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duplices  作者: rakia
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穢れた手

 さぼってたら、こんなに遅くなってしまいました……。申し訳ない。


 一月に終わりたいって言ってたけど、無理だす……。いやでも頑張る(以下ry

 

 さて、今回は若干のアレな展開が予想されるでしょう。


 まあ、いつもより若干暗いかな……。まぁでもそんなにアレでは無いと思いますよ? 作者の表現力の問題で、チープに見えるから小さいお子さんでも大丈夫!



 それでは、初めり……。ん? 初めりって何だ。





 おぼろげな心持で窓の外を眺めていると、幾分か気が楽になった。

 今朝から熱っぽい。ふわふわとした、風邪を引いた時特有の、あの熱っぽさだ。

 薬は飲んできたし移す心配はいらないけど、矢張り体調は優れない。さっきからずっとこんな調子で、私は外の景色を眺め、気分の悪さをどうにか堪えていた。

 眠い。薬が効いてきたのだろうか。ここの所――――ずっと忙しかったからかな。

 朝方の眼に染みる様な陽光は、私の髪を容赦なく照りつける。うららかな陽射しが体を包み込んでいくと、余計に眠くなった。こういう日の光は火照った体に浴びても尚、優しく柔らかに感じる。

 うとうとと定期的に下がる瞼に些細な抵抗をしつつ、私は校門から校内へと入ってくる人達を見下ろしていた。

 登校時間がいつも早い私は、かなり余裕を持ってこうして教室の中でのんびりとする事が多い。

 藍子ちゃん達や友達に誘われて一緒に登校する事もあるが、疲れている時は学校には専ら一人で来る。

 疲れた顔を見せるのが嫌なのだ。疲れていても、それを見せたくない。

 そんな顔を見せるぐらいなら、空元気でもいいから笑顔を作っていた方が良い。

 心配そうな表情をされると、胸の真ん中がちくりと痛む。そんな暗い顔を私は見たくない。

 そんな顔――――もう、見飽きた。小さい頃から。香奈が生まれて間もない頃から。

 感情の無い定期的なリズム。白と黒の縞模様。味気の無い読経。そして抹香の匂い。

 私はそれらに取り囲まれ、香奈と二人だけ残された。そんな私達を暗い顔は気の毒そうに見るのだ。


 ――――可哀想に。


 誰が言ったのかも分からないその言葉で、漸く私は自分が可哀想なのだと気付いた。

 寂しかった。だけど私の手を香奈はしっかりと繋いでくれていた。私の方が年上なのに、香奈は私を慰める様にずっと手を繋いでくれていたのだ。香奈はその時の事を憶えていないと言う。

 でも私は憶えている。私には残っている人が居る。それがどんなに心強かった事か。

 私よりも少し体温の高い手から伝わる温もりを感じて思った。私が彼女の分まで頑張らなければならないと。今の様に暗い顔をしていてはいけないと。大切な妹にこんなに嫌な――――暗く、気の滅入る景色を見せてはいけないと。

 もう一人、私達を遠巻きに見るのではなく、無言で抱きしめてくれた人が居る。

 叔母の美那子さんだ。

 彼女は母の妹で、祖父母の家を勘当同然で出て行ったっきりの人だった。

 勢いで出て行った彼女を母はよく心配していたのを憶えている。姉妹の仲はかなり良く、祖父母には内緒で頻繁に連絡も取っていた様だ。

 私と香奈は彼女には会った事が無かった。丁度その頃、美那子さんの勤めている会社が忙しかったそうで、私達が住んでいた家に来るに来られなかったそうだ。だから私達の事は電話越しの声や、手紙でしか知らなかったらしい。

 そして美那子さんの仕事が漸く落ち着いた矢先に――――それ(、、)が起きた。

 私達からすれば見た事も無い叔母であり、美那子さんからすれば私達は見た事も無い姪達。

 なのに彼女は写真でしか知らない私達を見つけ出し、抱きしめた。

 私と香奈――――二人とも母と父にそっくりだったから、直ぐに自分の姪だと分かったと、後で聞いた。

 大きな体が私達を抱き寄せて震えるのを見て、私は泣いてしまいそうだった。

 でも泣けなかった。此処で泣いたらポッキリと自分が折れてしまう様でダメだった。

 自分が折れたら香奈はどうなる。姉のみっともない姿を見晒す訳にはいかない――――。

 私は最後まで泣くのを我慢した。でも――――。

 その日の帰り道で美那子さんが言ったのだ。『あなただけが無理しないで。私達は家族なんだから、家族の前では思う存分泣きなさい』と。

 細い涙を微かに流す美那子さんを見て、ついに私は泣いてしまった。

 美那子さんは私達、姉妹を家族と言ってくれた。それが嬉しかった。

 それからだ、私の家族が香奈と美那子さんの三人になったのは。私が香奈に暗い顔を出来るだけ見せない様に努力し始めたのも。それが――――最初。

 

「あっかりー!」


 眠りに落ちかけていた私の背中に誰かが圧し掛かってきた。


「んー?」

「眠そうだねー? 夜更かし?」


 私が顔を上げると、殆ど閉じている様な糸目が私の眼を覗きこんでいた。


「あぁ……藤枝ちゃんかぁ」

「元気ないな~? どしたどした? 体も何か凄く熱いし……。まさか私に発情……」

「してませんよ~」

「なあんだ、残念……。ん゛~じゃあそうなると……これは……」


 私の友達、桂木藤枝(かつらぎふじえ)は私の上に乗ったまま、体を包み込む様に手を回してきた。


「くすぐったいなあ……」


 私が抵抗しないでいると、藤枝ちゃんは急に体を離し、言った。


「風邪だ。風邪だね?」

「……おおお? どうして分かったんですか? 正解です……」

「顔色と声の調子。そして抱きしめた時の体温!」


 そんなので分かるんだ。

 私は素直に関心した。


「休んだ方が良かったんじゃない?」

「いえ……今日も買い物とか色々あるので……」

「無理しちゃダメだよ。……灯ってさホントは――――」


 藤枝ちゃんの言わんとしていた事、それは容易に察しがついた。

 あまり――――聞きたくはない。そんな事は自分が一番よく分かっているから。

 

