夏休み前日の事
最初に言っておきますが、前の話と時系列的には一緒ですが、話は続いていません。学生達の日常? です!。
見なくても問題は無かったりしますが……。とりあえずどうぞ!。
「風早君は今日は休みでっすか?」
「ううん。あいつは先生の所に行って課題を貰いに行ってるのよ、成績が悪かったからね」
帰り道の途中、彼女はそう聞いてきた。いつもより静かなのが気になっていたのだろう。
灯ちゃんと二人だけで帰るというのは珍しい。彼女と、燐太と私で帰る様になってからは、初めてかもしれない。あいつとの関係が修復されてからは、毎日一緒に帰っている。そしてこの子とも。
彼らと一緒に居ると、学校の女子内のギスギスした空気を忘れられるのでありがたい。何だかんだで自分はまだ子供なのだ。男女の区別が無い方が楽ではある。……そうでない時もあるが。
「大変ですねぇ…数学が駄目なんでしたっけ?」
「そうみたい。絶望的な点数だったらしいわ。数学の他は問題無かったらしいけど…」
三人で一緒に勉強したというのに彼の数学の点数は死んでいた。
点数は死なないが、あえて比喩するならば、やっぱり死んでいた。
「数学以外は?」
「普通だって」
「全部赤点かと思ってました!」
「フフッ! ああ見えて、勉強は普通にやる奴なんだよ?」
「見えませんね」
バッサリと切り捨てている様に聞こえるが、彼の学校内での振舞いを見ていればそれも頷ける。散々、騒動を起こしているにも関わらず、爪弾きにされないのは彼自身の魅力の様なものなのだろう。
基本的に、人の事を大切にする奴だから、憎もうにも憎めないのだ。馬鹿だが。
学校内で男子の支持を得ているというのも大きい。馬鹿だが。
女子の仲間内では彼はどうでもいい存在だ。関わるだけ時間の無駄だからというのと。馬鹿なので。
教師も彼の事は暖かい眼差しで見守っている。馬鹿ほど可愛いと言っていた。
「そうよね」
「…あ…」
「ちょっと忘れ物を…」
「待っていようか?」
「いやー、悪いですから、先に帰っていてください! また今度、「天儀屋」に集合って事で!」
「分かった。じゃあねー。…変な人に付いて行っちゃ駄目よ、遅くまで学校に残らない様にね。歯磨いた? ハンカチ持った?」
「お母さんですか」
行ってしまった。私も私の用事を済まさなきゃいけない。
…あいつは今頃何をしているだろう。
内側に電球でも入っている様にも見える木立を見上げながら、彼と毎日帰っていた小学生の時の夏の風景を思い出した。昔と今じゃ見る高さも視点も違う。
彼と一緒だった目線も今では高さが違う。
心も――――心の視点も、違うのだろうか。
街路樹の木陰に入りかけながら、何となくそう思った。
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整然と並んだ本の背表紙を眼で追う。結局、どれも自分の読書欲を刺激するには至らない。
難しそうな題名ばかりが並んでいて、退屈そうで、全て同じに見えてしまう。
此処へ来たのも、気が向いたからだ。特別な理由など一つも無い。
ただ、たまには読書も良いかもしれないと思い来ただけで、教養の為とか、何かを学ぼうなどと明確かつ高尚な動機は有りはしないのだ。むしろ自分がそういった理由で来る時が来たら、それは多分、天変地異の前触れだ。進んで勉学に励むなど、相方にでも任せておこう。自分は元来そういった事に向いていない。自分よりもこの場所には向いているであろう、その相方は今日に限って居ない。そして最近良くつるんでいる天然娘も、口に出すのも憚れる物品を貸し借りしている友人も居ない。
がらんとした室内を見渡し、再び本を探す作業に入る。
終業式の後に図書室が開いているのも珍しいと思うのだが、それ以上にここに立ち寄る人間は少ない様だ。本が好きな読書家達は数日前に貸し出しを終えているらしい。それもそうだろう。何も一学期が終わる日に重い荷物なぞ持ちたくも無いのが人情である。それでも自分は来てしまったのだが。
「漫画もあったなー…そっち借りてくか」
年季の入った匂いがする図書室の一角で、風早燐太は呟いた。
