと流れ落ちた液体は、月光の渦中にあって、しぶとく居座り続けるどす黒い影に合流し、血染みのように大きく広がりながら石畳を蝕んだ。
気付かぬ内に体を侵していく病魔の如く静けさを保った赤黒い影は、生白い淡光を避けるようにして進行し、雅峰から伸びる長い人影と交わり、一体化した。
「何だよ……それ……」
ぽつりと葎は呟いた。自分が目の当たりにした光景が信じられないのだ。激しい怒気を発していたアリカでさえ、眼を見開き、口元をだらしなく緩ませてその光景を見ている。
「信じられないか? そうかそうか……。それじゃあその証拠に――」
再び葎に視線を遣った雅峰は、顔を綻ばせながら掌を前に翳した。
掌の表面が泡立っていく。ふつふつと液体のように気泡が沸き、何かを形作った。
顔――。
真っ赤な顔である。装飾人形のように無機質で、瞼はきつく閉じられている。
「これ……なぁーんだ?」
そしてその顔は葎のよく知る人物、古雫楼花の顔そのものであった。
「あ……あ……ふっ――ふざけんなッ! あんたっ……何をしやがった!」
忘れる筈も無い顔。眼を閉じた顔。死んだ人間の顔――。
「あれ? まだ信用出来ない? それじゃあ……、君ついての昔話でもしてあげようか。古雫楼花の記憶と能力も喰ったから知っているんだ。君の中に居るガラという者についてもね」
「……俺の――」
唐突に葎の内側から強い力が這い出てきた。
「……なっ……! ガラ……てめ……っ――」
有無を言わせぬその力に、葎は自分の中へと引きずり込まれた。
気付いた時には、色の殆どが欠けている風景の真っ只中に立っていた。
純白の庭には白い花が咲いている。全てが白色に染め上げられた美しい庭園である。
主が不在の庭は痛々しい程に静まり返っており、知らぬ間に女中姿の少女が沈痛な面持ちで立っている。葎は怪談より生まれしその少女に声を掛ける事も出来ず、もう一つの視界へと注意を向けた。
「――それ以上は喋るな。口が過ぎると早死にするぞ」
もう一つの視界の方では、葎と入れ代わったガラが雅峰を見据えていた。
「へぇ……やっと出てきたか」
鋭い物言いのガラを雅峰は見返し、掌を引っ込めた。既に楼花の顔は消えている。
「でもさあ、お前に俺が殺せるかな? なぁ、おい――ガランサス」
哂ったまま雅峰は石畳の上を数歩進んだ。温い風が逆巻き、落ちた木の葉が僅かに舞う。虫に喰われた朽ちかけの葉は、倒れている羽藤涼麻の身体の上にはらはらと揺らめきながら落ちていった。
「気安く呼ぶな、下種めが」
切り捨てるようにガラは返す。雅峰とは対照的にこちらは全く微動だにしていない。
「広尾を操っていたのも貴様だな。大方自分の中の『二重存在』を植え付けたのだろう」
断言するようにガラは言う。雅峰は否定する事無く、ゆっくりと頷いた。
「理解が早くて助かる。先輩と真さんはちょっと邪魔だったからね。特に先輩は僕の事を疑っていたし、厄介だった。せっかくこっそり食べていたのに、何処から嗅ぎ付けて来たのか――。やれやれ大人しくしていれば、こんな事にはならなかったのにねぇ……。事を荒立てるつもりは無かったんだよ」
けらけら――。
けらけら――。
そんな哂い声ばかりがすっかり凝固してしまっている闇を震わせる。
「嘘を吐け。いずれ貴様はこうしていた筈だ。遅いか早いかの違いだけだろう」
赤い雨が静かに降る。
しかし誰も気が付かない。誰も濡れもしない。
何故なら、雨は音も無く闇に紛れて降っているからだ。
「それでも殺しはしないさ。あたしはあの人達を慕ってるんだ。あの人達になりたいんだ」
静寂を隠れ蓑にし、赤い雨は降り続ける。雨は真っ赤な水溜りとなって地面を覆っていく。
「なりたい――か。だが、貴様では死んでもなれないさ」
真っ赤な水溜りは影の代わりに地面を埋め尽くし、じっとその時を待っている。
「いいや、なれるさ。お前達を喰えばもっと強くなれる! あの人に! 不儀真に近づけるんだ!」
