グレーカラー
やっと本編ですね……。
葎はきっとその内空気になるでしょう。
では、始まり!
小さい声が、部屋の中で跳ね返る。声は吐かれては闇に溶け消え、停滞した空気と一体になる。
白い顔が一つ――――。
声は語る。何処から伝わったのかも定かではない物語を。非日常の狭間に魅せられた夢を。
誰がそれを語る。
物語は白く浮く南屋灯の口により、その姿を形にしていた。
彼女の表情はあまりの白さにより、掴む事が出来ない。
陰影が強いのだ。彼女の顔は下部から懐中電灯が当てられ、不自然な白さを放っていた。
彼女の居る室内は、得体の知れない寒さが漂っている。ひんやりとした冷気が部屋の下の方に溜まり、足元を冷やす。この様な薄寒い部屋で彼女は何をしているのだろうか。
彼女は怪談を語っている。
不可思議であり。説明も付かない。真しやかに人から人に伝わる。疫病の様な話である。
何が真実なのか。どれが真実なのか。怪談は自らを様々な形の姿に変え、その姿を時折垣間見せる。
灯は淡々と語る。言葉に繋がれ、語り手により使われ、形態を変化させ、怪談は広まり続ける。
彼女は電気を全て落とした薄暗い部屋に居た。
暑さもまだ残る九月下旬だというのに窓も一切開けていない。カーテンもきっちりと締め切られ、太陽の日差しは部屋の中に殆ど入らない。
懐中電灯から飛ぶ光の飛沫で、周囲の光景が僅かに見える。
灯の周りには、強張った顔が三つと、退屈そうな顔が一つ。
それぞれが灯の方向を注視し、話に聞き入っている。
灯はとても神妙な顔で最後の句を接ぎ、さっきまで自分が話していた話を語り終えた。
「――――という、話がありまして」
「きゃぁぁあぁぁあああぁぁ!!」
「きゃぁあああああああぁあ!!」
暗い部屋の中で灯が話を終えると、葎と寧は絶叫しながら飛び上がり、蒼褪めた顔で身を寄せ合った。
彼と彼女が飛び上がったせいで、飴色のテーブルがガタガタと揺れ、上にある幾つかのコップの中身が零れそうになり、木皿に乗るチョコレートもテーブルの外へ飛び出しそうになった。
パチンという音と共に、部屋の電気が点き始める。燐太が電気のスイッチを入れたのだ。
眼の眩む蛍光灯の光が暗闇を照らし、部屋の中を薄白い輝きで満たした。
眼が慣れないせいかその場に居た全員が激しく瞬きをする。
やっと眼が光に馴染んだ燐太は、呆れた様に縮まり返っている葎達に向かって眼を訝しげに細めながら険のある視線を送った。
「驚き過ぎだぞ、あんた達……。つーか、さり気なく抱き合ってんじゃねぇよ。葎は『きゃー』じゃおかしいし」
燐太は自分の座っていたソファーの一角に戻り、乱暴に腰を下ろした。
隣には藍子が至って通常通りの顔で座っている。動作一つ見ても動揺の色は窺えない。極めて冷静そのものだと言えるだろう。
無論それは外から見た感想であり、内側から見た訳ではないので何とも言えない節はあるが、燐太の経験上、藍子は怖がっていてもそれをひた隠しにする事が多い。
意外とこの幼馴染は顔と感情がかみ合っていないのだ。だからこの様にポーカーフェイスを気取っていても、内心何を考えているか分からない。いきなり泣き出す時だってある。
燐太はそんな藍子の横顔を見て、今回は大丈夫だったかと一応の安心を得た。
さあて――――こっちはっと……。
彼の正面には葎、寧、灯が並んで座り、燐太の方をじっと見ていた。
何とまあ、体だけが育ち過ぎの子供達であろうか。
灯は燐太と同い年なので、子供も優劣も無いが、問題はその他二人である。
葎など、その高身長を恐怖に竦ませているし、寧は寧でしきりに自分の姉の形見だと言う狐の面と、ほぼ自己問答である会話をしている。
これでは自分の方が大人だと錯覚してしまうではないか。見た目は殆ど変わらないとはいえ、それでも年の差とは決定的なものでは無いのか?。
彼等の様子を見る限りでは、そうでも無いらしい。
「だってさぁ…怖いじゃん…。風早はよく平気でいられるな……。俺なんて……もう、ムリムリムリ……。今日絶対寝れないよ……。あーもー……あーちくしょう……聞くんじゃなかった…」
顔面蒼白という言葉がぴったりな表情で、葎は氷の溶け切った中身を啜る。
燐太が若干視線を動かすと、葎の横側に彼に負けず劣らずの温度が感じられない白い手で、寧は葎の腕を握りつぶしていたのが見えた。
全力で圧迫されている葎の腕はみしりと、嫌な音を立てている。
しかし葎は自分の恐怖心に立ち向かうのに精一杯で、そんな事には一切気付いていない。
恐怖は痛みを凌駕する様だ。
寧もびくびくとした様子で言う。
「そ、そ、そうですよ……。ムリです……。今日は寝ずの番です……。夜更かしです……。お菓子に夜食……ゲームに映画……不健康ですねぇ……でも…寝れないからしょうがない…」
葎の耳が寧の言葉にピクリと反応する。
「メロンパン! メロンパンは出ますか! 寧先生!」
「はい、出ます。ただし一つまで。それ以上は認められません」
「せめて二個……! それで手を……!」
「駄目です。一個までが原則なんです。……と言いたいですが、一緒に起きていてくれるなら二個でも良いですよ。やりましたね!」
「わーやったー」
「橋間さん!? あんたも怖いのかよ!? 葎は頷くな! 九時には寝ろ! ……オイだから、くっ付くなって! うっとおしい!」
燐太は蒼い顔をした、身体の距離が近い大の大人二人に向かって歯を剥き出しながら言った。
「だって怖いんですもん……」
「そうですもん……」
同じ語句を同じ言い方で言う葎と寧に、燐太は溜息を吐く。
「さっきからそればっかじゃん!」
彼等は互いに向き合い、バツの悪い表情になった。
近い……。
近いです……。
冷静になってみると、恥ずかしい。葎は恐怖が一瞬消え、寧は赤面する。
むずむずとした妙な心持になりかけた彼等は、そっと体を離した。
「た、確かにちょっと近いか……」
「そ、そうですね……」
「ああ、じゃあこっちで…」
そう言って葎は、反対の席に座っている燐太の隣に座り、彼の腕にぎゅっと抱き付いた。
「なぁ……風早……たまには夜更かしも良いと思うんだよ?」
追いすがる葎の腕を燐太は全力で押しのけるが、その程度で葎の腕と体は離れる筈も無く、彼の抵抗は空しい結果を残すのみとなった。
葎は離れない。安心する居場所を見つけた彼の顔は幸せそうである。
「それも違う! 子供か! そして俺の腕、はーなーせー!!」
「一晩ぐらい寝なくたって問題無いって! ケチ! ハゲ! 厨二病! 小石に躓いて死ねッ。ばーか、ばーか。夜寝れなかったら責任取れんのか!」
「酷い言われ様だ!? 何で罵られてんの!?」
「なるほど……葎さん! 皆で居れば怖くない……名案ですね! じゃあ、藍子ちゃんと灯ちゃんも一緒に――――」
