邂逅キャンバス
急に暑くなりましたねぇ…
昼は暑いですけど、夏の夜の空気や風は風流でかなり好きです。
と…いう訳で…五話目スタートッ!
―――――……栖小埜君? 私だけど…夜分遅くにごめんね。昨日のあれの事なんだけど――――
「栖小埜さん! どうし―――――」
留守電を聞いた途端、俺は玄関を飛び出していた。起きてはならない事が起きた気がして―――それは多分、虫の知らせというものだったのだろう。
「はぁっっ…はぁ…ガラっ! 暗くて道が分かんねぇっ! 案内、頼む!」
――ああ…!――
寧さんの静止の声も構わず、必死で走った。昼よりは少し気温が下がっていたものの、蒸し暑さの残留する夜の空気を掻き分け、彼女の言っていた場所へと。
普段と何ら変わり映えの無い夜の筈なのに、その暗さがとても重く感じた。後の成り行きの暗示だったのだろうか。いつも以上に暗闇が濃かった。濃密で、鈍く、黒く、行く手を阻む様で。
あの時の予感は的を得ていたのかもしれない。実際、予感は的中したのだから。
「はぁ…はぁ…はぁ…ガラ! こっちで大丈夫か!」
交通機関を使う事も頭に浮かばなかった。ガラと代わって走る事も、自転車もあったのに、俺は自分の足で向かっていた。そこまで、頭が回らなかったのだ。とにかく、嫌な――――気持ちの悪い予感だけが思考の大半を占めていた。
―――――また見ていたんだよ…
――こっちで合ってる……葎…少し落ち着け…!――
「はっ…はッ…嫌な…はぁ…予感が…はぁ…するんだ…」
―――――でね…今日、君達が帰った後にまた、その視線を感じてね…
もっと、早く駆けつけていれば、早く電話に気が付いていれば、結果は変わったのだろうか。それとも最初の時に二人で追うべきだったのか、どれが正しかったのか今でも分からない。
あの視線の持ち主を追いかけた彼女がどんな顛末を迎えたか、この時の事を俺は酷く後悔している。
「っはぁ…はぁ…はぁ…着いた……………居ない…じゃ……」
―――――これから、ちょっと後を付けてみようかと思っているんだ…
――葎…あれを見ろ…――
―――――ははっ…大丈夫、安心してよ…彼も一緒だから……
そうだ、あの人が一緒に居るのだ。なんの心配もする必要なんて無い。
その言葉を言い聞かせるように自分の脳内で反芻していた。
「……! あ―――――…あ…う…そ…だ…」
それを見つけてから、俺は言葉を失った。
いや、言葉は出そうとしたのか、それでも、嗚咽の声すら出なかった。
―――――まぁ…一応、あれが逃げていった場所を言っておくよ…場所は――――――――
有ってはならない物が有って、在るべきものが無い。
暗がりでもそれは直ぐ分かった。落ちている筈がない。そうに決まってる。
彼女はあんなに大切にしてた物だ。それがこんな所に落ちてる訳がない。これを置き忘れるなんて事は絶対に在り得ない。
水で薄めた炭の様な空気の中、そこに彼女の姿は無く。あのヘアピンだけが色を真っ赤に染め、落ちていた。
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「すーーー…すーーーー…にゃ………すーーーー」
心地良さそうな寝顔だ。女性の部屋に無断で入るのは倫理観に欠けるが、扉が半開きなので、思わず入ってしまった。今回は一つやって見たい事があるのだ。突発な思いつきなのだが―――
「寧さん…悪いな…!」
葎は気持ち良さそうに寝ている橋間寧の鼻を優しく摘んだ。
「すーーー…んぐ…!?」
この様な理解不能な行動を彼がとるかというと、昨日深夜までやっていたゲームで負けた腹いせだ。
子供染みている理由だと、思われるだろうが七日間連続で尚且つ、始まった瞬間からフルコンボで反撃の隙も与えず、一瞬の内に体力ゲージをゼロにするという、通称、「友達無くすコンボ」を惜しげもなく彼女は毎回使う。負けた方がコンビニでジュースやらを買ってくるという制約付きで。
……えげつない。何とえげつない事か。非人道的にも程がある。
だから、せめて寝てる間に悪戯しておく。起きる可能性も無くはないが、彼女は起きた直後はかなり、ボーっとしてるので、とぼけて置けば問題無い…多分!