エアコンの冷気と扇風機の風が相まって絶妙な涼を演出している。司書の女性は奥の部屋に入ったきり出てこない。残っている生徒も少なからず居るが、皆一様にして自分の世界に潜っている。
「何を探しているんだい?」
「せいやぁぁぁぁ!!」
突然の声に思わず俺は飛び上がった。比喩ではなく、実際に数センチは床から浮いたと思う。
周囲の視線が一気に自分に集まるのを感じた。羞恥心が急激に高まり、それが顔に表れたのだろう。俺に向いた視線は非難する様なものとは違い、仕方の無い奴だとか、またこいつか、という感じのものだった。
「ハ…ハハハハハハ……すんませんしたー…」
尻すぼみな謝罪と作り笑いを振りまいて誤魔化し、場の雰囲気を何とか治める。寡黙な読書家達はそれを見届けるとそれぞれの世界へと戻っていった。
「アハハハ……。…いきなり話しかけるなよ! 俺のガラスのハートはお前の声と、世間様の凍てつく波動で粉々だぜ!? どーしてくれる! 忍者か!」
燐太は出せる範囲の声で、声の主――――秋庭正一に文句を言った。
「ごめんごめん…。そんなに驚くとは思わなかったから…。…ガラスのハートって…どっちかって言うと、超合金のハートじゃ…。とにかく…君の心臓はもっと頑丈だと思ってたんだよ…って、驚き過ぎだろ幾らなんでも」
頭の端を掻きながら、正一は燐太に弁解になっていない弁解をした。言葉の真意はともかく、彼の表情から感情を読み取った燐太は、若干表情を崩しながら、正一に話しかけた。
「………? なあ、前から思ってたんだけど、お前の鞄に付いてるキーホルダーってLEDでも内臓してんのか?」
「…何故?」
「いやさ、薄っすら光ってる気がしてさ」
「見間違いだろ」
「そっか、そうだな! わりーな、変な事言って」
「いや別に気にしていないよ」
「……お前は何を借りに? いかにも読書してますって顔だもんな」
「それ、どういう顔? 僕はたまたま寄っただけだよ。風早君こそ珍しいと思うけど」
「俺も何となく寄りたくなってさ。一年に一回ぐらいは読みたくなるだろ」
「年単位なの…? 流石にそれは冗談だよな…」
「え? 冗談じゃないぞ?」
大真面目に言う燐太を見て、正一は哀れむ様な視線を送った。
「人それぞれだよね…。本が嫌いな人もいるし…。…ところでどういうのを読みたいんだ? 僕で良かったら探すの手伝うぞ?」
「あ? おお、わりーな。そうだなぁ…こう、なんつーか…ファンタスティックな感じのが良いな!」
「ファ…ファンタスティックな奴か…それなら…これとかどうかな? 児童書だけど、中々凝っている作りだし、読み易いと思う」
正一が燐太に指で示したのは、海外の児童書だった。児童書とは思えない作風で、ダークファンタジーの雄とも言っても過言ではない鮮やかな表紙が眼を引く小説である。燐太は普段自分が読んでいる小説より分厚く感じるそれを受け取ると、パラパラと軽く捲り中身を吟味した。
「面白そうだな。うん…これにするわ。ページ数も気にならないな、スラスラ読める」
「でしょ? …それ、主人公がカッコイイんだよ…それこそ、手段を選ばないって感じでね」
ブラインドで遮光されている室内の中で、正一の瞳が暗闇を取り込んだ様に黒く見える。
「お、お前…将来犯罪起こすなよ?」
「君も不審者として捕まらないようにね」
「捕まるか!」
「捕まるよ」
「捕まるの!?」
「うるさいよ。他の人が迷惑だ」
「ごめんなさい…。じゃなくてだな! お前眼が怖いんだよ!」
「そんな事言ったら、風早君は見るからにアレな人に見えるじゃないか」
「アレって何だよ! アレって言えば上手く誤魔化せる風潮止めない!?」
「そんなに言ってないと思うけど…。…それ誰に向かって言ってるの…?」
「大いなる意思を受信してしまった様だな…」
「ああうん。分かったから…それ以上近寄らないでね…通報するよ」
「何処に!?」
「と言われましても」
「俺の育て方が悪かったのか…」
「君に育てられた覚えが無いんだけど」
燐太はおいおいと泣くフリをしてから、切り替えた様に口を開いた。
「あ…お前なんつったっけ?」
「今まで名前も覚えてなくて会話してたのか!?」