「あー、どうします?」
「それも良いかもね」
「納得するなよ!?」
燐太は髪の毛を掻き毟り、諦めた様に灯に話し掛けた。
「南屋はどっから、こんな話を聞いてきたんだ……?」
「友達から夏休みの前に聞いたんです! 怖かったですか!?」
灯は明るい笑顔で言う。
数分前まで幽鬼の様な表情で怪談を語っていたとは思えない程華やかな笑顔だ。
ころころと変わる表情を見ていると、正真正銘、子供の様に見える。
それがあの様に巧みな話術を操るというのだから、人は見かけに依らない。
ただ平坦に語るのではない。巧緻な話の構成。引く時は引き。畳み掛ける時は徹底的に畳み掛け、驚かせる。彼女のそんな語り口に燐太は内心関心し、閉口するしか無かった。
何処でどう憶えてきたのか、妙に語り口が堂に入っているのだ。
いかにも、本当にあった事の様に語るから、恐怖は倍増する。
語り手の上手い、下手により怪談はその恐怖を半減させたり、逆に倍増させたりもするのである。
彼女の話はそういう手の話がかなり得意な燐太でもそれなりの恐怖を感じたのだから、大したものだ。
それだけ灯の語り方には怖がられる程の雰囲気があり、感情がこもっている。
そんでも……葎や橋間さんみたいにはなんねぇよなぁ……。
さっきの話、怖かった事には怖かったが、特別怖いって程のものじゃない。
所詮はどこにでもありふれている怪談に自分には聞こえた。
それでも夢枕に思い出しそうな内容ではあるが。
「あんま怖くなかった。あー違うな……。怖かったけど、そんなに怖くなかったって感じかな? 最後のひきこさんとかいうのは怖かったけどよ」
「そうですかぁ……。自信あったんですけど、風早君には全然効いてない様ですね……」
しょぼくれた犬に似た様子で灯が肩を落とした。
燐太としては、そこまで落ち込む様な事柄では無いと思う。
まあ、この少女は何を考えているかさっぱりなので、本当に落ち込んでるのかも判らない。
「あ! 藍子ちゃんはどうでしたか? 怖かったですか?」
灯が藍子の方に期待の眼差しを送る。そんな彼女の姿は、さながらエサをねだる犬という所である。
燐太の隣に座っている藍子は、落ち着いた感じで灯の言葉に返事を返した。
「ええ、怖くない。全然怖くない。これぽっちも怖くなかったわ」
藍子は真顔で感情の起伏の無い声でそう言った。
平然としている。
しかし、平然とした彼女の手は爪が食い込む程の強い力で、太の腕にしがみ付いていた。
「…………じゃあ……その手離してくれない? 怖くないんだろ? 藍子さん? 痛いんですが?」
しっかりと腕を捕縛された燐太は顔を引き攣らせながら言う。
「こ、怖くなんて無いわ! いや――――怖い!」
「どっちだ。俺はケータイのバイブ並に揺れてるお前の方が怖い」
燐太の腕を力の限り掴んでいる藍子の体は、工事現場の削岩機の様にソファーに激しい振動を与え始め、彼女に掴まれているせいで燐太の体までぐらぐらと揺れ、声にエコーが掛かったかの如く震えた声を口から漏らした。
「うばあー。あいぼおー。はなせい゛い゛い゛い゛」
「怖くない。怖くない……もしもの時は燐太を囮に……」
どう聞いても棒読みにしか聞けない口調で灯は言う。
「いやー、感動的ですね……涙出そうです。いえ? 本当ですよ? 嘘なんて言ってません」
小刻みに揺れる燐太に縋っている藍子は表情は、冷静ではあるものの、唇が蒼かったり、瞼がぴくぴく痙攣していたりと散々だ。
「感動……? ああ……感動ね……感動……感動?」
葎は「感動」の基準について思案し始め、寧はボソリと一言呟いた。
「感動がジェノサイド……」
――随分と胸打たれる光景だね。あれかなヤンデルとかいうのかね?――
「ヤンデレじゃないだろう……? ……お前さ、どっからそんな言葉仕入れてきたの……? そっちの方が俺にとっちゃ心配だよ」
ガラの間違った成長ぶりに杞憂する一方、葎は藍子の性格についても微々ながら考えた。
彼女はヤンデレって程のもんじゃないだろう。どっちかと言えば、そうだな――――クーデレというのだろうか?。如何せんその程度しか知らないので、判別し難い。
だったら、柳葉さんは何になるのかというと、自分には説明出来ないが。
人間どこかしらにそういった要素があるのだから、下手に性格を限定する事は不可能に近い。
自分だって自分の性格を全て把握している訳では無いのだ。
そんな不定形で、未知のものを他人が勝手に決定出来はしない。
だから、この人はあれこれどういう人だと言われても当たってない場合が多い。推測論だけしか、自分の持てる他人への印象は殆ど皆無に近いのである。
――さてね、どこからかな――
嗚呼、心配だ……。何処経由の、何処ルートだ……。まさか……ギャ――――……いやいやいや……。
駄目だろ。それは駄目だ。それに自分の体を使っている以上、自分も見ているというか、プレイしている事になる。それは断じて駄目だ。自分は人生をメロンパンとメロンパンの神々に捧げると決めたのだ。そんなのはあってはならない。
葎は深刻な表情で自分の頭を抱えた。
おっと……それもそれで心配だが、今夜をどう乗り切るかも考えなきゃな……。
先の事を考える度に葎の体からは嫌な汗が流れ出てくる。彼にとって、そっちの方が優先的に考えるべき問題であった。
ドミノタワー。トランプタワー。レゴブロックで無駄に壮大なものを作る。とりあえずゲーム。
葎は様々な思案をしていたが、唐突に先程灯が話していた怪談の一部を思い出した。それは一番最後に語られた怪談である。
最後の話……何か聞き覚えがある。聞いた事があるというのは違う。この怪談を聞くのは初めてだ。実際に体験した――――それを見た――――というのが近い。
思い出せど、自分がボロボロの姿の怪人物に引き摺り殺された覚えなどある訳が無い。だが、葎の記憶には確かに似た様なものを見た様な記憶が希薄だがある。見たというのはどうもしっくりしない感じがするのだが、それに近しい事はあった気がする。
葎は結露で濡れているコップの表面を掴んだり、離したりしながら考え込んだ。
「ひきこさん――――……。なっ、ガラ? お前ひきこさんって聞き覚えある?」
――灯が話していただろう。痴呆症になってしまったのか?――
「そうじゃなくて、前に聞いた事があるかって」
――聞いたも何も、実際にひきこさんに逢ったじゃないか――
「逢ったか…? そんなの……。あ……逢った……あれか」
それは暑くなり始めた頃。
何か良く分からないけど、ボロボロの格好をしていた変なのが赤ちゃんを袋に詰め込もうとしたのを自分達が阻止したのだ。
