弐の話
やっと涼しくなってきました。うん、明日から本気出す…いや…明後日…から…やっぱり…一週間後から…。
茜色に染まる窓を遠目に眺めながら教室の扉に鍵を掛けた。何回同じ扉に鍵を掛けたか。
夏休みで用務員は居ない。夏休みの間は代わりに教師達が鍵を掛けて回る。
面倒という人も居るが、自分は直ぐに夏休みに入るのでそんなに苦では無いと思っている。
見回りと共に、今の内に校舎の情景を網膜に焼付けて置けるので、むしろ嬉しい。
今年でこの学校に赴任して八年だ。そろそろ転勤の頃合でもあるだろう。いいや――――もう退職か。
改めて自分の年を考えればそちらの方が現実的だ。今更こんな年寄りを採用してくれる学校など数える程も無い。体もガタが来ているし、大人しく夫と余生を過ごした方が自分の為にも、息子や娘の為には良いかも知れない。
私は今日生徒の一人が言っていた話を思い出していた。
何の話かというと、最近の流行である怪談話である。怪談など、九十年代半ば辺りで廃れたものだと思っていたのだが、インターネットの影響で人気が再加熱したらしい。
怪談など、自分は典型的な口裂け女や、トイレの花子さんぐらいしか知らない。ところが最近はそういう学校内で起こる怪談というのは少なく、話の内容も凝っているのだそうだ。
子供達の視点が内向的な学校という閉鎖された空間から、外の世界という開けた空間へ向いているのだ。私の時代と違って、今の子供にとって学校は絶対的なものでは無くなり、それぞれの視野も多様化している。だから、学校での怪談が少なくなった――――と私は考えている。
やっぱり世代が違う。私はありきたりな話しか思いつかない。学校によって違いはあるかも知れないが、それでも話の内容が大きく変化するなんて事は殆ど無い。
今日も、「先生の時はどんな話があったか?」などと聞かれて、随分と困ってしまった。
自分が知っている話はとっくに子供達は知っている。違う話なんて思いつかない。
…あぁ…でも…一つだけ…うちの学校には他の学校とは違う話があったな…。
不謹慎だ。
数年前に凄惨な。それこそ怪談とも言える事件がこの学校で起きたばかりなのに。
こつこつという自分の足音が静かな脈を刻む。生徒の気配は感じられない。部活動で残っていた生徒達も帰った。居るのは多分自分だけだ。夕焼けが哀愁を運び、廊下は幻想的な景観へと変化する。この光景も何度も見た。自分とこの学校の関わりは、教師になる以前からある。
自分が入学した頃とは全然違う。校舎は新しくなり、体育館も改装された。冷房が設置され、次々に古い物達は淘汰されていった。しかしこの学校に漂う空気は変わっていない。それだけは自信を持って言える。青春というにはちっぽけな、それこそ歌にある様な学校生活では無かったけれど、自分が友人達と過ごした情景はありありと思い浮かべる事が出来る。新しい物が増え、古い物が無くなり、情景そのものに差異はあれど、私が過ごした記憶は褪せる事無く今の学校と重なる。
この学校で教師生命を終える事が出来るというのは、何という僥倖であろうか。
自分が育った学校が最後なんて、運命も中々気の利いた洒落た真似をしてくれたものだ。
カラスが啼いた。
そうだ――――あれを見たのも、こんな夕焼けの綺麗な日だった気がする。
自分は今とは違って教師などという肩書きでは無く、一生徒だった。
あの時は、部活の帰りで遅くまで学校に残っていたのだ。顧問の先生は先に帰ってしまい、私と友人を含めて四人の少女は鍵を返しに職員室まで鍵を返しに行った。その時だ、その時に私は自分が忘れ物をしている事に気が付いた。忘れ物はピアノの楽譜だった。当時、私は合唱部のピアノ奏者だったのだ。
暗い音楽室に楽譜を取りに行くのは正直嫌で、友人に付いて来て欲しいという思いもあったが、自分が忘れたのだから友人達を付き合わせるのは何だか悪い。だから、一人で行こうと言ったのだった。
――――私、忘れ物しちゃった。
――――そうなの? じゃあ私達も一緒に取りに行くよ。
――――ううん、いいよ一人で。
――――だったら、私だけ付いていく。
――――えっ、でも。
――――行こうよ。暗くなっちゃうよ。あなた達は先に下駄箱に行ってて、用務員さん鍵掛けちゃうから、待ってもらわないと。
――――うん。先に行ってるね。
――――早く来てよ。暗いから。
――――なあに? 怖いの?。
――――怖くなんて無いわっ。
――――そういう事にしておくわ。じゃあ、行ってくるね。
――――あ…本当に良いの?。
――――当たり前よ。そんな事行ってないで行くよ。
――――う、うん…。じゃあ皆、後で…。
今でも思い出せる。彼女達はあの時の事を覚えているだろうか。三人とは頻繁に会うが、この話題について触れた回数は殆ど無い。彼女等が覚えているのかも怪しい。先に帰った二人は当然だ。二人にとって、その時の出来事など、取り留めの無いものであるから覚えていなくても何ら不思議は無い。