「んぐーーー…!」
流石に可愛そうになってきたので止めて置くか…。まぁ…天誅だとでも思ってくれ。
改めて寝顔を見てみる。お世辞では無く、可愛らしい顔だ。「友達無くすコンボ」や「壮絶なありがたいお話」をしなければの話だが。重要な事なので二回言った方が良いのだろうか? 前者については若干の殺意が湧いた。もしかしたら若干は超えてるかも。
まじまじと葎は寧の寝顔を見てみる。
……もてんだろうなぁ…この人…。
羨ましいのかもしれない。自分はそういうのには縁遠いからだ。
女性に嫉妬するのもどうかと思うが…
………………まさか…! いや! 俺にそっちの気は無い…! 断じて!
「…んぬ?」
葎が一人で悶絶してると、寧の顔の横にあの仮面があるのが見えた。
「………………………」
「すーーー…ま…すうーーー…い…すーーーまい…」
幸せそうな顔……今日は休みだし―――ゆっくり休んでくれ。寧さん。
朝食は作って置いたし…さて行くか…。
――葎よ――
「何? ガラ?」
――君…最近私に性格が似てきてるな――
「………………………ううっそだだだだだ…」
――やったね!――
次回からは自重しよう…。
そんな事を思いながら、寧の部屋の扉を葎はうるさくないようにそっと閉めた。
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「――――そう。この古雫楼花という女性」
「天儀屋」のレジカウンターに座った店長の不儀真は、何故か手鏡を持ちながらそう言った。
「その人も…」
栖小埜葎は興味有りげに、眼を見開いた。
何せ、今度のは自分とは無関係どころか、関係が大有りなのだ。
今日は店を閉めている。臨時休業が多い店であるが、今回はこの女性が大きな理由らしい。
店内には葎と真の二人しか居ない。もう一人の従業員、橋間寧は今日は休みだ。
彼女は事情を知らない訳ではないのだが、真の配慮により休暇となっている。
「二重存在を持っているよ。だから、俺じゃなくて君の方に依頼が来たんだ」
自分と同じ二重存在持ち…悪い奴じゃなければ良いんだけど…
興味がある反面、少し心配にもなる。今まで葎は五人の二重存在とその持ち主と出会っている。
一人目は、自らの元の人格の身を守る為、その為には手段を選ばず暴れ回った二重存在、アリカ。
そしてその持ち主の南屋灯。人の良い、困った人を見捨てておけない少女だ。
二人目はその名の通り、元の人格の足となった二重存在、アシ。
時代劇の義賊のような喋り方の二重存在である。葎は話した事が殆ど無い。
彼を足に宿している一度は足を失った少年、風早燐太。
暴走気味に妄想を始めたりするが、根が正直な奴だと葎は思っている。彼は灯と共に葎の友人でもある。
三人目、これが問題だ。女装の殺人鬼でもあり、死体の収集者、姥季淡慈。
これは元の人格の名前の様なので、二重存在に名前があるのかは分からない。彼と彼の中の彼女は非常に危険だった。燐太の幼馴染、柳葉藍子を殺そうとし、助けに入った燐太も危険な目に遭った。現在は消息不明となっている。
そして四人目、葎の二重存在でもあるガラ。
葎の二重存在であるにも関わらず、謎が多過ぎる。思わせぶりな発言ばかりして、葎に小言を言うのが日課である。彼は同じ二重存在の中でも飛びぬけて強い。常に飄々とした態度を崩さず、鰻のように人の言葉をすり抜ける。何を考えているか分からないの一言に尽きる。
最後に、詳細不明のヒーローという二重存在。この間突然現れ、場をかき回して帰っていった迷惑極まりない二重存在。いずれどこかで会うかもしれないが、葎のみならず、ガラも会いたくないと思っている。
「それで―――どんな人で?」
「ああ、彼女は―――う~ん…そうだなぁ…写真を見て貰った方が分かり易いだろうな…」