てっきりあれはサンタがダークサイドに堕ちたものだと思っていたんだけど、違うのか。
葎はやっと思い出せた事に若干の満足感を覚える。満足したのだが、あまり思い出したくない人物まで彼の記憶の表面に顔を出してきてしまった。
パーカーにジーンズの正義の味方。
あぁ……完璧に思い出した……。
毛嫌いする程では無い人物だが、好ましいとも言えない。ぱっと見ただけでは、風早みたいな直情的なタイプに思えるが、そうとも言い辛い部分もある。ガラも一緒に戦ったとはいえ、直接『ひきこさん』に止めを刺したのはそのヒーローという二重存在なのだ。奇行は目立つし、自分が危うく大衆の眼に晒される所だったから手放しで褒められないが、実力はあるのだろう。
ヒーローを名乗ってはいるが、ヒーローならヒーローらしく、覆面にマントと乗り物を用意してから出直して来いと言いたい。それでこそのヒーローじゃないか。
それ以前に、繰り返し言うが奇行は目立つ。そして匂い立つガラ臭。人生が変人により引っ掻き回される匂いだ。それがあいつからは香る。
………………う~ん…………アウト!。
「アウト!」
――急に何を言い出すんだ。社会的にみれば君がアウトだぞ――
「うごごごごごごごごご」
「怖くない怖くない怖くない怖くない。あーっ! 怖くないっ」
言葉と心が一致した瞬間であった。正に言魂一致である。
その裏で発せられている、人間のものとはかけ離れた声は誰の耳にも入っていない。
「だって、ヒーローって自分からヒーローとは名乗らないって。ヒーローは……」
「ヒーロって誰ですか?」
灯が俊敏な動きで葎の言葉に反応した。彼女の明るい瞳は好奇心で氾濫している。そんな眼で見られてしまった葎は、自分が思わず呟いた事を後悔した。
この子は――――あれだなぁ……知りたがりっていうか……はぁ……話さないと駄目かなぁ……。
葎としては、話がややこしくなりそうなので、あまり話したい話題ではない。無論、追求される原因を作ったのは彼である。
この様子ではアリカはまだ何も言っていないらしい。いい加減に出てきてもいい気がするが、あいつはあいつで逢うのが怖い。そもそも起きているのか。ずっと寝っぱなしなんて事も考えられる。
「それって、もしかして? もしかすると、ヒーロー?」
「えっ? だからヒーロー……?」
「おおっと……スイマセン。そうじゃなくてですね、『ヒーロー』っていう怪談――――ではないですね……。怪談に似た話が最近有名になってきてるんでっすよ!」
正真正銘、震えた声が渦巻く。
「あ゛あ゛あ゛し゛ぬ゛」
「そうだ……燐太と一緒に寝れば…そうすれば助かるかも……! あぁ……でも駄目かなぁ……」
だが、誰も気にしない。
げ…それってあのヒーローじゃないだろうな…?。
熱っぽく語る灯に葎は困った様な笑顔を作った。
南屋さんの言うヒーローが、自分の知るヒーローである可能性は十分あり得る。
面倒な事になりそう…。関わりたくないなぁ…。この話題…無かった事に出来ないか…。
ヒーローにまた遭遇してしまう。そんな不安感が葎の中に募っていく。
「う゛あ゛い゛や゛だあ゛お゛ま゛え゛ね゛ぞう゛がわ゛る゛い゛も゛ん゛ん゛」
「悪くなんか無いわよっ。とりゃ!」
「ぶげばっ」
「痛い……」
ごつんという音を出しながら、藍子が振動を続ける燐太に頭突きをかました。
この一撃は燐太に多大なるダメージを与えたばかりではなく、彼女自身への衝撃も相当にあったらしく、額を赤くしながら涙目になった。
しかし、やっぱり誰も気にしていない。
葎は灯に聞いた。
「そ、それで……どんな話なのかなあ~……?」
――葎、今なら引き返せるぞ――
ガラは深刻な声を出す。
「いいか……ガラ、男には覚悟を決めなきゃいけない時があるんだ……」
「ガラ……? それ、前も言ってましてけど…」
「えっ!? あ……あの……ガラガラ! ほら、あの福引のガラガラ! あれやりたいって何か思ったんだよ!? そうだよね! 寧さん!」
困った葎は隣でチョコレートの包みを解いていた寧に話を振った。
「へ……? ……あー! そうですね! 今日はガラガラ日和ですね!? な、何だかー凄くやってみたくなったぞー?」
流石だ……! 君なら出来るって信じてた……!。
葎のほぼデットボールに近い暴投を、寧は咄嗟の判断でどうにか受け止めた。
「は、はぁ……ガラガラ…?」
「それよりさ……! さっきの話の続きを聞きたい! ね? ね? ね?」
未だ納得のいかない顔の灯を、葎は強引に話を逸らす事により誤魔化しに掛かる。
「ええっと……じゃあ話しますね?」
どうして葎が必死になっているか解らない灯は、不思議そうに瞼を瞬かせながらも、先程までに話の続きを始めた。
「この『ヒーロー』って話は、所謂普通の怪談話に割り込む話なんです。どういう意味か良く分からないですよね? えーっと……こう、一つの怪談話があるとしますよね――――」
灯は右手の一指し指と親指を繋げて、円の形を作った。そしてもう片方の左手も同様に円を形作った。
「右が元の怪談話、左がヒーローだと思ってください……」
灯は右の円を崩し、左の円と繋げた。丁度、両手の親指と一指し指が向かい合う形である。灯はその形を作ってから、照れ臭そうにやっぱり普通に話した方が解り易いでしょうねと言った。
おそらく灯の言いたい事は、元からある怪談に『ヒーロー』という話が連結する――――。
――――物語というのは、一つ一つが違う話で、相互不干渉なのにも関わらず、『ヒーロー』という話は色々な話に結合出来る話である――――と葎は理解した。
「『ヒーロー』は怪談話の中で襲われている人を助けてくれるヒーローっていう人が居るっていう怪談なんですよ。で、それだけなら、ただ単に怖い話を改変して、救いのある話にしただけって事になりますが、『ヒーロー』は本当にあった話みたいですよ?」
冗談めかしく灯は言う。信じているかどうかは分からないが、どちらかと言えば、彼女もあまり信じてはいない様に葎には感じられた。
信じられないというか、都合が良すぎるのだ。物語は、作られた時点で個別の空間、個別の世界として隔離される。別個の世界に割り込むなど、それこそ個人の範疇で行われるべきで、それをしてしまったら、その『物語』は二次的創作作品となってしまう。
それを堂々と、『この作品のヒーローというのは他の作品に入り込み、改変出来ます。嫌な結末を変えられるんです』と言われても納得はしない。反感も出てくるし、物語の結末が大きく改変されるのは、その物語自体の存在を揺るがしかねない。それではまるで別の物語を見ているのと一緒になってしまい、主人公が怪奇的な現象に遭遇し、その安否によって結末が左右される怪談において、それは改悪以外の何ものでも無い。それが現実ならば、また話は違うのだろう。作り話だから問題が有るのだ。