「いやァ…すまねぇな…えっとー…ショウイチだっけ?」
「正一だ…」
「セイイチ…セイイチ!」
「何で、片言っぽくなってるかはさておき…下の名前で呼ばれるのは初めてだな…」
「へぇ~俺なんかは呼び捨てが当たり前みたいな感じだぜ?」
「それはそれで嫌じゃない? 初対面の人とか、いきなり「燐太ー」って嫌でしょ」
「え? 別に?」
「そうなの? 僕は嫌だけど…」
「なんなら、お前も呼んでいいぞ! 呼んでみろ! 情熱をこめて!」
「情熱をこめる必要は無いよね…。燐太君…」
「燐太で良いって! さあ来い! もう一度! 今度は愛をこめてな!」
「君が変態って噂は本当だったんだな。風早君」
「距離感が…! 近づきかけた距離が…! やるな…! 俺にここまでの突っ込みを入れたのは藍子以来だ…!」
「…それ以外の人は?」
「ドン引きされるパターンが多いが、泣かれる場合もあるな、ウン」
「だろうね…」
「これも…運命か…」
「いやいや、自分でその運命は自分で開拓していってるでしょ…。…藍子って…柳葉さんの事だよな?」
「知ってんのか?」
「だって彼女、僕と委員会一緒だし」
「あーそうなの。あいつうるさいだろ。俺…あいつに年中お経のように小言言われてんだよ…。やるせねえよな…」
「自業自得じゃないのかな」
「どの辺が!?」
「全体的に」
「そうかなー? そんな事無いと思うんだけどなー…」
「風早君…自覚が無いって恐ろしい事だと思わないか?」
「んあ? そうだな!」
燐太が何気なく返したその一言により、正一はギリシャの彫刻の様にガチガチに固まり、燐太を眼を見開いて凝視した。それは本気で言ってるのかという確認の為であり、もしかしたら自分は風早燐太という少年の幻を見ているだけであり、本当はそんな少年は存在しないのではないかという己への疑いも含んでいた。
「……………………………」
「えっ? ええ? 何!?」
「本気で言ってるのか…!」
「おい何で、明日、日本沈みますって言われた様な顔してんだよ」
「だって――――」
正一は言いかけてからしまったという顔で口を閉ざしてしまった。
燐太は眼でどうしたのかと彼に聞いたが、顎で横の方を指すばかりで、今一要領得ない。
どうしたのかと指し示す方向へと向くと、突き刺さるような刺々しい視線達が自分達を射止めているのが良く分かった。その瞬間彼は理解した。またやらかしてしまったな…と。
おや…水漏れか…? あ、これ俺の汗だ。
どうやら本の虫達は一度目は許してくれるが、二度目は無いらしい。やっぱり三度まで許してくれる仏様は偉大なのだと燐太は実感した。
「さぁ~さっさと借りて行きますかー正一君よ…」
「う、うん…そうだなー燐太君…」
奥に居る司書を呼び出し、貸し出しの手続きを済ませた燐太と正一は逃げるように図書室を後にした。廊下は窓は開いているものの、風は少なく、二人が汗だくになるまで時間は掛からなかった。
「…君のせいで追い出された…」
「何ィ~~~!? お前だって喋ってただろうが」
「だって君、突っ込み待ちみたいだったから…」
「そんな事は無ぇ! …いや…あるかも知れない…」
「どっちなんだよ…」
「男はな…突っ込みを待つ生き物なんだよ!」
「ごめん、僕、一度たりとも突込みを待った事が無いんだ」
「何だと! 突っ込みを待つ前に突っ込まれるなんて…!! 羨ましい環境じゃねぇか!」
「そんな環境無いよ。…はぁ…君はいつもこんな調子なのか?」
「基本的にはこうだな」
「前の所でも君みたいなのは居なかったよ…」
正一は呆れた返ったような声で言った。
「前って、お前、前にどっかに居たのかよ」
「ん…ここには最近転校してきたからな…。と言っても、この近くからだから転校って程のものじゃ無いけど」
「ふうん…ああ! お前が前に話題になっていた転校生か」
「多分」
「そうかそうか。…お前さ、今日このまま帰る?」
「うん。もう帰るよ」
「じゃあ途中まで一緒にいこーぜ!」
「いいのか…?」
意外そうに正一は燐太を見返した。まさかそう言われるとは思ってなかったらしい。
「だってよーどうせお互いもう帰るんだったら、一緒に行った方が良いだろうが」