ガラは自分の周囲に起こっている異変に気が付いた。足元――いや、それどころか公園中の影に何か別のものが潜んでいる。気配を消していたのか、今の今までその存在自体を感知出来ていなかった。
声が――聞こえる。夥しい数の悲鳴。苦痛を受け続ける地獄の底から響いてくるような声が。
「……っ! アリカ! 羽藤涼麻を連れて――」
異様な雰囲気を感知したガラは、アリカに向かって叫ぼうと口を開きかけた――。
――が、一足遅かった。雅峰の背中から無数の赤き鎖が矢のような速さで伸びた。
地を這い、天を蹂躙し、蜘蛛の巣のように赤色の鎖は大きく広がっていく。
そして、地中に潜み、息を殺しているそれらを雅峰の背にまで手繰り寄せた。
金属の擦る音が鳴り渡る。膨大な量の鎖が雅峰の背中に集約していき――。
「遅い! 遅い! 遅い! もう遅いんだよ!」
しん、と静まり返った。
不吉を予感させる静寂の中に、雅峰の声の残滓だけが尾を引いている。
けらけらけけらけら。
けらけらけらけらけらけらけら。
けらけらけらけらけらけらけらけらけら。
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら。
雅峰の背より、一本の赤い腕が飛び出した。腕は苦しげに悶え動いている。
やがて一本だった腕は二本、三本となり、数秒も経たない内に数え切れない程の本数にまで増殖した。
そして無数の赤い人間の上半身が激しい勢いで雅峰の背から湧き出し始めた。
赤い人間――否、かつて人間であった者達。貪欲な餓鬼に喰らわれた亡者である。
「な――何人……お前は……殺した……っ!」
苦しそうに呟いたアリカはその場に座り込んでしまった。
「数えてみれば?」
そう言って雅峰は哂った。夥しい数の亡者の半身が一人の男の背中より飛び出している。永劫とも思える苦痛を味わうその表情は悲痛極まりないものであり、それをまともに見てしまったアリカは吐き気を堪えるように口を手で押さえた。亡者は然程広くない背中に赤い鎖によって繋がれ、底無しの泥沼で溺れているかのように浮き沈みしながら手を泳がせ、口を、喉を動かし無音の悲鳴を上げている。
陰惨。悲惨。苦しみのみが渦巻いている。その様相は正に地獄そのものであった。
「それが貴様の本体か……!」
ガラは奥歯を噛み締め、哂う雅峰に侮蔑の視線を投げかけた。
「ああ、そうさ! これが俺だよ! せいぜい腹いっぱい喰わせてくれよ!」
元より許容量を超えている赤く小さな地獄は、鎖によって繋いでいる亡者を外界へと吐き出した。
背中から人間の上半身が、その上半身からはまた違う腕が、脚が、顔が、胴体が。不自然に切り取られた複数の粘土細工を再び繋げているかのような歪な所業が数珠繋ぎに連なっている。
無数の亡者の群れ――それらが一斉にガラとアリカ、そして気絶している羽藤涼麻へと襲い掛かった。
「くそ……! 離せ! お前ら……ッ」
アリカは自分の足に取り付いた亡者の腕を足で踏み潰し、引き剥がした。しかし、何度踏み潰そうが、後から後から絶えずに亡者達は腕手を伸ばしてくる。引き裂こうと、捻りきろうと意味は無い。
赤い濁流が、一人の――二人の少女を貪欲に呑み込もうとしている。
葎はその光景を白い花庭の中で夢心地に見ていた。これが本当に現在起きている出来事だと思えない。性質の悪い悪夢だとしか思えない。その現実逃避にも似た感情が、彼の認識力を鈍らせている。
――嘘だ……。嘘だって……。こんなの……――
「――しまった……!」
ガラが捕まってしまった。真っ赤な腕に首を絡め取られている。抵抗しようにも、背後からまた別の亡者が組み付いているからどうしようもない。身動きを取る事は不可能に近いと言える。
のらりくらりとした掴み所の無い動きで雅峰はガラに近寄り、顔を近づけた。
「聞こえているんだろう? 栖小埜君」
――伊井都さん……!――
「俺は君にも興味を持っていたんだ。君とガラの過去にね」
ガラとの過去――。
それは自分の与り知らぬ過去である。ガラと初めて出逢った時からの疑問でもある。