説明を聞き終えて、寧がそろっと灯に尋ねた。
「灯ちゃん。それって……ヒーローが本当に居て、妖怪みたいなのから人を助けたっていう事……かな?」
「そうですねー!。でも、作り話ですから! あれ……? どうしました?」
灯の目の前で葎と寧はこそこそと話をしていた。
「ヒーローって……前のあの変な人でしょう……? 何時の間にか怪談になっちゃったんですかね……」
「さぁ……? 怪談っていうか不審者情報じゃないのコレ……?」
「でも、ヒーローさんの話が本当なら、妖怪とかも居るって事に……あぁぁ……」
「何言ってんの……! 止めてくれ……!」
せっかく忘れ掛けていた記憶が捲き戻され、葎の肌の表面がぶつぶつと逆立った。
ガラはどうでも良さそうに葎に、彼が思い出したばかりの事を尋ねる。
――君、一回戦ったじゃないか……。あれはどうなんだ?――
「あれか……あれはノーカウントで……。だってさぁ…そんな怖い話だとは思ってなかったもの……」
実を言うと、そこまで怖くなかった。話で語られる分には怖かったのだが、あの時は怖いという感じがしなかった。どちらかといえば、病院の悪霊の方や、あの仮面達に追いかけられた時の方が恐怖が強かった気がする。自分の勘違いかもしれないが、あれはどうも作り物っぽさがある。それが何なのか、葎には解らない。何かがおかしい。
「ちょ……ちょっと……葎さん……何か見たんですか……」
「イエ、ナニモー」
「凄く嘘っぽい……!?。何か見たんでしょう!? そうでしょう!」
「ふー~ふ~ふふー~ぴゅー」
寧は葎の顔を見上げる様に両手で掴むと、激しく前後に揺すった。だが、葎は寧から顔そ逸らし、下手の口笛もどきで、気を逸らそうとした。が、そんなのに引っ掛かる寧では無い。
「……誤魔化すにしろ……もっと上手く吹きましょうよ……。良いですか? こう舌で筒を作る様な感じで……ぴゅ~」
高く綺麗な音色の口笛を、寧は葎に聞かせた。彼女が出した音を聞いて、葎はほー、と関心した様な声を上げる。それ程に彼女の口笛は上手であった。
「――――……です! お分かり頂けました?」
「お分かりになりました?。 こう? ぴゅ~……。どう!?」
音程は寧のよりも整ってはいないが、葎の口笛の音もそれなりには吹けている。
「ええ、中々上手いですよ!」
彼女も口笛を吹き、葎の音色に合流した。間の抜けた音が部屋の中を駆け巡る。
「ぴゅ~」
「ぴゅ~」
二人の音は複雑に絡み合い、素朴なハーモニーを奏でた。
「………何やってるんですかね……あたし達……」
「ああ……ホントにな……」
我に返った寧は途端に落ち込み、どんよりとした笑顔を自虐的に作った。
「………い、良いじゃん…! 口笛が上手くなったんだし!?」
葎は宥めるかの様に、彼女の肩をバシバシと叩く。
「そ、そうですね! 今度、もっと練習しましょう!」
「話が脱線どころか、丸投げになっている気がするけど……、ああ!?」
これ、何の話だったっけ……。
「あの~?」
そうだよ……! 南屋さんから『ヒーロー』の話を聞いてたんだ……!!。
口笛に夢中になっていた彼等はすっかり灯の事を忘れていて、口笛のみにその集中力を向けていた。
灯は苦笑しながら、その様子を見守っていた。まるで幼稚園の保母の如き様相である。
「しまったぬわ!」
「ぬわ?。……お二人、急に口笛を吹き始めましたけど――――……」
いや、分かってるよ……。俺も…途中から何やってんだ俺状態になったよ……。うん……。
「私もそこそこ吹けますよー。ぴゅ~」
寧のより、若干軽い音が高らかに鳴り響いた。音は軽いものの、音色の濁りの無さや、リズムなどは葎などよりよっぽど達者だ。その旋律に口笛を最初に吹き始めた二人は関心の声を出す。
「わー! 灯ちゃん、凄く上手いよー! ねぇ、一緒に吹こうよ!。上手いですよね! 葎さん!」
「ああ! 凄く上手い! これなら優勝を狙える……!」
「そうですかー!」
――後学の為に一応聞いて置くが、何の優勝だ?――
「そ、それはぁ……あの……全国何たらかんたら、口笛選手権……みたいな……?」
――へぇ……――
「な、何だよっ」
――選手権ねぇ?――
「こ……細かいぞっ……いちいち……!。……そういや……さっきから、風早と柳葉さんの声がしないけど、何やってんだ?」
葎はふと、そんな事が気に掛かり、灯の隣へと、ゆっくり視線を動かした。
「怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない」
「う゛あ゛あ゛あ゛り゛つ゛た゛ずげでえ゛え゛え゛」
「うおぉぉおおおお!? 何、これ、どうなってんの!? ずっと震えっぱなし!?」
振動が強過ぎるあまりその体が残像の様に揺れ動き、形がはっきりしない燐太を葎は見つけてしまい、愕然とした表情となった。藍子の隣に座る灯も一見気にしていない様に見えるが、じっとりとした汗をその額に浮かべている。葎と同じく、それを見てしまった寧は完全に動きを止め、脳の活動を休眠状態へと移行した。
「柳葉さん、とりあえず手を離そうか!? そのままだと風早が脳震盪を起こして死んじゃうから!」
「うばばっばばっばば」
「……燐太……何でそんなに震えてるの?」
葎の言葉で藍子は何とか落ち着きを取り戻し、燐太の腕から手を離した。
「おば……お……お前が原因だろうが……」
漸く開放された燐太は、まだとてつもない振動の余韻が残る体をふらつかせる。乗り物酔いの様に顔色が悪く、今にも胃の中身を吐き出しそうである。彼は自分の顔を強く叩き、目を覚まさせようとその顔をぶるぶる振るわせる。やっと正常な感覚が戻った彼は、首をこきりと鳴らしながらソファーへ座り直した。
「くはぁ……未知の感覚だったぜ……。色んな意味で突き抜けそうだった……」
「…………もう一回いっとく?」
惚れ惚れする様な良い顔で藍子は言った。
「いかないよ!?」
一方葎は、脳味噌が活動休止状態へと陥っている寧に懸命に呼び掛けている。寧は瞼を開けたまま一度も瞬きする事なく動かない。灯はそれをしげしげと覗き込む。
「寧さーん!! 戻ってくるんだ! そのままだとドライアイになるって!」
「眼を開けっ放しって……ある意味凄いですねぇ……」
「えっ、本当ですか。いけないいけない」
「戻る所、そこ!?」
「最近、乾燥気味なんで……気にしてるんです」
「ああ……そうなの……?」
それで戻るってのはどうなんすかね。確かに眼は乾くけども……。
寧さんってこんな人だったか? もっとしっかりしてなかったっけ? と葎は首を傾げながら唸る。