燐太がそう言うと、正一は一瞬視線を落としてから応えた。今度は若干の笑みを浮かべている。
「………そうだな」
「んじゃまぁ行きますか! 転校祝いだ! ラーメンでも行く?」
「こんな暑いのにラーメンって…暑過ぎない…?」
「な~に言ってんだ! こういう時だからこそのラーメンだろ!」
「そうかなぁ…」
「ほら、急ぐ急ぐ! 正門もう閉まってるかなー?」
正一の肩を軽く叩き、燐太は小走りに正一の前に出た。正一もワンテンポ遅れて、燐太の後を追いかける。
「………あはは、待てよ!」
「おっ、それが素か? ついに心の壁が取っ払われたか?」
燐太は少し正一の物言いが砕けてきたのを感じた。
「どうだろうな?」
「そこは、うんって言っとけ!」
「検討しとく」
正一は眩しそうに目を細めながら笑った。
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ここ…だよね。
原色を多く使った店が多いのに、この書店だけは自然な色合いで眼に優しい。だからだろうか、余計に場違いな感じがした。まるでレンガ模様の壁をくり貫いたみたいだ。暗く冷たい通路は蝙蝠でも出そうである。飾り気の無い扉を開け中に入る。店の中は個人店らしく手狭で、必要最低限のスペースを取って、後は全て本で埋め尽くされている。
「スイマセン…どなたか――――…」
「あいよ」
藍子が呼ぶと店の奥からは中年の男性が厳しい顔つきで出てきた。岩の様な顔の人だと藍子は思った。男は顔の部品からしてゴツゴツしている。岩からそのまま切り出した様にも見える。そこまで考えてから、男性が無言で藍子の言葉を待っているのに彼女は気が付いた。慌てて鞄から一枚の紙を取り出す。それを男性は厳かに受け取ると店の奥へと引っ込んでいった。藍子は店内を見回す。店内はこじんまりとしているが、どうやら品揃えは悪くない。本のラインナップもマニアックなものが多い。
麻里から頼まれて来たけど、こんな所に書店があるなんて気が付かなかった。裏通りに書店があるなんて誰も思わないだろう。石動駅前の裏通りはいかがわしい店ばかりが立ち並び、まともな店など数える程しか無いのだと自分は認識していた。さっきも変なおじさんが声を掛けてきたので、急ぎ足でここまで来たのだ。不思議な事にここに来るまでにその不審なおじさんの姿は消えていた。世の中には変なおじさんという存在が居るというのを聞いた事はあったが、本当に居るとは思わなかった。ああいうのは夜に出ると思っていたのだが、そうでも無かったらしい。
全く間一髪という所だった。あのまま付き纏われていたらどんな事になっていたか…。だからこの辺りに来るのは気が進まない。自分がもし危ない目にあっても、助けに入る人間なんて指で数える程しか居ないだろう。しかも必ずしも助けてくれるという確証も持てない。どんなに声を枯らして叫んでも、届かない時はある。だから細心の注意を払わなければいけない。昔からお母さんに言われている。知らない人に付いて行ってはいけないと。基本だが大切だと思う。
それにしてもこんな苦労をしてまで代理で用事を済ませに来たのだ。麻理には何かしらの対価を求めようと、藍子は友人の顔を思い浮かべた。して、何故あの友人はこんな辺鄙な場所で本の注文をしようなどと考えたのだろうか。しかも一人で行ってくれと言うし…。特殊な本が手に入ると言っていたが…何の事やら。
「…お穣ちゃん…こいつだ…持ってけ」
男性は既に奥から出てきており、藍子に薄い紙袋を差し出していた。藍子はそれを受け取り、ぺこりと頭を下げる。
取っ付き難そうだった男性の顔が少し緩んだ気がした。男性はハードボイルドな声で藍子に言った。
「あの子も若いのに中々、やるねぇ…」
「え…?」
「さ…帰りな…あの子にもよろしく伝えといてくれや…」
と、男性は背中を向け、奥へ再び消えていった。一体何を注文したのだろうか? 気になる。
藍子は悪いと思いつつ、好奇心に負けその袋の中身を覗いた。
肌色がいっぱいだった。とにかくいっぱいだった。しかも見覚えのある方の。