「たのもォォォォォ!!」


 廊下から教室の中に向かって、大きな声が飛んできた。

 私はいつものアレ(、、)だと思って、机に頭を横たえつつ廊下に向かって返事をした。


「入れ~」


 他クラスだというのに、廊下の声の主は臆する事無く、ずかずかと教室内に入ってきて、私の机の方に歩み寄ってきた。私は口元だけで笑うと、その人物は意外そうに眼を丸くした。


「何だよ、南屋。お前、調子悪いのか?」


 教室に入って来た風早君は、私の頭を上から押して、バスケットボールみたいに弾ませた。


「う゛あ~……、やめ~」

「だ~い~じょ~う~ぶ~なのかよ~」


 これは彼なりの心配の仕方なのである。短い付き合いの中で学んだ事だ。


「とりあえず私の顎が大丈夫じゃないです~」


 机に押し付けられている顎を頑張って動かした。


「顔、かなり真っ赤だぞ? 熱もあるんじゃね?」

「……いやあ……少しだけですよ」

「やっほー、風馬鹿」


 藤枝ちゃんが風早君に向かって挨拶代わりに手を挙げた。


「馬鹿じゃねえ! 俺は風早だ! この糸目女!」

「そ~んな事言っちゃうと~、藍子ちゃんに言っちゃうよー?」

 

 風早君を手っ取り早くあしらうには藍子ちゃんの話題を出すと良い。

 これは私がこの前、藤枝ちゃんに教えた。


「人でなし! お前には人間の情というものが無いのかーッ!」


  からかう様な藤枝ちゃんの肩を風早君はガシっと掴む。それを見て、私は頭を机の上で転がしながら笑った。


「……で。どうしたんですか? 風早君」

「ほら、この前借りた公民のノートあんだろ? 返しに来たんだよ。ほらこれ、ありがとな」


 ノートが机の端に置かれる。落ちたらいけないので、重たい体を起き上がらせてノートを両手で掴んだ。


「どうもー」


 何となくぱらぱらと捲り、私は風早君に向き直った。


「帰りでも良かったんですけどね。お役には立てたでしょうか、ミスター?」

「勿論さ、ハニー。おっと、そうだ。帰りで思い出したんだけど、今日は一緒に帰れねえんだよ」


 風早君は遠い目でそう言った。


「何かやったんでしょ」


 彼は毎日の様に面白い事をやってくれる。見ていて全く飽きがこない。


「正一と俺と士の三人でバレーボールの打ち合いをやってたら、バレーボールが破裂した」

「どうやったらバレーボールが破裂するんですか……。あれ結構硬いですよ……」


 私はあのよく弾む、白と黄色と青が組み合わさったボールを想像した。


「俺のせいじゃねえもん! たまたまだし! 偶然にも破裂しただけだ!」


 風早君の偶然は必然に近い。しかしまあ、よくもあんなに硬いものが割れたものだ。


「先生はぁー、俺がやったって言うしぃー。正一もォー巻き添え喰らった……」

「馬鹿ですねー」


 私がそう言うと、藤枝ちゃんも大きく頷いた。


「うわー馬鹿だねー。部の備品じゃなくて良かったよ。それと語尾を伸ばすな。キモイ」

「キモイって言うなよッ! 糸目!」 


 風早君はジロリと藤枝ちゃんを睨み付けた。だけど、藤枝ちゃんはどこ吹く風といった様子で、口笛を吹いている様な仕草をした。


「馬鹿って言われた事に関しては突っ込まないんですね」

「もうね、逆に考える様にしてんだよ。馬鹿ってのは褒め言葉じゃねえかって」


 彼の声には堂々とした何かがあった。それを誇りというのは違うのだろうが、私は妙に感心した。人間、諦観すると、こうも見事に開き直れるのかと。

 他愛の無い会話をしていると心が落ち着いてくる。安心したら――――体がぽかぽかとしてきて――――。


「――――南屋? おい、ボケたか?」


 風早君は呆れ返った表情で私の額を突っついていた。


「えっ……。あ――――何でしたっけ……」

「おいおい、マジで早退した方がいいんじゃねえのか」

「オリゴ糖ございます……。でも誤診は無く……」

「お前、言葉が滅茶苦茶になってるぞ……」


 ――――矢張り頭がポーっとしている。普段ならもっと喋れるのに、今日は全然、内容すら頭に入ってこない。これも熱っぽいせいだ。

 私は会話の内容を反芻し、脱線した本筋を追った。


「今日は藍子ちゃんと理沙ちゃんと……秋葉君かぁ……。……秋葉君……肩身が狭そうですねえ……。あっ、でも斉藤君も居ますし……大丈夫かな……」

「いんや、正一も士も俺のとばっちりで、廊下掃除をやらなきゃなんねえの。それと藍子はまた委員会だって。伊織は腹痛で休みだ」

 

 秋葉君も災難だなぁ……。普段が真面目の塊だから余計に目立つのかな? 藍子ちゃんと秋葉君は同じ図書委員だから……ああ、二重の意味で大変だなぁ、彼……。

 理沙ちゃんは腹痛かー……。……食べ過ぎだろうな……多分……いや絶対。藍子ちゃんは藍子ちゃんで忙しそうだ。


「あらら……私一人になっちゃいましたねー……。ううっ……寂しいなぁ……。藤枝ちゃんもバレー部の練習ありますもんねぇ……」


 私は見え透いた泣き真似をしてみた。藤枝ちゃんはそんな私の肩をポンポンと軽く叩いた。


「はいはい。バレバレな泣き真似はノーセンキュー。待っててくれてもいいんだけど……。ん~でも……具合悪そうだから、大人しくかつ寂しく帰りなさい」


 丁度良かったのかも知れない。早く帰って――――ご飯作って……洗濯物を取り込んで……それで……ゆっくり寝よう……。香奈には謝らなくちゃ……。今日は遊んであげられない……。