真はレジの引き出しから封筒を取り出すと、一枚の写真を中から引き出し、葎に見せた。
写真には二十台後半の髪を後ろで束ねている女性が写っている。二十台後半と言っても、見様によってはもっと若く見える。真と同じ感じの空気と言ったらいいだろうか。とにかくそんな感じである。
んんー…この人見た事ある気がするぞ…? 何だっけ…? 身近な人じゃないけど…でも見た様な…
写真の女性に葎は見覚えがあった。ぼんやりとだが、顔に覚えがある。近しい人物で無い事は確かなのだが。
思い出そうと、宙に視線をやっている葎に真は写真の人物の事を説明し始めた。
「この、古雫楼花という女性はね、近年その名前を国内、海外問わず評価されている女流画家だ。
メディアへの露出も少なくはないから、葎君も見た事があるかも知れないね。…知ってるかい?」
ああ、そう言われたらそうかも知れない。
曖昧な記憶の中に彼女の顔が見つかる。あれは朝のニュース番組の特集か何かだったと思う。
葎は芸術関係はさっぱりなのだが、その番組内の彼女の作品はやけに印象に残っている。
それは一枚の人物画だった。多分モデルは彼女自身だと思う。年齢は違えど、持ち合わせている利発さが、画面上の彼女と似ていて、何とも奇妙なタッチで写実的ではないものの、哀愁漂う画風に見えた。まるで彼女自身の半生、過去が絵の具と共に塗り込められてる、そういう絵だった。
テレビで見た時はそんな風には考えたりもしなかったのだが、思い出してみるとそんな感じだ。
「一度、見た事がありますね」
「うん、そうか。でね、本題なんだが、彼女が二重存在を持っている事は極最近分かった事なんだ。だから、彼女ついては情報不足でね…今の所分かっているのは、どうやら彼女は普通の二重存在の能力に加え、人の過去が見えるらしい」
「人の過去が見える? それって記憶を見られるとかですか?」
「どうなんだろうね…JRPCも二重存在については全く理解が進んでいないからな…君のガラ君だって、普通の二重存在とは戦闘能力が一線を駕しているし。俺の見える範囲じゃあ、魂の質まで――――」
「おっと、真…私は至って普通~の極々平凡な二重存在だぞ?」
何時入れ替わったのか、ガラが出て来ていた。
――勝手に出てくんな! ガラ!――
「うむ。私が特別な所と言ったら、紳士である事かな」
――知らんし!――
「何だ、葎…そんなに私への理解を深めたいか…! やっと相棒としての自覚をっ!」
――そんなもん無ぇよ。さっき山に捨ててきた――
真は恒例のガラと葎の言い合いを見て困ったように笑った。
「ははは…そのままでもいいよ。ちゃんと聞いてくれれば…――――で、戻るけど、彼女はとにかく情報が少な過ぎる。今はJRPCの追加の情報待ちなんだ。だから、接触する時はくれぐれも気を付けて貰いたい。危なくなったら、姥季淡慈の時みたいに、一人で対処しようとしないで、俺を必ず呼ぶ事…いいね?」
う…まぁ…そうなるよな…。
でも、真さんだって、この前の俄面の時――――やっぱやめよ…後が怖い…。
基本的に真と葎は良好な関係なのだ。年の違う友人だと、真は知らないが、葎は思っている。
だから、空鉦の様に下手な反論をして返り討ちに遭うのを葎は危惧している。
返り討ちに遭いながらも懲りずに真をからかおうとする空鉦が、本当は苛められて喜ぶ、被虐体質なのではないのかと、葎が最近疑っている事は秘密だ。
「いいね?」
「は…はい」
真に脅されるような形になりながら、葎は頷いた。
「あの~真さん? さっきから持ってるその鏡…何ですか…?」
「ん、これは魂を吸い込むっていう手鏡だ。あ、問題無い。呪われそうになったら呪いごと壊すから」
んーーー…とりあえず…呪いって壊すもんなのかな? その前に…何でそんな物があんのかな?