……………………これは…。ああ…ああ…ああ…。なるほど…彼女のボディータッチが激しいのはそういう理由が…。これは問いただす必要がある…。私の貞操の危機も掛かっている気がする…。真意を問わねばなるまい…。一人で行くのは危険過ぎるから、灯ちゃんをお供に…燐太を盾に…よし。
再び湿り気のある階段を下りていく。この階段から店までずっと暗かったので、太陽が一層明るく感じた。早くこの辺りからは抜け出さないといけない。また変なのに付き纏われたら嫌だもの。
裏通りは夜からが賑わいを見せるので、今の時間帯、人は少ない。それでも暗さが漂っているというのはこの場所の磁場の様なものなのだろうか。良しかれ、悪かれこの土地でも様々な物語が堆積してこの空気を生み出しているのだろう。…ここは悪いのが大半を占めていそうだが…。
「………?」
藍子の眼に留まったのは蹲っている少女であった。顔は長い前髪に隠されていて分からない。自分の学校とは違う制服だ。確かあの制服は――――。
おせっかいだと思うが、道端に蹲っている人を放っておけない。藍子は声を掛けることにした。
「あなた、大丈夫? お腹痛いの?」
「あ…………」
その子は驚いた様に目線を上げた。眼が大きい子だ。
前髪に隠れてはっきりと見えないが、髪を結い上げればさぞかや見栄えするだろう。大きな黒目を大きく瞬かせ、困った様にこちらを見上げている。
「だ、大丈夫です…ご心配無く…」
「でも…蹲ってたじゃない」
まあ、いきなり知らない人間から声を掛けられたらこうなるか…。
「無理しなくても…――――」
ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ………。
自分が聞いた中で一番長いお腹の虫の鳴き声を聞いた。
女の子は私を見て恥ずかしそうに顔を背けた。これはつまりそういう事なのだろう。
「……お腹減ったの? それで…ここに…?」
「恥ずかしながら…」
ああ、こういうベタな人も世の中には居たのか。確かに自分の相方もバナナの皮で滑ったりするが。
「あはははっ!」
「笑わなくても良いじゃないですか…」
「笑っちゃうよ、これは。…そうだ、これあげる」
鞄の中から小腹が減った時用のクッキーバーを出した。チョコ味のだ。たまに燐太にせびられるので、一応多めに常備している。あいつは餌…食料を与えてやればコントロー…ごほん…誘導しやすい。
「……あ…」
彼女に眼を遣ると、もの凄い欲しそうな表情だったので早速あげる事にした。餌付けの様である。
「………………」
ただではあげない。長方形の袋を摘んだまま右に動かす。それに釣られて、女の子の眼と手が宙を仰ぐ。
「ああっ…!」
今度は左に。
「ううぅ…!」
右。
「…いじわるしないでよぅ…」
左。
「ああー…もう…」
右、左、右、左――――…。…楽しくなってきた。
「あのっ…! はぁはぁはぁはぁ…もう勘弁してくれませんか…」
気付いた時には女の子は虫の息だった。流石に可哀想だと思ったので仕方がな――――とにかくあげた。
「ありがとう! あぐ…うぐ…!!」
喉に詰まった様なので、背中を叩いてあげた。小さい背中が二、三度揺れた。
「あ~あ…急いで食べるから…」
「い、いや…ゴホッ…問題無いですから…。…あ…あのう…」
「ん? 何…?」
彼女は遠慮がちに小さい言葉を吐いた。何を言っているか分からなかったけれど、何となく察した私は鞄から再び違う味のクッキーバーを引っ張り出した。今度はブルーベリー味。
「…欲しい?」
「欲しい!」
目の前までそれを持っていってやる。彼女はそれをぱっと掴もうとする。しかし寸前で私は手を引っ込めて彼女の手をかわした。彼女は悔しそうな眼でこちらを睨んでくる。
ああ…これ凄い面白い。さぁもう一度…。
「ほーら…ほーら…」
「藍子…お前…何やってんだよ…」
!?。
「え……何で燐太が居るのよ…! しかも秋庭君まで…」
「隙ありィィィィ!!」
しまった! 取られた!。
少女は一瞬動きが止まった藍子の手から、クッキーバーの袋を掻っ攫った。その拍子に受け取った紙袋が落ちてしまった。だが、彼女はそれよりも奪われたクッキーバーの方に気を取られていた。
「何でも…なぁ…正一…」