「――――しっかりしろー。生きてるかー?」


 藤枝ちゃんの顔が眼と鼻の先にまで近づいていた。


「うわあ……」

「『うわあ』って……傷付くなあ。やれやれ……」

「……眠い……です……」


 景色が点滅する様に暗転したり、明るくなったりを繰り返している。とにかく眠い。


「起こしてあげるから寝てな。ほら、風馬鹿は馬鹿なんだから帰った帰った!」

「理由になってなくね!? 馬鹿だから帰れって何だよ!?」

「面白みの無い突っ込みしか出来ない奴にはこのクラスに立ち入る資格は無い。はい、理由が出来た。帰れ」

「何だよそれ! 糸目め!」

「糸目で何が悪い! これはこれで需要があるのさ――――!」


 教室の景色が霞んできた――――眠い。少し……眠ろう……。

 私は腕を枕にして、頭を腕に横たえた。

 あちらの世界は今頃どんな感じになっているんだろう? また――――あの人に逢えたらいいな。

 私の意識は夢の穴へと吸い込まれていった。

 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 交通量の多い車道の脇にある歩道を、一人の少女が小石を蹴りながら歩み進んでいく。背中には大き過ぎる赤いランドセルを背負い、働き蟻の様に黙々と足を動かす様はどう見てもつまらなさそうである。

 俯き加減で、淡々と。少女は石を蹴り続ける。作業の如く。それが義務であるかの様に。

 少女が蹴っていた小石が申し訳程度に引かれた歩道と車道を区切る線から抜け出した。

 強く蹴り過ぎたのだ。少女はその石を慌てて追った。逃げてしまわぬ様にと。

 勢いの付いた石は、自身の歪な角を路面に擦り付けながら不規則に跳ねた。

 小石が辿り着いた先は車道の真ん中である。少女は小石の方に走っていった。

 静かなエンジン音が少女の背後から迫ってくる。だが、少女にはその音は聞こえていない。石に夢中になっている彼女には背後から響く音など眼中に無い。少女の視界には石しか映っていないのだ。

 風に紛れた死の匂いが車が近づいていく度に濃くなっていく。黒く陰鬱な予兆が少女の中を横切り、少女は振り返った。


「車――――」


 けたたましいクラクション音が響き渡る。

 真上に輝く太陽が少女にはとても赤い発色をしている様に思えた。


「何してるんすか!」


 その瞬間、少女は力強い手に襟首を掴まれ、ぐいっと歩道の方へと引き戻された。自分が先程まで居た場所を大きなものが通り過ぎていく。歩道へと戻った少女は過ぎ去っていくライトグリーンの軽自動車を呆然と見た

 襟首を掴んでいた手が離れ、支えを失った少女は地面へとへたり込んだ。


「ダメじゃないっすか! あんな所に突っ立ってたら!」


 少女は自分を歩道へと引き戻した人物の方を向いた。

 高校から帰ってきた途中なのだろう、黒い学ランを第三ボタンまで開けている少年が仁王立ちで少女を睨んでいた。


「あっ……とーじ……」

「『あっ』じゃねえです。轢かれたらどうするんですか」


 折島東児はそう言って、南屋香奈の頭を拳骨でこつんと叩いた。


「痛いぃ……」


 香奈は涙を眼に溢れ出しそうなほど溜め、両手で小突かれた部分を押さえた。

 本当の事を言うと、香奈にとって東児の拳骨はそこまで痛くはなかった。だが、自分の身を案じて真剣に怒ってくれている東児を見ている内に涙が滲んできたのだ。

 そんな事は知らない東児は慌てて香奈の頭を慰める様に撫でた。


「ちょ……! な、泣かないで下さいよ! 俺が悪かったっすから……」

「ううん……ごめんなさい……」


 沈んだ表情の香奈に困った東児は、どうにかしようと周囲を見回した。

 道沿いには小さな公園。そしてその近くには白い色の自販機がある。

 ――――お、丁度いい所に……。

 東児はそっと香奈の目の前にまでしゃがみ込み、機嫌を伺う様に香奈に話しかけた。


「ち、小さい姉御……? 喉渇いてませんか?」

「…………ちょっとだけ……」

「偶然にもあんな所に自販機があるんすよ。奢るんで何でも言ってくださいっ」


 東児は香奈の視線を身振りで促しながら、自販機を指差した。

 香奈は充血した眼で自販機を見詰めると、蚊の泣く様な小さな声を出した。


「……じゃあカルピス……」

「カルピスっすか! あー……じゃ、そこの公園で待っててくれますか?」


 香奈は公園の方向を一度見ると、東児に向き直り、頷いた。

 一先ず宥める事が出来たか、と胸を撫で下ろした東児は腰を上げ、尻のポケットから銀と黒の財布を取り出し、自販機へと歩いて行った。

 香奈は喉を鳴らし、声の調子を整えると、歩いていく東児を追いかけた。


「待ってとーじ」

「はい?」


 小さく駆け寄る足音に東児は歩を止めた。香奈は東児の背中に抱き付く様にぶつかっていった。


「……わたしも一緒に行く」

「待っててもいいんすよ?」

「いい、行く。それと――――」

 

 香奈は一瞬言い淀み、やっとの思いで口を開いた。


「……さっきはありがとね……」


 斜め下を見ながら、香奈はそう言った。

 先程、彼が自分を助けてくれた礼を言いそびれていたのだ。タイミングを逃したからか、香奈は変に恥ずかしい気分である。

 そんな香奈を見下ろしている東児は、不意を突かれたかの様に瞬きを数回してから笑った。


「礼なんてとんでもない。兄貴から頼まれましたからね、小さい姉御と姉御を守る様にって」


 今度は香奈がきょとんとした表情になった。しかし意味を理解した香奈は、おおらかに笑う東児をしげしげと眺めてから、微笑を返した。


「……じゃあ……しっかり守ってね」


 香奈は東児の右腕を両手で抱き掴んだ。すると東児は鼻を誇らしげにふん、と鳴らした。


「おうっす。存分にこき使ってください。兄貴に助けられてなきゃ今頃病院で寝ていたでしょうし、これぐらい恩返しの内にも入んないっすから」


 東児は香奈に取り付かれている腕を香奈ごと持ち上げた。香奈は『おおっ! すっごい』、と嬉嬉とした表情で足をばたつかせた。愉しげな笑い声が風に散っていく。

 そんな彼等の上にある太陽は傾き始め、影もそれにつられて濃さを増していく。

 本当の兄妹であるかの様に東児と香奈の足元から伸びる影は、伸びて、伸びて、伸びて――――。

 深い欲望が覗き見る暗闇に結び付いていた。

 