やっと全員が気を取り直し、一息ついた頃に燐太が思いついた様に言った。
「なぁなぁ、葎。真さんは今日居ないの?」
「ん? あー何かな、出張だってさ。県内とか言ってたなぁ」
「そうなのかぁ…だからこうやってダラダラ出来てるんだなー」
「これはいつもの事だろうが。元々お客さんも少ないし、何かあったら、呼び出されるから大丈夫」
大丈夫というのも、店員を呼び出すための簡易ブザーがしっかりとあり、客が店内に入った時点で鳴る様に設定されているからである。それでなくとも、店の扉には呼び鈴が付いているし、そっちの方もそれなりに鳴るので、必ず気付く。今は休憩時間なので問題も無いだろう。その貴重な時間を怪談話に費やすとは思ってもみなかったが。
「この不良店員め」
「うるさいなぁ、これでも高校の時は真面目で有名だったんだぞ?」
「普通だな」
「普通で何が悪い」
「面白くない!」
「そんな事言われても困るんだけど……」
「だってさ、もっと、こう面白みってもんが欲しいじゃん!」
「安心しろ、お前はある意味十分面白いから。」
――それは体を張ったリアクションが面白いからなのか、それとも藍子の彼への気持ちが面白いのか、そもそも存在自体が面白いのか――――さて、どれだろうね?――
「全部だろ。存在が笑える。それと痛々しい所」
「おい、今ガラと何喋った? おい!」
「これからの日本社会について。ガラは心を痛めているそうだ」
「嘘だな! 嘘! それダウト!」
「嘘じゃないよ、本当だよ、インディアン嘘吐かないって、インディアンが言ってた」
「それインディアンだよ!?」
――よしよし、我が思考が段々と葎を蝕んでるな。フフフフ。これで思い残す事も少なくなってきたぞ――
「ごめん、風早俺は嘘吐きだ。心から謝る。何なら土下座する」
「あんたどうした!?」
高いブザーの音がけたたましく鳴る。大音量のその音は耳をキンキンと刺激する。
……あ……お客さんが来たのか……。やば、行かないと……。
休憩も終わりか。
葎はいそいそと、雑多な物で溢れる廊下を抜け、外から射す陽光が眩しいレジの方へと向かった。
向かったのは良いのだが、何処にも人など居ない様に見える。辺りを見回したが、それらしい人影は見えない。葎がくまなく探すと、棚の向こうにピョンピョンと跳ね返っている、どこか見覚えのある黒髪が少しだけ見えた。葎はそれ以上近づきたくなかった。何故なら身の安全が危ぶまれるからである。
……居留守とか――――出来ないか……。出来ないよね……。うわー……この人が来ちゃったかー……。
幼く邪気が無い子供の様な可愛らしい横顔が、棚の上の方をじっと見ている。
つぶらな瞳が熱心に見ている本の題名は「簡単、便利、媚薬の作り方」という何とも猥雑なものであった。
何故この店にこんな不健全な書籍があるのだ?。
もう何でもありである。
邪気が無いどころか、この女性は邪気の塊。それもとんでもない方向の。
おぞましく、卑猥で、妖艶で、爛れて、近づき難い、どろっどろっの色気を四時間ぐらいじっくりコトコト煮詰めたような邪念。いや、空気をその小さい身体に纏っている。
傍から見れば、ただの守ってあげたくなる様な女の子。中身を開ければただの大蛇。
葎は彼女に聞こえない様に、極小の溜息を吐いた。
そんな本があるのも問題だが、それを物欲しげに見ているこの人もこの人だ。
誰に使うかは知りたくも無いが、頼むから自分の知らない所で、人を不幸にしない程度に使って欲しい、と葎は呆れながら思う。誰に使うかなんて、概ね予測が付いているが。でも、寧さんはともかく、真さんは絶対に引っ掛からないと思う。返り討ちに遭うのが関の山だ。それでも立ち向かっていくその精神だけは買っている。変態が一周回ってくると、尊敬へと変化するのは新しい発見である。
彼女はつま先で立ち、どうにか目的の本へと手を伸ばそうとしている。葎はそれを手伝うべきか、真剣に悩んだ。友人の身が危険に晒されるのは気が気でない。もし仮にそうなったなら、仕方が無いが、見捨てるしかないのだ。自分はあのこじんまりとした少女の様な女性に対抗する術は持っていない。極悪非道紳士の協力はまず得られないであろうし――――……。
「んん…取れないかー……。…………ん? お、栖小埜か! 居るなら居るって言えよ」
あぁ……気付かれた……。
広尾が嫌な汗を大量に掻いている葎に気付き、機嫌が良さそうな様子で言った。
言いたくなかったから言わなかったんですが……。
この人はどういう人なのか、葎は判らないでいる。前に彼が空鉦に聞いた時は昔は相当。今よりずっと酷い性格だったそうだ。これより酷いとなると、それこそ想像が追いつかない。
現に葎も華麗なバックドロップを決められている。となると、昔の広尾はパイルドライバーか、三角締めか、パロスペシャルでもじっくりやるとでもいうのか。
葎は自分が勝手に広げた想像に背筋が寒くなる。
「どうも……瑞樹神さん……」
「なっ? あれ取ってよ! 背が届かないんだ」
当然だ。彼女はとても身長が低い。
なのに葎を持ち上げた。その辺が物理法則の謎である。
そんな筋力があるなら、軽く飛ぶだけで届くのではないか? それとも、足と腕や上半身の筋力は別なのか。
貶している訳じゃない。その凄まじい筋力を葎は褒めているのだ。
「……誰に使うんですか……」
「そりゃー…………うふ…えへへへへ。まぁ……良いじゃないか」
わぁ、凄く初々しい笑顔……。
華も恥らう様な照れた笑顔で笑う広尾に対し、葎は魂の抜けた空っぽの作り笑いで応えた。
「友達の貞操の危機はどうでも良く無いんですけど……。…それにしても何で今日は?」
真が出掛けている事など、とっくに彼女は知っている筈だ。その事は葎自身が伝えたので、余計に彼は不思議に思った。なのに来るとは矢張り寧さんが目当てか。
「ああ? えっとな、気分」
さいですか。ああ気分ね。気分ならしょうがないな。
葎は無意味に深く考えた自分がとても馬鹿らしくなった。
――ほら~君は下手に勘繰るからそうなるんだ――
「うるせぇし、その読心術を止めやがれ。……それってマジでどうやんの?」
――気になるかね? 今なら二回までの無料指導が込み、教材が込みで一万九千円の講座が何と! 一万二千円! いいですかー? 七千円お得ですよー! 今だけの特別価格! お電話お持ちしておりまーす。――――という事で――
「何が、という事で、だ。そんな胡散臭い講座受けるか。それだったら一万二千円分のメロンパン買った方がマシだっつーの!」
――君だったら本当にそれぐらい平気で買いそうだから怖い……――
「お前――――メロンパン好きなの?」
「は、はい? そ……そうですね……大好きですね……」