「柳葉さん…君…」
考えろ…柳葉藍子…! どう言い訳する…! まだ…そんなに取り返しの付かない事態には陥っていない…。単にじゃれていたで済む――――。
「…ぬ? これは何――――…………ぐほッっ…!!」
………済まなかった…。
燐太は噴出しながら地面へとひっくり返った。それは藍子が落とした紙袋の中身が原因である。
「燐太!? どうした!?」
「し…しまった…!!」
燐太は直ぐに立ち上がったが、黙ったまま一言も発せず、地面と睨めっこを始めた。
暫くして気が済んだのか、藍子の方をチラリと見て、悲しそうな声を出した。
「俺…お前がどんな方向に行ったとしても応援するぜ! なるほどなるほど…藍子はそっちか…昔から男勝りだとは思っていたけど…まさかなぁ…」
「ちっ…違うからッ!! あなたも何か言ってよ!」
少女に藍子は弁解を求めたが、少女は先程奪い取った獲物に夢中で藍子の言葉など聞いていない。
「美味しい~」
「そういう意味じゃなくて!」
「正一行こうぜ…これ以上、二人のいちゃこらタイムを邪魔しちゃいけない…気を取り直してラーメンだッ…! ぐすっ…」
「いちゃこらタイム!?」
「燐太…。そうだな…今日は僕が奢ろう…嫌な事は忘れようじゃないか…ッ」
サンタクロースを十台半ばまで信じていたにも関わらず、友達の「サンタクロース? いないにきまってんじゃん」という一言により、夢を粉々に粉砕された少女に近い顔の燐太の肩に、正一が優しく手を置いた。その光景は二十年来の年季の入った友情を思い起こさせる。
「秋庭君!? 違うからね!?」
「さぁッ塩か醤油か豚骨かッ! はたまた味噌か好きなのを選ぶといい…!」
「あぁ…いつもなら豚骨だけど…心情的には塩かな…青春ってしょっぱいぜ…」
「そうか…しょっぱいか…」
「なぁ…女の子同士ってどう思う?」
「えっ、…ま、まぁ……その何だ……」
「俺…その真っ只中に飛び込むのが夢だったけど…諦めるわ…」
「ああッっもう! 燐太ぁ! 喰らえ!」
藍子は燐太に飛び付き、後ろから左腕前腕を彼の首に押し当て、その手首を肘の内側できっちりと締め上げた。燐太は真っ青な顔で苦しそうに彼女の腕の中でもがいたが、抜け出す事は叶わなかった。
「うぐぅぅぅ~~~ギブッ! ギブッ!」
「ええ? 何だって? 聞こえないのよ」
「…綺麗に決まってるなー…」
「はなして…くださいませぇ…藍子殿…」
「仕方ない」
「ふぅ~ふぅ~…死ぬかと…思った…」
「で? 燐太? 少しは冷静になったかしら?」
「なりました! なりましたよ!? 燐太君は聞き分けが良いでございますわよ!? だからその殺意の秘められた目付きは収めてくださる!?」
「…わぁ…これが長年の信頼関係なんだね…」
「そうよ。秋庭君。…そういえば…さっきラーメンがどうとか言っていたわね…丁度良いわ。私達も連れて行って貰おうかしら? ね? そこの――――…」
藍子は名前をまだ聞いてなかった事を忘れていた。
既に藍子から奪い去った獲物を平らげていた少女は、我に返った様に藍子と燐太のやり取りを不安そうに眺めていたが、藍子に言葉を振られ、戸惑いつつそれに応じた。
「…あーっと…ごめんなさい…わたしは伊織理沙です…」
「じゃあ、伊織さん。ここで会ったのも縁だし、こいつが奢ってくれるから一緒に行かない? 遠慮はしなくていいよ」
「ちょ、ちょい待ち…俺?」
「あ、」
「あ?」
「ありがたい! 喜んでご馳走になるです!」
うわーすっごい嬉しそう…。
理沙の喜びに溢れた純真無垢な瞳に見つめられ、燐太は後に引けなくなった。
「し…仕方ないな…うん…」
「じゃあ私も」
「お前も!?」
「悪いな。僕は醤油で」
「…さっきまで『僕が奢る』とか言ってなかった?」
「言ったかな? 最近は忘れっぽくてね。覚えていないよ」
「すがすがしい程に手のひら返しやがったな!」
正一のすっ呆けた表情に、燐太が歯を剥いて抗議した。
ふぅ………どうにか話題を逸らせたわね…燐太め…後でどうしてくれようか…。私の気持ちも知らないで…。そうだ…必殺の卵焼きを一日中作り続けて、口に突っ込み続けてやろうか。そうしよう。