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「寒みい……」


 栖小埜葎はやたら分厚い本の束を両手に抱えながら身を震わせた。

 両開きの四角い窓から吹き込む風はやけに冷たく感じる。ついこの前までは窓を開けていて丁度良いぐらいだったのに――――と彼は首を竦めつつ、窓まで歩いて行き、片方づつ閉めた。

 店主が寒がりなのにも関わらず、窓を開けていたのは換気の為らしい。基本的に古い物品が集まるここ、『天儀屋』では、どうしても空気が滞り易いのだ。

 葎は無数の得体の知れない書物が混沌としつつも整頓されている書棚へと向かい、自分の持っている本を次々に空いているスペースに差し込んでいった。

 豪華な装飾。古めかしい書体。崩れそうな本体。紙に染み付いたオカルトチックな香り。

 意外にもこの素性の知れない書物達の愛好家は多く、入れ替わりが激しいので書棚が溢れ返るという事は滅多に無い。半分近くが一般的には需要が無い書物だとしても、それをわざわざこんな所まで買いに来る好事家もいるのである。それ故書棚の商品回転率は非常に高い。需要が無い書物が多いとは言っても、需要が無いだけであって、無価値で使えない書物という事ではない。むしろ使える書物(、、、、、)が多いのだ。ただ、使える人間が限られていたり、そもそもの用途が不明であったり、無闇に使うと色々と危険な代物が多いからこその需要の少なさと言えるだろう。

 持っていた本を全てしまい終えた葎は、ふと窓の外に視線を動かした。

 十月も中盤に入り、本格的に秋の色を表す様になった秋の空は薔薇色の採光で満たされ、どこか哀愁的な雰囲気を漂わせている。この頃日が暮れるのが早くなってきたなぁ――――と思いながら葎は瞼を擦った。日が暮れるのが早くなったのと同じぐらいに、朝起きるのが億劫になりつつある。だから、毎朝寧が葎を起こしに来てくれるのは彼としてはありがたい事であった。

 そんな寧はせっせと店内の掃き掃除をしている。基本的に道楽商売であるこの店では、根が働き者の寧にとってはかなり暇を持て余す職場なのだろう、最近は掃除に凝っている。お陰で『天儀屋』の店内は過剰なまでな清潔さを保っているのだが――――何にしてもやりすぎではないか、と葎は何となく寧を見た。

 寧が葎に気付く。視線が交わり、しなくてもいい意思の疎通が開始される。

 葎は店内を一周させる様に眼を動かした。もう掃除は十分じゃない? という意味である。

 寧はそれの後を追う様に視線を回し、葎の方を微笑みつつじっと見た。『どうですか! 凄い綺麗になったでしょ!』という意味である。

 葎は寧が寧が解ってないと思い、首を横に振った。『いや、もう綺麗だから良いって』、という意味である。

 寧は片眉をピクリと動かした。『まだ綺麗になっていないですか?』という意味である。

 葎は寧が察してくれたのだと理解し、頷いた。『そうだ。もういいからね』、という意味である。

 寧は残念そうに顔を顰めつつも掃き掃除をする手を強め、葎の方にチラリと視線を送った。『えー、結構頑張ったんですけどねぇ……。こんな感じですか?』という意味である。

 葎は激しさを増した掃除を見て、違う違う、と大きく首を振った。『そうじゃない、もう良いんだって』、という意味である。

 寧は、これならどうだ! と猛り狂う様に箒を素早く振り始め、葎の方を得意げに見た。

 だが、葎はそれに首を傾げた。

 二人は一切の動作を止め、お互いを見詰め合った。

 葎の頭上には『(クエスチョン)』マークが浮いた。寧の頭上にも『(クエスチョン)』マークが点滅した。

 彼ら二人は言葉を使った方が自分の言いたい事を伝えるのには手っ取り早いという事実に気が付いていない。そんな彼らをレジで伝票の整理をしている真は不思議そうに眺め、それから店内の壁掛け時計に眼を遣ってから、席を立ち上がり、従業員通路の奥へと歩いて行った。三時のお茶の準備をする為である。

 しかし、彼は気付いた。お茶の葉を切らしている事を。

 少しの間立ち止まっていた真は、相も変わらず『(クエスチョン)』が点灯し続けている、葎と寧を店の奥から呼んだ。


「ちょっとー、葎君と橋間さん。頼まれてくれないかな?」


 無言の問答を中断し、葎と寧は従業員通路の方を向いた。


「わ――――」


 葎が口を開く。しかし、


「いいですよー」


 と葎が答える前に寧が応えた。


「お茶の葉を買ってきてくれないか? 駅前の店のやつなんだけど」


 葎は以前、真と一緒に茶葉を買いに行った怪しげな店を思い出し、身震いした。


「あ、あそこっすか……」

「うん、あそこ。俺は茶菓子の支度をして待ってるから、悪いけど頼む」

「……わっ分かりました……」


 蒼い顔の葎を寧が肘で突っついた。


「どうかしました? 顔色がとんでもない事になってますよ?」

「な――――何でもないっ……」


 その顔で何でもないって事は無いんじゃないか、と寧は不安になった。

 そして葎と寧の二人は同時に深いため息を零した。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 上下に世界は揺れ動く。香奈は自分の視界をそんな風に自分の中で形容してみた。

 幻想的な景色が香奈の座っているブランコの椅子からはよく見える。

 橙色の光。輝石よりも眩いその光が濃密になっていく夜の帳の体内で膨らんでいく。

 ――――夕焼けだ。

 東児に背中を押してもらいながらブランコを漕いでいる香奈は、空に手を翳した。

 光が足りないのか、手は透き通らない。中途半端に指先が輝くだけである。しかし、急に指先から輝きが掌に向かってじわりと染み込み始めた。

 空が橙の光で満たされ、空が火を点けた様に燃え上がる。

 刹那、最後の締めくくりだと言わんばかりに光は強くなり――――それから萎む様に消え沈んでいった。

 それはまるで夏の蛍。命の灯火にも似ていた。大きさは違えど、それは驚く程に。

 太陽が完全に沈んでも、香奈の座っているブランコは止まらない。彼女は片手に赤茶けた鎖とアルミ缶を握り締めつつ、膝を曲げ、伸ばし、また曲げ、伸ばした。

 勢いの付いたブランコはもう押す必要は無い。香奈を押していた手を引っ込め様としたが、香奈がどうやって気付いたのか、『止めないで』と言ったので、推し続ける事にした。

 錆びた鎖が軋む。長い間手入れをされていないからであろう。

 香奈が漕いでいるのは、今では撤去されている公園も少なくない古臭いブランコだ。

 何人の人間がその上に座ってきたか分からないブランコの上で、香奈は小学生の少女には似つかわしくない物憂げな顔で揺れる景色だけを眺めている。日が落ちた景観の中で、その表情は余計に哀愁に彩られている様にも見えた。