常にはぐらかされ続け、訊こうにもかわされ、自分自身で思いだすべきと言われた出来事――。
それは未だに自分の中に不安の根を深々と張っている。深く深く、心の奥深くに食い込んでいる。
――俺が――忘れてしまった事。
不安の根が急速に成長していく。養分は――眼の前の男の言葉である。
「――古雫楼花の記憶は実に興味深かった。君は俺と同じただの人間なのにも関わらず、神代の者と関わり合い、そればかりか俺とも無関係じゃないなんてなぁ!」
神代のもの? 無関係ではない? 何が何だから全く要領を得ない。
いや――そもそもこの男の言葉を鵜呑みにしてしまっていいのだろうか。伊井都雅峰という男は、つい先程まで自分を謀っていた男である。そんな男の言葉をすんなりと受け入れてしまっては――。
それでも心の虚を埋めるかのように根は成長し続けている。いや違う。それだけでも十分に疑う理由になるのだ。自分はガラについて何一つ知らなさ過ぎる。
いつだって――いつだって自分は結論を先延ばしにしてきた。自分の中のもう一人の人物の事を知ろうともせずに、ただ日常を過ごしてきた。それでいいのだと思っていた。
葎は自分の中に根差した不安の塊を直視した。それは酷く単純な疑問であった。
――ガラは俺にとっての何なのだ。
「止めろ……! それ以上は……言うな……!」
捕縛されたままのガラは自由の利かない全身を、無理矢理動かし始めた。
「いいから黙ってろよ。……あーそうそう、ガラと言えば……。なぁ、栖小埜君? 何でこいつが君の過去について中途半端な態度でひた隠しにしているか知ってるか? こいつは――」
「黙れ!」
ぶちぶちと伸び切ったゴム紐が千切れるような音を立てながら、ガラは強引に亡者達の中から抜け出し、息を切らせつつ枯れている噴水の前で片膝を着いた。
「あれぇ? どうしたガラ? 顔色がよくないぞ? あぁ――解った。栖小埜君に問い詰められているんだろう? そうだよなぁ、そうとしか思えないよなあ! だけどお前は言えない……。だって――」
けらけらけらという哂い声が――。
「自分の手で一度殺したなんて言えないよなぁ!」
何を言っているのだ。殺されたなどと、そんな訳があるか。
――ガラ……お前……どういう事なんだ……――
「………………」
葎が疑問をぶつけようとも、ガラは眉を強く寄せたまま口を閉ざしている。
――何とか言えよ! 何で黙ってやがんだよ……!――
葎は、自分の周りに起きている異変にも気付かず、ただ生い茂る白き花々の中で立ち竦んだ。白き庭のいたる箇所ではどうしたものか、紅い焔が吹き上げている。一つ一つは葎の足首までの高さしか無いが、寄り集まったそれの存在感は凄まじく、近づいただけで燃えてしまいそうな熱気を放っている。
怪談より生まれし少女はその火を消すために、これまたどこから持って来たのやら分からぬ団扇で吹き消そうとした。が、無論、風で煽っているだけなので逆に火の勢いを強めるばかりである。少女はおろおろとあたふためいて、再び団扇で扇いだ。そしてまた火の勢いは強くなった。
葎はそのような中で、もう一つの――ガラの見ている方の光景に気を取られていた。
羽藤涼麻が――ああ、矢張り彼の許には亡者達が群がっている。主の合図を待っているのだろう、亡者達は取り囲んでいるだけでまだ何もしていない。
四肢を縛り上げられているアリカ。俺に何かを隠しているガラ。逃げ場の無い羽藤涼麻。
地上を埋める赤色の中心では雅峰が大口を開けて哂っている。
皆殺される。骨の一片まで残らず、跡形も無く喰われてしまう。そして、あの亡者達のように鎖で縛られ、また次の犠牲者を食い殺す道具として手足のように使われるのだ。
据わりの悪い不信感を抱えたまま。何も助けられないまま。殺されていく。
――そんなの。
葎の中で艶やかな焔の蕾がゆっくりと花開いた。
雅峰の亡者や鎖と同色の『赤』ではなく、可憐な『紅』の花である。
――そんなの間違ってる。
焔の如き猛々しい美しさを誇る紅花は、火の粉を撒き散らしながら芽吹き続ける。
――間違ってる。間違ってる。間違ってる。