「おい、藍子。お前…何、修羅みたいな顔してんだよ…お前が行くっつったんだろ! あいつら先に行っちまってるぞ…ほら!」
「あ…ちょっと!」
燐太にいきなり手を掴まれて吃驚してしまった。自分のとは違う、大きく力強い手が私の手を引っ張っていく。
そうされていると、昔の事を思い出した。彼と私が小学生の時の事。
私はある時足を捻った。近所の林だったと思う。
痛くて、動けなくて、一緒に遊んでいた友達も先に行ってしまって――――。
その林は一面が木で覆われていて、私を飲み込もうとしている様に私には見えた。
当時の私の狭く小さい私の世界では、ちょっとした範囲の林でさえ、暗い大きな森に見えたのだ。
伸び立つ木々が私を睨んでいる気さえして、ついには泣き出してしまった。
今の私にとっては大した事じゃなかったけど、その時の私にとっては一大事だった。
助けて欲しい。だから、泣いた。足首は火の点いた様な痛みで、それが更に恐怖感を煽った。
そんな泣きじゃくる私の手を、ぶっきらぼうな手が掴んだ。
――――藍子! 馬鹿だなぁ! ほら、しっかり捕まってろよ!。
――――えっっぐ…う゛…う…ん゛……。
――――手ェ引いてやるから…ゆっくりな。
――――………………………。
――――……どうした…?。
――――お、お゛ん…ぶ…。
――――おんぶ…? おんぶか! よし、乗れ!。
彼は小さい背中を差し出した。あの時は私の方が背が大きかったので、私は彼を押し潰してしまった。 それでも彼は懸命に私を背負おうとしてくれた。それが嬉しかった。
――――おんどりゃぁぁぁぁ!! ファイトォォォォ! 俺!。
――――ごめん…も…もういいから…。
その後、彼から下りた私は再び彼の手に引かれ、林を抜けた。
あの時と同じ様に私は手を引かれている。
前を行く彼の背は、とっくに私の背など追い越していて、それが嬉しい様な、悲しい様な。
今だったら――――。またあの時みたいに足を挫いたりしたら、彼は私を背負ってくれるだろうか。
「ねえ、燐太。おんぶして」
「気でも狂ったか」
「言ってみただけよ。…それでもいつか…いつでも良いからしてくれる?」
「…まぁしてやらない事もねェけどさ…どうしたんだよ、いきなり…」
「して――――くれるの?」
彼の顔をじっと見つめる。彼は、訳が分からない様な戸惑った表情で私を見返してくる。
「あ…ああ! お前の一人や二人、三人や四人! まとめて背負ってやるよ!」
「…っし…ししししししししし!!」
「うおっ! 気持ちの悪い笑い声!」
私は手を繋いだまま、彼の前に出る。そうして彼の手を引いて歩いていく。
「お前っ! 早えーよ! もうちょいゆっくり歩けよな!」
「そう?」
こいつは昔から変わらない。馬鹿だけど、私の手をいつも引いてくれる。
………そろそろ、私に対しては変わって欲しいけど…。
いつから新キャラが活躍すると錯覚していた!。
(その内します)
次回はまたガラさんと葎の女子会が(以下ry
うおおおお! おまけだおまけだ! やってやんぜ!。
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「新発見…!? シチューラーメン…!」
ずるずるとやけに重たい音を発しながら、燐太は麺中太の麺を啜った。彼が麺を救い上げている丼の中には白濁としていて、とろみが嫌と言う程感じられる液体で満ちている。中には北極海で浮かんでいる流氷の様にジャガイモや人参が圧倒的存在感を主張していた。燐太はスープが絡みつく重量のある麺に苦戦しながらも、何とか食べ進めている。そんな彼を両隣に座る柳葉藍子と秋庭正一はどんよりとした眼で眺めた。
「ねぇ、燐太…これ…」
「んが?」
口元を白く汚している燐太に藍子は紙ナプキンを差し出した。しかし、彼女の眼は自分の前の赤みがかった茶色のスープと、その中の汁が絡みつく様に考えられたのか、やけに太い縮れ麺に向いていた。
茶褐色のスープからは、タマネギを炒めた時の香りと、じっくり煮込まれたであろうフォンドボーとデミグラスソースの香りが立ち昇っている。冬なら食欲を増進させるこってりとした香りは、彼女の満腹中枢に早くも白旗を揚げさせていた。