 香奈は何も見ていないのだ。眼には映ってはいるが、それは肌を撫でる風の様に通り過ぎているだけで、実際は眼を閉じているのと等しい。

 香奈は独り言の様にぼそりと静かに呟いた。騒音が少ない中で、その声は鈴の音の様に心地よく東児の鼓膜を振るわせた。

  

「ねえとーじ」

「そろそろ帰りますか?」


 東児は遠く景色を見つつ言った。しかし、香奈は首を横に振る。


「違う。まだ帰らない」

「でも、あんまり遅くなると姉御と兄貴が心配しますよ?」

「もうちょっとだけ……。あのね……」


 香奈は何処を見るでも無く、空を仰ぐように顔を上げた。


「わたしが居ると……おねえちゃんは頑張りすぎちゃうんだよ」


 物悲しい金属の音だけがその場に満ちる。香奈は時間の流れがとても緩やかになっているのを感じた。


「はあ、姉御がですか」


 東児は灯の姿を思い浮かべた。彼は昨日初めて灯に会ったばかりだが、頭に浮かぶ灯の表情は全部笑顔である。とても苦労をしている様には思えない。


「うん。とっても……」

「俺にはそうは見えないっすけど」


 東児は香奈の背中を受け止めた。先程からずっと動き続けていたブランコは呆気なく止まった。


「してるんだよ。わたしの為に疲れてても色々としてくれるの」

「姉御って……苦労性なんすね。……兄貴はどうなんすか?」


 香奈は眼を細めて東児を振り返り見た。少々、小馬鹿にした様な目付きである。


「…………あれ? 変な事言いましたか、俺……」 

「とーじはどんかんだね」

「そうなんすか」


 何の事か分からない東児は、眉を顰めた。


「……おねえちゃんは自分の事を全部後回しにしちゃうんだ。だけどね、それなのにわたしはおねえちゃんに何もしてあげられない……」


 香奈は静かな独白を続ける。東児はそれに口を挟む事無く、黙って香奈の言葉を待っている。


「いっつもそう……わたしはしてもらってばっかり……」 


 そこで香奈の言葉は途切れた。

 沈黙が下りた公園の中で、乾いた風が微かに地表を掠める音だけが聞こえる。


「……何つーか……人様の家の事に口を出すのってアレかと思うんすけど……今はそれでいいんじゃないっすかね」


 沈黙を保っていた東児が口を開いた。懐かしむ様な口調である。


「……俺ん家、四人兄弟なんです。そんで俺はその末っ子。一番上の兄貴とは結構離れてて、親も共働きで忙しかったんで小さい頃から兄貴達に面倒見てもらってました。兄貴達だって好きな事をしたかったでしょうし、俺の面倒を見るなんて面倒臭せえ事なんかしたくなかったでしょう。でも、兄貴達は文句の一つも言わないで俺ばっかり構ってくれて、そんで俺はそれが申し訳なくって、丁度今の小さい姉御みたいに思ってました」

「とーじも……?」


 香奈は頭を僅かに傾けながら東児に尋ねた。


「はい。情けねえ話っすけど。でも――――結局、大した手伝いは出来なかったっす」


 東児は照れ臭そうに口の端を歪めた。


「今出来る事をやる、それで十分っすよ。少しずつ返していったらいいんじゃないっすかね。って……俺なんか未だにツケが溜まりまくってますけどね」


 そこで彼はふと微笑んだ。それは彼をよく知る人間でなければ見逃す様な微々たる微笑であるが、香奈にはそれが笑顔なのだという事が分かった。


「そう……かな……」    

「姉御は小さい姉御がいるから頑張れるんじゃないっすかね」


 東児は錆びついたブランコの背面から正面へと回り、香奈の前へと立った。


「わたしが居るから……?」

「心の支えがあると、人って十倍ぐらい頑張れるんすよ」


 香奈に手を差し出しながら東児は言う。香奈はその手を掴み、ブランコの座席から降りた。


「…………帰ろうか、とーじ」

「うっす」

「うち、寄って行ってね」

「女所帯に行くっつーのは、どうも……。昨日は成り行きで入っちまったっすけど……」


 東児は昨日の自分の行動を振り返り、何と大胆な事をしでかしてしまったのかと若干後悔した。


「気にしないの。とーじはしゃてい(、、、、)なんだから」


「……おねえちゃん……調子悪そうだったから、わたしお手伝いしてあげたいんだ。だけどやり方とか分かんないし……ね、ダメかな……」

「ま、まぁ……簡単な家事ぐらいなら手伝えますけど……」


 東児は照れ隠しでもするかの様に、頬を掻いた。


「それじゃあ、こっち――――あ、ごめんなさい……」


 目の前も見ずに、歩き出した香奈は誰かにぶつかった。


「………………」


 そこには村家霧人が無言で立っていた。


「昨日の刑事……。あんた……どうしてこんな所に……」


 ――――様子が――――何だ、この違和感は……。

 香奈の後から続いた東児は、霧人から伝わる奇妙な空気を感じ取り、咄嗟に香奈の前へと出た。


「……そのガキも~らい」


 無表情であった霧人の顔が裂けた様に笑った。


「テメェ何言って――――」


 東児の耳元で風が唸る。彼の顔に横殴りの拳が襲い掛かったのだ。人間の柔らかさが存在しない奇妙な拳は東児の脳を揺さぶり、東児は一撃で地面へ倒れこんだ。


「いっ……きなり何しやがんだ……!」

「あぁ、お前、あいつと一緒に居た奴か。やめとけやめとけ、てめえは何にも出来ねえから」


 ――――昨日の刑事じゃない……!?