だが、彼女――――恵子はどうなのだろう。
彼女は私と一緒に見たのだ。あれ程印象深い光景をそうそう忘れるものではないと思う
。
でも…仮に覚えていたとしても、進んで口に出したいな話題とは言えない。
おや、私は何を考えているのだ。さっさと鍵を掛けなければ。
廊下を再び歩く。次は音楽室――――。
普通の教室よりも、ワックスの塗りが強い床。生徒達の座る席の後ろに飾られている音楽界の偉人達。
少し古びたピアノ。様々な楽器の数々。
ピアノの、黒光りし、手に残る様な感触の表面を指でなぞる。
――――この薄っすらと無数の傷が付いているピアノも、あの時はまだ新しかったな。新品のピアノ…鍵を押す度に心が躍る様だった。私が弾いて。皆が歌って。とても楽しかった。
――――あった?。
――――うん。ごめん…付いてきて貰って…。
――――無料じゃないよ?。
――――ええっ。
――――嘘嘘。行こう、皆待ってるよ。
そうだ。この場所ではない。私と彼女は此処では何も見ていない。
音楽室の扉に鍵を掛け、見回りを続ける。
廊下の色がどっと抜け落ちた様だった。脱色したというよりか、黒く彩度が無くなったと言うべきだ。
…一つ目。鍵は掛かってる。
…二つ目。同じ。
…三つ目。同じ。
…四つ目…ああ…この教室…。丁度この位置だ。廊下の直ぐ隣の位置。
あの時私達は此処で――――。
――――何か光っていない?。
――――…? 何が?。
――――其処の教室。やっぱり、誰か居るんだわ。誰かしら。
――――こんな時間まで誰が?。
――――さァ?。見てみようよ。
――――おばけかも。私嫌だわ。
――――おばけなんて居ないわ。そんなの迷信よ。
――――でも…。
――――少しだけ。少しだけだから。
――――分かったわ…。
そして見たのだ。教室の隙間から僅かに垣間見える光景を。
私達は蒼冷めた表情で一目散に階段を駆け下りた。そのまま、下駄箱で待っている二人の手を強引に引っ張り、何も言わずに下校の途に着いたのだった。
何があったのかと勿論聞かれた。だが、私達は何も見ていないと、答える他無かった。どうせ言った所でそれは幻覚だと言われるのが眼に見えていたからである。
口裏を合わせたとかそういうのじゃなくて、お互い自分が見た光景を怖くて口に出せなかった――――。 それだけだ。
…此処は新しい校舎だ。同じ場所、同じ状況だからといって、同じ光景が見れるとは思っていない。だが、もしも…。もしも、この扉の向こうに――――。
扉を少し動かした。鍵が開いている。掛け忘れか。
不意に好奇心に駆られた。教室の中にはどんな光景があるのだろうか。
何も無いのか。
それとも――――あるのか。
隙間から中を覗き、眼を凝らす。
煌びやかな光が、怪しく、艶めかしく教室を照らしている。
まだ夕暮れの筈なのに、窓の外は夜と同じ黒い色。
これは…あの時と一緒だ。
教室には人で無い者が踊り狂う。次第にそれは増えていく。
汗が滲む様に自然に増えていく。
気付いた時には、教室は人で無い者達で溢れ返りそうになっていた。
一緒。一緒。一緒。あの時と。あの忘れ物をした日と。
何年も、何十年も忘れなかった光景。それが今再び目の前で繰り広げられている。
何だ。やっぱり私の見たものは嘘じゃなかった。本当にあった出来事なのだ。
人外達は楽しそうに踊る。
様々な姿で。
怪談と同じ姿で。
あれは、花子さん。話の通りおかっぱで、赤いスカートを穿いている。あっちは人体模型。無機物の筈の臓器が動いていた。音楽室のベートーベン。肖像画の様に厳しい顔。
知らない怪談の主人公達も居る。皆一様に、ねばついた笑みを顔にへばり付かせている。
人を誘い、攫い、閉じ込め、追いかける彼等が私の目の前、この教室に。
時間があの時に戻り、重なる。今の私と昔の私両方が見た光景だ。
何て楽しそうなんだ。狂った笑い声が鼓膜を振るわせた。
「日下部先生?」
突然背後から声が聞こえ、同時に肩を叩かれた。
「どうしたんですか?」
声を掛けてきたのは、一人の女子生徒だった。
「きょ――――教室の中に――――」
私は振り返り、もう一度あの光景を見ようとした。
だが、教室の中には何も居なかった。
「何も無いじゃ無いですか?」
彼女は訝しげな表情を作り、私を見た。客観的に見ても私の行動は不審だ。
…何だったのだ? あれは。あの光景は。
「………何でも無いわ。…帰りましょう。下校時刻はとっくに過ぎてるわよ? 校門ももう直ぐ閉まってしまうわ」
「あっ! もうそんな時間!? じゃ、じゃあ先生! さよなら!」
私は何を見たのか。あれは何だったのか。
教室には矢張り何も居ない。沈みかけの太陽が優しく教卓を照らしている。
先程までの誘う様な光とは全くの別物である。
本当に見たの?。私は本当に――――。
自分自身に問うたが、答えは返ってこない。
私はその教室にしっかりと鍵を掛け、その場から立ち去った。
ガリガリ君のコーンポタージュって独創的な味がしますね…。
それでは!ノシ