「ビーフシチューとラーメンで別にしようって発想は無かったの…?」
「さあ~? 食ってみりゃ分かると思うぜ。何だよ、正一も全然食って無いじゃんか」
「…僕が頼んだの…味噌ラーメンなんけど…」
「味噌だろ?」
「ハハハー…味噌…ね…間違ってはいないかな…」
箸を持ったまま動かない正一の前にあったラーメンは確かに味噌ラーメンであった。
豆腐とワカメと油揚げが入り、出汁の匂いを漂わせていなければ何にも変わった所の無い味噌ラーメンである。
「お前等、食わず嫌いはいけないんだぞ! 見ろよ! 伊織なんかとっくにに平らげてんぞ!」
そう言って、燐太は彼の方を向いている正一の向こう側を指した。
正一の隣では理沙が二杯目となっているロールキャベツラーメンなるもののスープを、ごくごく飲み干しかけていた。ぷはあと息を吐き、コンソメスープで口を汚した彼女は袖でそれを拭った。
燐太は何ら疑問視していないが、彼女の小柄な体の何処にこの量ラーメンを消化する器官が備わっているのか。それが正一と藍子の共通した謎である。
「さあさあ食え食え!!」
「そ、それじゃあ…」
「そ…そうね…」
正一と藍子の二人は同時に麺を啜った。
『!!?』
彼等は――――。
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「――――じゃあなー! 夏休み中にちゃんとメールすっからなー!」
「ああ、期待はせずに待つよ。それじゃ、柳葉さんも」
「うん、また。理沙さんもね。今度は行き倒れない様にしてね」
「しないよお! じゃ、じゃあね、柳葉…さんッ!」
燐太と柳葉さんは過ぎ去って行く。日が落ちかけ、少しだけ涼しくなった空気の中で僕は彼等の後ろ姿を見送った。しかし…隣の彼女は何故、まだ居るのだろうか…。
お互い、初対面同士、こうして一緒に居るのも何だか妙だ…嫌では無いのだが、何処と無く腹の座りが悪い…。それは彼女も一緒なのか、さり気なく眼を遣ると、逸らされた。当然と言えば当然か…。
「…あのー」
「……? 僕?」
「う、うん、その僕…。あ…びば?」
「秋庭…秋庭正一だよ…。えーっと…伊織さん」
「い、伊織で大丈夫…。お…同学年でしょ…? はい…一応…いや…一応じゃないけど…一応…ああ…そうじゃないんだけど…とにかくっ…はい…」
携帯電話を差し出された。…どういう意味だ? 電話をしろという事か…? ううん…分からない…考えろ…さっきの会話から意味を読み取るしかない…。同学年…。伊織で大丈夫…。何かの暗号か…。
「け、携帯…」
携帯?。
訳も分からずとりあえず、自分の携帯電話を取り出す。
「い…や? 嫌なら…止めとく…ご、ごめんね…」
「もしかして――――アドレス?」
「そうだけど…迷惑だった…?」
「………ああー。ううん! いや違う。そういう意味じゃない! あ…えっと…」
勘違いをしていた様だ…。携帯電話を仕舞いかけている彼女に自分の携帯を差し出す。
「はい」
「…あ、じゃ…じゃあ…」
送受信を交互にして、名前を登録した。あまりというか、こういう経験は無かったので、驚いたと言えば驚いた。伊織さんははにかんだ。前髪で隠れて表情は上手く掴めないが、おそらく笑ったのだと思う。
「わっ! わたしって…あんまり…その…あれだから…とも…あの…」
どれなのだろう…。
「ま、また…会えると良いね…」
「……そうだな。燐太に嫌でも呼ばれると思うよ。僕…あいつと、会ったばかりだけど、あんなにグイグイ来る奴は今までに居なかったからね。だから、お互い呼ばれたら――――その時は宜しく」
「う、うん…!」
彼女はそれだけ言うと逃げる様に人ごみに消えていった。
途中、一度振り返ってこちらにぺこりと頭を下げたのだが、その時に丁度風が凪いで、彼女の髪が靡いた。隠れていた顔がその拍子にはっきりと見えた。おどおどしつつも綺麗な眼だった。
…もっと顔出せば良いのに。ほんの少しだけそう思う。
…僕も帰るか…早く――――…。
………帰ろう。
自分に不釣合いな青臭い残り香のするその場所から、僕は背を向けた。