 東児は直感的にそう思った。明らかに昨日彼が出会った村家霧人の雰囲気から、目の前の人物は逸脱している。


「く……ちくしょう……!」


 視界がグラリと揺らめく。吐き気と共に意識が遠のく。

 ――――香奈が連れて行かれる。それだけはならない。約束したではないか、灯と香奈を守ると。

 絶対に――――守ると。

 気絶し掛けても不思議ではないのにも関わらず、東児は地面に這い、霧人の皮を被った何者かの足を掴んだ。


「待てこら……っ。に……がさねえ……ぞ……っ」

「うぜーえ。お前みたいな屑が俺に触れんな。……汚ねえんだよッ!」


 東児の手は力無くはずれた。東児の肩甲骨が踏みつけられる。キシキシという圧迫音の後に東児の肩に激痛が走った。続けて東児は胸倉を掴み上げられ、顔面を何度も何度も殴打された。

 口の中が切れて、だくだくと血が溢れる。骨ごと揺さぶられた東児はなす術も無く崩れ落ちた。


「――――あッッツ――――! あぁあああああああッ!!」

「ひひひ……はははははっ!! じゃあなぁ!」


 高笑いが周囲に木霊する。香奈が叫ぶ。


「……とーじ! しっかりして! とーじ!」

「どうやって痛めつけてやろうかなあ……。すげえ楽しみだ!」


 東児の半分閉じ切った眼には泣き叫ぶ香奈の顔が――――。

 

「兄貴……姉御……っ。ちくしょう……」


 擦り硝子の様な視界に微かに映る霧人の顔をした何者かは、醜悪な微笑みで東児を見て笑っている。

 香奈の手が、その人物に無理矢理に掴み取られた。

 東児を見てせせら笑う、霧人の顔がぐにゃりと歪んでいく。そして、見た事も無い様な男の顔へと変化した。


「てめえ……っ! 待て……ッ」


 顔の輪郭から、部位(パーツ)まで、全てがそっくり変化している。唯一その顔に浮かんでいる人を見下す様な笑顔だけがそのままの状態を保っている。

 東児は這い蹲りながら、見知らぬ男の足元に喰らい付いた。男はそんな東児の顎を足のつま先で蹴り上げると、踵を返し、香奈を引っ張っていった。

 嫌がる香奈の口を男は手で塞いだ。泣き声が消え、篭った声が香奈の口から洩れた。

 香奈が――――連れて行かれる。それだけは――――。兄貴に頼まれたのに――――。

 東児の意識はそこで意識を失った。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 本格的に気分が悪くなってきた。見ているもの全てがぐるぐると回転している感じ。

 吐き気は無い。単に熱っぽいだけ。それでも辛いものは辛い。風邪なんて滅多に引かないからある意味新鮮な感じではあるが、好ましい感覚とは言えない。

 足元が覚束ない。歩く度に転びそうになるから気を付けて進まないといけない。

 寒気が私の肌の表面を撫でる。それなのに頭では火でも焚いたかの様な熱気が篭っている。

 矛盾した狭間に存在しているからか、夢の中を歩いているみたいにも感じられてくる。

 いつもは何とも思わない、街のざわめきも、そのいちいちが頭に響く。耳鳴りが――――気持ち悪い。

 駅の前の通りを通る私は、二つの分岐路の前に立った。

 一つは本通り。真っ直ぐと直線に伸びた道である。歩道も車道も広く、道沿いにある店の数々で大抵のものは揃ってしまう。雰囲気は至って明るく、家族連れが来る事も多いらしい。

 もう片方、細く曲がりくねった道の方。そっちは裏通りと呼ばれている。裏通りは本通りが整備される前に主要な道として使われていたそうで、大抵、居酒屋とか、お酒なんかを出す店が軒を連ねている。ゲームセンターや、会員制のクラブなんていうものもあるらしく、どことなく甘く、大人びた香りが漂う道であり、その特性故に犯罪件数も多い。あまりに学生などが巻き込まれるケースが多すぎたので、自分の学校ではあまりこちら側の道を使わない様にと注意を促している程だ。

 今年に入ってからだろうか。私はそれまで使っていた裏通りの方から帰るのを止めて、明るい方、本通りの方から帰る様になった。特にこれといった理由は無い――――筈だ。

 単なる心変わりの様なものだろう。あっちの裏通りでは私と同じ歳の子が危ない目に遭ったなんていうのも聞いた事があるし、そのせいだと思う。

 駅から直線に通った本通りは、危険性は少ないけど、私の家には少々遠回りで、ぐるりと迂回する様な形になってしまう。だけど、駅沿いの右横の道に入る裏通りを通れば、ものの十数分で着いてしまう。寄り道をするなら、絶対に本通りを使った方が良いけど、帰り道を急ぐなら裏通り。これはここいらの学生の中では常識の一つだ。

 そうは言っても、裏通りを使う学生なんて私ぐらいしかいない。

 裏通りは危ないから――――。分かっているからこそ、選択肢は絞られ、皆表通りの方を通る。

 だから――――私があっちの裏通りを使わなくなったのも、そこまで不思議な事ではない。

 危機感が今一飲み込めていなかっただけ。怖いとも思っていなかっただけ。高校生になってから何事も無かっただけ。それだけなのである。

 なにも急に怖くなり始めたのは、やけに現実味のある噂の影響だけなのか――――。

 それは違うかもしれない。

 私は夢を見た。あの暗闇を上辺だけの輝きで覆い隠している道で襲われる夢を。

 それからだ、あっちの道が怖くなったのは。

 勿論、それだけでは止めないけど、栖小埜さんや友達にもあまりあちらの道は通らない様にと口煩く言われるので、自然と足が遠退いていったのだ。 

 今日はどうしようか。早く帰りたいけど……やっぱり表通りの方を通った方が良いかな――――。

 私は迷った末に、表通りの方を使う事にした。

 目の前の小奇麗な道を一歩ずつ、単調に歩く。何も考えないでも家には到着する。体に帰り道の地図は刻み込まれているから。

 変わった様な、変わらない様な景色を眼の端に映しながら、私は家へと続く道を進んで、進んで、進み続けた。

 暫く歩くと、白い壁のアパートが見えてきた。私の家だ。

 入り口から入って、そのまま階段を上がる。備え付けの手すりに掴まりつつ、重い地面に縛り付けられている様な足で冷たい階段を一歩ずつ踏みしめていく。

 もう直ぐだ。もう直ぐ、見慣れた我が家のドアが――――。ドアの前に誰か居る?