昔と同じように紅の花が葎の中身を焼け付かせながら、増えていく。
――間違っているのなら――。
紅蓮の花の狂おしい程の美しさに焚きつけられ、脆弱で危うい心は燃え上がった。
――全部――。
唄が聞こえた。悲しそうに、小鳥が囀るかのような歌声が――。
――これは、この前見た夢の声。
失うのが厭ならば、全てあの時のように壊してしまえばいい。それが貴方の願いなら――。
華麗な紅色の声は、心地のいい、包み込むような優しい声音でそう謡った。
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かつてない喜び。これ程までの快感は、赤い鎖を食んだ時以来である。
雅峰は歓喜に身を震わせながら鎖に繋いだ亡者達を操った。噴水の前のガラに無数の手が、口が襲い掛っていく。死肉に集る蝿のように、亡者達はガラの姿をその圧倒的数の暴力で覆い隠した。
これでいい――雅峰は哂う。愉しくて仕方が無いのだ。葎とガラの記憶を盗み見た彼にとって、彼ら二人はまず極上の食物には違いない。確実に美味いという保障が為されているのだ。
そして彼らの次はアリカを。その次は羽藤涼麻を。順番に食い殺す。
愉しくない訳が無い――彼は細く笑みながら、亡者達に指示を下した。
心待ちにしていた瞬間である。雅峰は、より一層、その笑みを強めた。
「……さあ……存分に食い散らかせ!」
また自分はあの男に――不儀真に近づける。
雅峰は幸福を噛み締めつつ、断末魔に耳を澄ませた。
「……この音」
死の間際の声が聞こえてこない。聞こえているのは、亡者達のどよめきと――。
――火が粛々燃える音。
「……火……?」
突然ガラに群がる亡者達の内側より、紅の焔が噴き出した。
あまりの熱量に空気は歪み、周囲の石畳すら溶解してしまっている。
夜映えする火焔は赤々と燃え盛り、数多の亡者達を一瞬の内に灰にまで変化させ、生きているかのようにアリカの許へ、羽藤涼麻の許へと、その不定形の触手を伸ばしていく。
――何か、おかしい。
不可解な感覚。起きる筈がない事が起きている。ただ、何かと問われれば答えに窮してしまう、
雅峰は哂うのを一旦止めて、事の成り行きを見守る事にした。
ぞっとする程に美しい熱の急流は、息も吐かせぬ速さでアリカと羽藤涼麻を囲っていた亡者達を燃やし尽くし、彼らと残っている亡者達との間を壁のように隔てた。ガラが膝を着いていた場所では鮮烈な焔が渦巻いていて、その中心に居る筈の彼の姿を垣間見る事は出来ない。
「何だ? まさか……いや……まさかな」
そんな筈はない。それは――いや、仮にそうだとしたら――。
雅峰は嫌な予感を振り払うように首を振り、再び自分の背に捕らわれている亡者達をガラに向かわせた。それと示し合わせたかのように焔が小さく萎んでいく。
勢いを急激に弱めた紅の蔽いの向こう側には、ガラが静かにぽつんと立っていた。
「……一体……何をしたのかなぁ? 教えてくれよ!」
亡者達の手がガラに向かって一斉に突き出された――。
が、それらはガラに――葎の身体に届く前に炭化し、崩れ落ち、消滅した。
――ああ、そうか。そうだ。それはおかしいのだ。
不可解な感覚の正体がやっと掴めた。至極簡単な事である。
魂である亡者達が炭化したり、灰になったりする筈が無いのだ。
「……お前……」
焼け付いた記憶。唯一、古雫楼花の能力でも読み取れなかった記憶。
「――邪魔」
凍り付いてしまいそうな程に冷たい声音。蒸発するように亡者達は焼き殺され、消え去っていく。
魂すら焼き尽くしてしまう焔。それは勢いを留める事無く雅峰にまで到達した。
「……っ!?」
焔を間一髪避け切った雅峰は、暗中に佇む人物を睨んだ。
栖小埜葎の姿。しかしその中身は当人でも、ガラでもない。おそらくあの中に居るのは――。
「あはは……あはははははははっ!」
――穴の空いた記憶の断片に見え隠れする赤い少女。
紅い火の粉が蝶の燐粉のように儚く舞い散った。
文章が酷い? 仕様です。