「へー。じゃあ……今度美味い所知ってるから、教えてやろーか? ああー……。安心しろ。奢りだ奢り。金を取るなんてケチなマネはしねーよ?」
んなぁんだと!?。そそそそっそそれは本当か……!!?。
「一生……」
「あ?」
「一生付いていきます!!」
「よーしよし。じゃあ、まずは寧ちゃんの写真からだ。次は下着。その次はそうだな? 何にしようか? 汗とか?」
真顔でこの変態は何を言ってやがりますです?。
おかしな日本語で葎はそう思った。だが、魅力的な誘いでもある。彼は迷った。
どうするべきか、と。
「は…………。あ……やっぱ無しで……」
「っちっ……」
舌打ちされたーッ!?。
――一瞬、『はい』と言い掛けた所が君らしい――
嫌味の様にガラが言う。
うが……それを言うな……。
「はぁ~……メロンパン……メロンパン……」
「んな落ち込まなくても、それぐらいは買ってやるっつーの……」
葎のあまりの落ち込み様に、見かねた広尾が言った。
葎は元気になった。
いい子や……!。いい子……。あ、いや…良い女性だった……。とにかく、天使や……!!。
――メロンパンをくれる人間なら、誰にでも尻尾を振りそうだね……――
「常識だろうがッっ!! お前アホか!」
――鏡渡そうか?――
広尾は天井を見上げながら、不意に口を開いた。
「……――――この辺で依頼があってさぁ。それで、ついでだから寄ったんだわ」
ん……依頼…?。
「それがさー。学校に行く事になったんだよ。めんどいなーってな。せめてもの慰みに寧ちゃん見に来たんだけど、やっぱいいや。ムラムラして、依頼の方に集中出来なさそうさしさぁ。あの子の顔みたら……っもう……っ……! ね? はァはァ!!」
ムラムラってオイ。
「あー……そうっすか~……」
「……それ取ってよ」
急に真顔になった広尾が先程の本を指差した。
「あえ? あっ……はい」
「お前も悪く無いんだけど……やっぱ真と寧ちゃんだよなぁ~。そそるわぁ~」
いじらしい表情で身をくねらせる広尾を見て、葎はゴクリと緊張の生唾を飲む。
末期だ……。変態こじらすとこうなんのか……。駄目だこれ、有害な方の変態だ。
「これ、貰っとく。代金は後払いな。ちゃんと払うからだいじょーぶだ。いつもそうだし」
広尾は急に動きを止めたかと思うと、本を持ったまま入り口へと歩いて行く。
葎は止めるべきか、そのまま行かせるかで思い悩み、右往左往と棚と棚をうろうろした。
「あっちょっと! 瑞樹神さん?」
「じゃあな、栖小埜! 寧ちゃんに愛してるって言っといてな。……それと――――何か様子がおかしいから気を付けろ。……行くぞ~! 雅峰」
「な、何がおかしいんですか……?」
そんなの――――謎かけみたいじゃないか。
何なのだ? この人は何が言いたい?。
そうは思っていても、葎はそれ以上聞けなかった。
聞いても答えが無さそうな――――だからこそ彼女が言った様な気がしたからだ。
「さーて、何でしょね? ワタシもあんまりはっきりとは分かんないんだ。…………自分で考えろ。……雅峰ェ! まだかー!」
「先輩……声でかいですよ?」
「伊井都さん……また天井から……」
天井から軽い音を立てながら下りてきた雅峰に葎はギョッとした表情になる。
広尾は天井じゃなくて雅峰を見ていたのだろうか?。
ところで、何故天井に毎度毎度張り付く?。
「またね、栖小埜君」
雅峰は前に会った時と寸分違わぬ笑顔で葎に声を掛けた。
この人はいつも笑っていて嬉しそうだな……。悪い気はしないが……。
「え……はい?」
「さっさと下りてこいよな!」
広尾がきつい口調で言い、雅峰はそれに自分の頭を撫でながら飄々と応えた。
「いや~先輩の歪み無い精神が眩しすぎて……近づけなかったんですよ~」
――――謎か。
謎ばかりだ。今回もまた正体の掴めない謎が枚挙するのかも知れない。
こういう明瞭でない問い掛けをされるのは葎は本当に苦手である。
問い詰めて、追いついても、謎は最後まで自分を煙に捲こうとする。追いかけて追い続けないと、簡単に逃げてしまう。しかも追いついても、真実が解き明かされるだけとは限らない。
謎を探求しても、その謎を問うのに精一杯で、真実から何時の間にか視点を逸らされ、真実の無い方向へと誘導されてしまうのだ。謎は謎、真実は真実で要領良く追いかけなければ、全ての全貌は掴めない。
謎と真実。それら二つを繋ぐ、事実ですら時には当てにならない時がある。
事実なんて人の捉え方で、幾通りにも移り変わる。
今度の――――今度は何が起きる。それが分からない限り、何一つ答えを出す事は出来ない。
風が凪ぎ、雲が動き、光が消える。葎の胸中に胸騒ぎにも似た感覚が湧き立つ。
彩度が鈍り、灰の膜を貼る。
瞳に映るどれもが、現実味の無い曖昧な色となる。
暗いな。と葎は呟いた。
「――――行きました……? 行きましたね!?」
突如として、震えた声が聞こえた葎は背後へと振り返った。
彼の後ろには雑然とした物が所狭しと並べられ、隙間の無い狭苦しい整列をし、その不気味とも神秘的とも取れる存在感を一つ一つが漂わせている。
その多くの物が並ぶ棚の棚の微々たる隙間に、狐の面を被った不審者――――。
もとい、橋間寧が隠れていた。
狐面を被っているのは、身を隠すだけでは安心出来ず、顔まで隠そうとした苦肉の結果なのだろう。
それにしてもあんまりだ。彼女の姉もこんな事に使われるとは思いもしなかった筈である。心なしか狐の面が泣いている様な気がしてならない。
彼女は細い方ではあるが、流石に無理矢理入り込んだ棚の間はきついらしく、苦しそうに呻いている。
「寧さん…………寧さん…………」
葎は二の句が接げずに、寧の名前を二回呼んだ。
「……き……きつーね」
「寧さん……狐はきつねって鳴かないと思う……」
狐で乗り切ろうとしたのかも分からないけど、そりゃあ無理がありますって。
鳴き声だってせめて「こん」とかだろう。「きつーね」って何だ、「きつーね」って。
「そこまでするかぁ……? 確かにかなりの淑女だけどさぁ……」
「だ、だってー……瑞樹神さんに捕まったら……舐められたり、嗅がれたりするんですよ!?」
「まずは警察に相談するのを推奨……」
舐めるなよ……。嗅ぐなよ…。変態か!? 否……変態だっ!。
「あのう~それより……此処から出して貰えませんかね……? 出れなくて……」
先程から寧はその場に詰まったままで動こうとしていない。棚が思いの外狭くて、出られないのだ。物が多い棚は動かす事は不可能である。無理に出ようものならば、棚は倒れ、未知の物品等は床に散乱してしまう。それ以前に物量とその重さで動きもしないだろうが。
「そんな事になるなら最初から入らなきゃ良いのに……はい」