 ドアの前に、大きなものが蹲っている。あれは人……?

 それは私の声に反応したのか、大きく動いた。


「姉御……!」

「折島君……? ど、どうしたんですか……? ……! その怪我!」


 折島君の体があちこち傷だらけで、見るからに痛々しかった。頬っぺたに青くなり掛けている痣を作って、口の端は切れていて、赤黒い血が乾いてこびり付いている。私は慌ててハンカチを取り出した。

 

「じっとしててくださいよ……。何これ……酷い……!」


 傷口を拭おうとする私の手首を折島君は掴み、しわがれた声を出した。


「小さい姉御が……ッ! 変な野郎に……連れて行かれました……っ!」

「それは……どういう事です――――」

 

 突然、携帯電話の着信音が鳴った。 

 誰から……?

 携帯には香奈の名前がチカチカとする眩しい文字で表示されていた。 

 香奈……?


「お、折島君……ちょっと失礼しますね…………どうしたの、香奈――――……」

「――――てめえのその声を聞くのも久しぶりだなあ……。憶えているか? 俺だよ、てめえが面をグッチャグッチャにした奴だよ」

「あ、あなた誰ですか……」


 聞いた事が無い声。いや――――でも、本当に聞いた事が無いか? 

 この声を聞いていると、胸が締め付けられる。何で……、こんな声に覚えは……。

 違う。問題はそこじゃない。着信は香奈からのものだった。だったら、香奈の携帯を誰か知らない人が使っている?


「……何で香奈の携帯を……!」

「てめえの妹……? あー、そうそうそれな。……声が聞きてえか? ほら聞かせてやるよ」


 男の声が遠くになり、代わりにもごもごという呻き声の様なものが聞こえてきた。


「香奈……? 香奈、居るの……? 居るなら返事してよ……」


 呻き声が強まっていく。嫌な予感は当たってしまった。あの呻き声の主は香奈だ。


「……香奈っ!」

「――――はいはい、ここまででぇ~す。続きはこっちに来てから聞いてね~」

「香奈に何をしたんですか……!」

「別に、まだ(、、)何もしてねえよ。これからするかも知れねえけどな。はははははははっ!」


 耳障りな――――聞きたくも無い笑い声が頭を揺らす。耳元で囁かれている様な気持ちの悪さに、私は軽い吐き気を覚えた。


 それは受話器の向こう側に居る人物に対して言った言葉では無い。宛ての無い、空虚な言葉だった。

 

「そうだよ、それだ――――。そういう声が聞きたかったんだよ! ……てめえが俺の顔をこんなんにした場所で待ってる。早く来ねえと、妹……死んじまうかもなぁ? 一人で来いよ? 警察に行ったら、お決まりだが、殺すからな」


 歪な高笑い。あからさまな悪意。

 私が顔を――――私が何かをした……? 分からない。あの人は一体何の事を言っているの……。

 私が顔を。私が――――。俺が――――。俺? 俺って……誰……? 顔、顔、顔、顔、顔……。

 ――――そうだ。

 私の記憶を隠していたものが、溶けていく。

 暗くて嫌な匂いのする袋小路。そこに私は連れ込まれて――――。

 ああ――――あの場所だ。 

 

「……姉御……、俺……すみません……守れなかったっす……!」


 折島君の喉が枯れた様な声だけが聞こえる。私は彼の方を見て――――笑った。


「……大丈夫ですよ…………。私は一人でも心配ないです……。折島君は休んでいてください……。これは私が悪いんですから……」

「姉御……! アンタ……!」


 分かってしまった。あの日私はあの男に襲われた。

 行かなくちゃいけない。私にはその場所が分かっている。


「私……行きます……。折島君……そんなになってまで、妹の事を助けようとしてくれて、ありがとう」

「待て! あんた一人で行く気か……! 待てよ! ……俺も行く……! 待てって! おい! ざけんな! 格好つけんなよ! 行くな! おい!」


 ごめんなさい。でも、これは私の問題だから、折島君を巻き込む訳にはいかない。

 私は折島君の声を耳から振り払って、廊下を走り、階段を駆け下りた。平衡感覚がおかしくなっている。船の上みたいに揺れている。駄目だ。頭がぼんやりとしてきた。

 私はつい先程通ってきた道を走って引き返した。

 目の前に大きな影が現れた。

 不味い……ぶつかる。


「ご、ごめんなさい……!」


 その影を咄嗟に避けて、そのまま後ろも振り返らずに私は走り続けた。


 ――――南屋さん!?

 ――――灯ちゃん……どうしたんだろ……。

 ――――寧さん、俺、ちょっと行ってくる!

 ――――あっ! 葎さん!


 体に染み付いた暗い記憶を頼りに、私は細い道へと入っていく。魔窟の様な暗闇を抜けて、臭い匂いが立ち込める泥を走り抜ける。

 裏通りの一角。建物の乱立で迷路の様になっている場所の一つ。


「ぜ……はぁはぁ……はぁ……」


 両側から建物に挟まれていて、圧迫感のある道の先が急に広くなる。この袋小路だ。         深い深い闇の中にポツンとその場には不自然な椅子が置かれている。その上に人形が座っている。

 いや――――あれは人形じゃない。香奈だ。香奈が椅子に縛り付けられている。手を椅子の背凭れの後ろで組まされ、足を縄で椅子の脚の縛られ、もがいている。


「香奈ッ!」

「ん゛~! ん゛ー……ッ!」


 口に布を噛まされていて、喋れないのだろう。香奈は声にならない声を挙げた。


「今……行くから……!」


 頭が痛い。意識が……薄れていく。

 よろめく私の背中を誰かが掴んだ。


「おやまあ、体調が悪そうだ」


 スーツを着た男の人が私の肩を掴んでいる。その服装には不釣合いな、黄土色のキャップ帽を深く被っていて、顔がよく分からない。

 その人は、丁度私が通ってきた道を塞ぐように立っていた。


「誰……」

「誰とは御挨拶だな? 俺の顔……忘れたかぁぁぁ?」  


 キャップ帽が取り払われ、その下の顔が露になった。

 位置のずれた眼球。へし曲がった鼻。膨れ上がった唇。まるで顔を握り潰したかの様な――――、そんな顔がそこにはあった。


「――――ッ!」

「驚く事はねえだろうよ。お前がやったんだぜ? まぁお陰で新しい顔も手に入れたけどなぁ?」


 その人は、自分の顔を掴むとゆっくりとなぞる様に手を動かした。

 ゆっくりと、ゆっくりと。その手は動いていく。その人いきなり俯くと、首を鳴らしながら顔を上げた。                      


「嘘……そんなのって……」


 膝の力がカクンと抜けて、私はだらしなくその場に座り込んだ。

 顔が昨日会った刑事さん、村家さんの顔になっている(、、、、、)

 村家さんの顔が歪み、決して彼がしなさそうな、口を大きく弓形に曲げた笑顔になった。

 

「どうだよ? 面白れえだろ? ほんと愉快だよなァ? それもこれも、てめえが綺麗に整形してくれたからだ」


 その人は香奈の座っている椅子に近づいていった。香奈の呻く声が強まる。

 暗い中で透明な輝きが滴り落ちた。香奈が泣いている。

 私はこんな顔をさせたくなくて、頑張ってきたのに――――なのに――――。


「止めて! 香奈には手を出さないで! 私……何でもしますから! お願いだから香奈には何もしないで!」


 私が叫ぶと、その人は歩みを止め、私の方に歩いてきた。

 とても怖い、ドロリとした笑顔で。体の芯から来る寒気に私は唇を噛んだ。


「お姉ちゃんは妹思いなんですねぇ……? それじゃあ、遠慮無く、てめえから愉しませてもらおうか」


 男の人は私の胸元に手を伸ばした。長い爪が首筋をなぞる。

 そしてその下に段々と――――嫌だ。触れられたくない。こんな人に触られるなんて嫌だ。

 蓋をしていた筈の恐怖が溢れ出してくる。誰かが忘れさせていてくれた記憶が。


「誰か……っ。私……やだ……」

 

 ――――……殺す。

 

 血液の中を熱いものが流れる。怒りが肌を覆っていく。

 私ではない誰かの底知れない感情が私に注がれていく。

 頭が――――割れそうだ。

 私の意思とは関係無しに、男の人の手は私の手によって、投げ捨てられるように引き剥がされた。

 現と夢の狭間が垣間見える。もう――――眼を開けていられない。


 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




「きったねえ手で灯に触るんじゃねえ……!」


 ――――気持ちの悪い感覚がしたと思ったら、こんな事になっていたとはな。

 灯の体の主導権を握ったアリカは、燃え滾った激怒の眼で目の前の男を睨んだ。

 ――――なるほど。あの時の――――俺が生まれた時の野郎か。


「やぁ~と……やっと来たか。てめえを待ってたぜ。俺の顔、返してもらおうか」


 待っていたとでも言いたげに男は喉を鳴らす。


「お前の様な奴の面なんか、知るか……」


 ――――灯は気を失ったか。くそ……あいつの体……上手く動かせねぇ……。

 灯の体の影響を受けているのか、アリカの体は僅かな熱を帯びていた。それだけ、今は灯とアリカの繋がりが、灯の強い感情により密接になっているのだ。


「どうしたぁ? もしかして、てめえも調子が悪いとか言い出すんじゃねえだろうなあ?」

「うっぜえ……。だとしてもな、お前如きにやられるか……! クソボケがッ!」


 アリカは飛び上がりながら男に殴りかかった。だが、男は易々とアリカの拳を受け止め、確りと掴んだ。


「ほうら、やっぱりな――――弱ってるな、てめえ」


 地面に着地したアリカは掴まれた拳を振り払った。後方へと飛び、距離を置く。

 男は不敵な笑みで笑い、何故か自分の顔面を先程と同じく掴んだ。

 再び男の顔面が波打つ様に変化を初め、灯に似た顔となった。

 

「これだと兄妹みてえだろ」


 変化した顔面を男はぺたぺたと粘着質な手付きで触る。


「お前……ッ!」


 灯の顔を模し、彼女の顔には似合わない邪悪な表情を浮かべている男に、アリカは殺意を強めた。

 

 



 陵辱とかそういう欝な展開は無いですよ。期待しても無駄なんだからね!


 単に作者がそういうのが嫌いだからなんですけどね……。


 ……どっちにしろ、メロンパンと紳士が関わってる時点でそういうフラグはベキベキにへし折れているのだ……。


 関係ないですが、見直してみて相変わらず自分の作品が稚拙だなぁと実感しました……。orz




 では、メタァ…な小部屋……行く?



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 葎「ハッ! 何か凄い嫌な夢見た!」


 寧「年明けから不吉ですねえ……。どんな夢だったんですか?」


 葎「寧さんに絞め殺されて、枕にされる夢」


 寧「………………夢ですよ、はいはい夢夢」


 葎「ねえ今の間は何なの? ねえ」


 寧「だから、それは全部夢なんですよ。そんな事よりお餅でも食べましょう」


 葎「……作中ではまだ十月だけど餅なんて食べてていいの?」


 寧「メタァ…ですからね。問題ありません」


 葎「まぁメタァ…だからか。ならしょうがない」


 寧「ところで今回、アリカ君とか出ましたけど、私、作中で彼に会ってないんですよね」


 葎「寧さん醤油取って」


 寧「あ、はい、醤油」


 葎「アリカはね、基本的に関わり合う人間が限定されているからねえ。でも、実は寧さんと真さん、空鉦さん、伊井都さん、瑞樹神さん、四人の高校生達以外は面識があったりします」


 寧「葎さん……。そっちのきなこ分けてもらえます?」


 葎「はいはい、きなこね」


 寧「……でもおかしいですよね? 葎さんと、ガラさんはともかく、他の二重存在とか――――例えばヒーローさんとかアシさんもあるんですか? 面識……」


 葎「さぁ?」


 寧「さぁって……。そうだ、餡子もあるんですよ」


 葎「いっそもうお汁粉にしない?」


 寧「いいですね~」


 葎「終了!」


 寧「えっちょっと! いきなり――――」




          これ以上は見せられないよ! 終了!       

 





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