葎は棚と棚に挟まれている寧に手を伸ばした。
「ど、どうも……やっぱり……ダンボールにして置くべきでした……」
「ダンボールぅ? それは直ぐ見つからない?」
「そんな事はありませんよう! ダンボールは一流の隠密道具なんですから! 伝説の潜入工作員が愛用しているくらいです!」
「……それ本気?」
「えっ……? 本気も何も……そうじゃないんですか?」
「一度ね……君はダンボールを被って外に出てみると良いよ」
「ハイ! 分かりました!」
「嘘嘘嘘! 冗談だから真に受けるな!?」
順調に引っ張り出され、あと少しで出られそうという一歩手前で、寧は再び詰まってしまった。
葎がどんなに強く引っ張ろうとも寧は動けない。
かといって、力任せに引っ張る事も出来ない。
「ありゃ~……止まっちゃったか……」
「ひ…引っ掛かってるんです……」
「何処が……?」
「い、言わなきゃ駄目ですかね……?」
「別に…………?」
暗所に潜んでいる寧の表情に、少しだけ朱が差した様に見える。
だが、葎が眉を潜めると、凶悪な人相へと変化した。
その変わり様や、普段は大人しい学校のクラスメイトが家に着いた瞬間、母親に「おかえりー」と言われ、それに「うるせぇよ!」と返す、思春期の内弁慶の如き変貌ぶりである。
「……メロンパン人間め……本当にメロンパンしか考えていないのか……っけっ……」
「何故に機嫌が悪くなった……」
「いや……? いーんですよ……メロンパン中毒で速やかに死んでくれれば。それなら少しは憂さが晴れますから」
「メロンパンは中毒にはならないよ!?」
「なっていますよ! 貴方の場合! う……それよりもー! 早く出してください~!」
「あーっ……どうしようか……。ん……そうだ……! ガラ! 頼む」
――んにゃむ……?――
んにゃむ? あいつ、猫でも飼い始めたのか?。
――……で、何の話だったかな?――
「お前……もしかして…寝てた?」
――………はははは、そんな事無いさ。私が居眠り? 無い無い――
「じゃあ今の間は……? ――――わふる――――さて、寧を助け出せば良いのだね?」
――てめぇ……――
「ふ~む……これを動かせばいいかな」
ガラは棚の片方をゆっくりとした丁寧な動作で持ち上げ、ずらした。
棚は静かに動き、寧は大きく開いた隙間から抜け出した。
「はぁ、出て来れましたぁ……」
「何処が引っ掛かったのか葎に言ってみようと思うんだが、君はどう思う?」
「止めて!? ガラさん!? れれれ冷静になりましょう?」
「ふふふっそうだな……。これは気が向いたら使う交渉材料にしようか。……それより、そっちの方を優先した方が良いんじゃないかね? 先程からずっとこちらを見ているぞ」
「先程から見ている……? 誰が――――?」
寧はガラの視線の先を見た。
ガラの見ている先には、自分より小柄な前髪がやけに長い少女が店の入り口でぼんやりと立ち竦んでいる。客なのだろうが、入って良いのか判らずに立ち止まっているのだ。
少女は長い前髪に隠された眼で、寧の方をじっと凝視していた。
あ~……やってしまいました……。
少女から見れば、何処となく、肉体と精神的雰囲気がちぐはぐな青年が持ち上げた訳の分からない物が大量に並べてある棚の隙間から、狐のお面を半分被った女性が服を乱しながら出てきた光景が映っている事だろう。
先の痴態を見られていたかと思うと、寧は全て無かった事にして、即刻家に帰りたくなった。
「す、すいません……お取り込み中でしたか……」
「えぇえええ!? そそそんな事無いでざます!? そうざます! 何か御用でざますなら、何でも言ってざます!」
「え…………。えっと……古着を探しているんで……ざます……?」
「ぐはっ!」
何を勘違いしたのか、寧の動揺した口調を少女は戸惑いながら繰り返す。
それを聞いた寧の顔の赤みに拍車が掛かり、尋常では無い赤さとなった。
そして寧は気を失い、ぷしゅーという謎の怪音を発しながら前方へ倒れた。
「!!?」
少女は倒れた寧に驚き、何故か両目を手で押さえた。
「――-―ガラの野郎……まーた勝手に出てきて……。……あれ? ……寧さん? 寧さぁーん!!」
――自爆……――
「え……え……ご、ごめんなさいっ……!」
「あ……いや……君が悪いって訳じゃないから……」
これは困ったぞ…。とりあえず、先にこっちをどうにか…。
葎は寧には悪いと思いつつも、目の前の少女への対応を優先する事にした。
「……こほん……何をお探しで?」
何とか体面を取り繕い、葎は少女に向かって聞いた。
「……顔が見えない様な服――――パーカーとかでも良いんで……」
少女が言い掛けた瞬間、奥の廊下から燐太が小さな菓子箱を持ってやって来た。
「葎~これ食って良いかー?」
「あん? それは……俺の隠してたやつ! 小さきメロンパン!。ああでも……それより今は――――」
葎の言葉など燐太は聞いていない。彼は少女の方を意外そうに見ていた。
「お前――――伊織じゃん。どーしたんだ?」
「知り合い?」
「ごっ……ごめんなさいっ……!」
そう言って、前髪の長い少女は店を出て行ってしまった。
突然の事に葎はおろか、燐太も引き止める事が出来ず、呆然とするしかなかった。
「ありゃー行っちまった……」
「誰だ? お前の友達か?」
「まあ、そうだな」
「はぁ、そうなの?」
「すっげえっ! 大食いなんだよ。……それにしても何で逃げたんだ?」
燐太は首を捻った。自分は何か逃げられる様な事をしただろうか。
自分はともかく、聞けば藍子など頻繁にメールのやり取りをしているらしいじゃないか。
自分は筆不精ならぬ、メール不精なのであまり送った事も無いが、それでも藍子に促され、数回程メールを打った事もある。
彼女からもクレープの大食いに行って来たとか、天丼の大食いに行って来ただの、文章が送られてきたし――――……。
何でかなぁ?。まあ、今度聞けば良いか。
燐太は菓子箱をがさがさと揺らす。そのまま彼はさり気なく休憩室に戻ろうとした。
が。
「待てや、そのお菓子は置いていけ」
「う゛っ」
燐太は肩をしっかりと葎に掴まれた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
外の色がすっかり暗色へと切り替わった時刻。街は怪しい雰囲気に呑まれている。
光を放つ筈の街灯は、点いたり消えたりを交互に繰り返し、その輝きを弱めながらついには消えた。 霧が出ている。霧などこの街には一度も出た事が無いにも関わらず、その白とも灰とも取れる色は周囲の景観を侵食していく。人々は誘われる様に霧に飲み込まれ、一人、また一人と消えていった。
赤がイイ? 青がイイ?
くぐもった声が路地に木霊する。
不気味さと同時に、どこか作り物の様な声。感情が感じられない。
声の主は、表は赤い色、裏地は青の外套を羽織った男のものだ。顔は包帯でぐるぐると捲かれ、表情が判別出来ないどころか、包帯によって視界さえ遮っているのではないかという有様である。
男は一人の少年に詰め寄っていた。彼は男の異様な風体に怯えている。
少年は逃げようと駆け出すが、男が行く先を阻み、進む事が出来ない。
男は言う。
赤がイイ? 青がイイ?。
少年は自棄になり、自分の持っている鞄を男に投げつけた。
しかし、男に向かって投げられた鞄は男に辿り着くまでに真っ二つになり、地面へと落ちた。
男は続けて言う。
赤がイイ? 青がイイ?。
ズイズイと少年との距離を縮める。少年は転び、地べたを這う様な格好となる。
少年は必死でアスファルトの上を駆けずる。肌が擦れ切れ、血が滲んでも男から逃げる事だけを考えた。
男は言う。
赤がイイ? 青がイイ?。
袋小路まで少年は追い詰められてしまった。逃げ場など最早無い。
赤がイイ? 青がイイ?。
答えろ。と男は言った。その手には艶っぽい金属光を放つ鎌が握られている。
答えろ。
「く、来るなっ…!」
赤がイイ? 青がイイ?。
少年は答えられない。それだけの余裕など、彼には無い。
赤がイイ? 青がイイ?。
「く、く、来んな……!」
答えろ。
「そんなの――――……」
少年は、答えようとした。
そうすれば、この怪人物は自分を解放してくれるかも知れない。そう思ったのだ。
「あ――――」
包帯に捲かれている顔が笑った気がした。
その時、暗中に冷たい風が吹いた。
風と共に何時の間にか包帯を捲いた男の背後にもう一人――――。灰色のパーカーを被った人物が現れていた。下は普通のジーンズ。どこにもでもありふれた服装だ。
「赤か青か? そうだな、どちらも好きだ!」
「だレ?」
「俺か? 俺は――――」
横薙ぎの銀閃がパーカーの人物を襲う。包帯男が振り返りざまに鎌で切り掛かったのである。
しかし、その不躾な斬撃は軽く弾かれた。
鎌が弾き飛ばされ、地面へと落ちる。
「名乗りの最中に攻撃するなんて、分かってないな!」
包帯男は自分の胸に違和感を感じ、のろのろと愚鈍な動作で視線を落とす。
胸が貫かれている。
包帯男はパーカーの人物の左腕が自分の胸部を貫いているのを視認した。
パーカーの人物は乱雑に包帯男の胸から自分の腕を引き抜く。
何の音もしない。
血も流れ出ない。
夜と同じ色の何かが流れていく。
それは影絵の様に光に照らされ、かき消える。
パーカーの人物は極めて明るく言った。
「俺は……」
「ぁあ……アアぁあァああア……」
包帯の男は自分の胸に開いた風穴から、力が流れ出ていくのを感じた。
消えたくない。まだ自分は語られたい。どうせ消えるなら――――この自分を苛める奴を道連れに――――。
包帯男は最期の力を、目の前のパーカーの人物を殺す事だけに向け、よろよろとしながらも、パーカーの人物の首を両手で絞めようと首に手を伸ばした。
手は易々と届き、すさまじい力でパーカーの人物を動脈を絞めようとする。
だが、その前に包帯男の手から力が抜けた。
「それで、俺を殺す気か?」
パーカーの人物の容赦無い拳が飛び、包帯男の腹に新たな空洞が開く。
包帯男は力無く地面へと倒れた。
「……俺はヒーロー。おおっと、忘れてくれても構わない――――。どうせお前はもう消えるだろ?」
腰を抜かしている少年にそのヒーローと名乗る人物は一瞥し、消え逝く包帯男に問い掛けた。
「…………ああ、そうだ……。お前――――『赤が良いか? 青が良いか?』と聞いていたな?。…俺は答えたが、俺の中のもう一人が答えていないから是非答えさせてあげてくれないか――――」
「あ……あぁあ……アァ……」
苦しげな呻き声が周囲に響き渡る。
「もう一人は――――」
ヒーローは地に横たわる包帯男をじりじりと踏み潰しながら言う。
「両方嫌いだってさ」
ヒーローの足に力が入る。
乾いた風が吹く。包帯男は崩れる様に煙となって霧散し、闇へと溶け消えた。
明るい口調とは裏腹に、ヒーローは最後まで笑わなかった。
いやはや、次はまた場面転換します。
次は、出張中のあの人です?。
おまけや、外伝も書かないとやばいですね……。
おまけの方は後で外伝ページの方に纏めましょうか……。