俺が慕ってるこの人物は、意外に危ない人なのかもしれない…。
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暑い…暑い…蒸し暑い…
今年の夏はそんなに暑くならないかと高を括っていたのだが、例年通り、気温は急激に上昇を始めた。地球温暖化だの、いや、氷河期だの言ってる暇があるなら、この滲み出るような暑さをどうにかして欲しいものだ。着ている半袖の服の下からはもう汗が染みている。行く前に水を飲みすぎたせいかも知れない。梅雨が長かったからか、蝉の声が聞こえない。去年辺りは、煩かった覚えがある。
家に居ようが、どこに居ようが即興のスピーカーの如く壁に張り付き、鳴き声を奏でるあれを見なくて済むのだから、少しはこの暑さも――――
「安らがないよ…」
全く、僥倖などではなかった。
――いやぁ、快適、快適――
「おい外道」
――はて? 誰だね? 外道とは――
減らず口とは言ったものだが、ガラの場合増えてる気がする。せめて、留めておくだけでやめて欲しい。こちらの暑さなど知らずに快適精神世界ライフでも楽しんでいるのだろう。
春の時もこんなやりとりがあった気がする。
そういえば、あちらでは水なども出せるのだろうか? それならば今度、引き摺られ、あの白い庭に行った時にプールを作ってみたい。自分だけのプール。日頃の行いからして、少しは贅沢しても罰は当たらない筈だ。
――多分、こっちで水遊びをしたいと思ってるんだろうが、駄目だよ。花に水のやり過ぎは禁物だ――
パチャパチャ…
…ん? 水の音がするんだけど?
――ふぅ…涼しいね――
パシャーン…
安易に「死ね」という言葉を使うのは、モラルに欠けるし、人を傷つけてしまうかも知れないので、あまり使わないようにと努めているが―――――死ねばいいと思う。っていうかくたばれ。
花関係無いし、水の音するし、どう考えても遊んでるし。
っていうか…どんな格好で遊んでんだろ…? まさかそのまんま?
びしょびしょに濡れ、水を吸い変色した紳士服を思い浮かべる。見た目だけで重そうだ。
小学校の時の防災授業か何かで服を着たままプールに入るというのがあった。感想としては、気持ち悪くて、生暖かく、そしてとんでもなく重かった。あれでは水の上で事故にあった人がそのまま溺れるのも頷ける。
そりゃぁ……ないな…じゃあ水着?
男物の水着を着ているガラを想像してみる。その頭の上には普段彼が見に付けているシルクハットがちょこんと乗っている。どう考えても怪しい人そのものだ。こんな格好では白黒の制服の人達に捕まる。
いやいや…! 似合わないにも程がある…それにこれじゃ、違う意味で紳士じゃんか…! 警察にお世話になる方の…!
何で自分は野郎の水着姿など想像してるのだろう? そう考えた葎は、すごく死にたくなった。
はぁ~…今度、寧さんとか風早誘ってプール行こう…。
――ところで、アトリエと言っていたな――
「ああ、そうだよ。古雫さんはそのアトリエ兼、住宅に住んでんだって。最近引っ越してきたらしいから、俺と同じで土地勘とか無いんだろうな」
石動駅から一駅、鼎という所に彼女は住んでいる。
駅からは遠く、森林が生い茂り、住宅地とも違う様相を呈している土地にログハウスの様な建物がポツリと立っている。そこが件の人物、古雫楼花のアトリエだ。
一体どんな人物なのか、JRPCの依頼ある無しに関わらず興味がある。
あの絵を描いた人―――どんな人だろうか。
…そういえば、たまにあるJRPCの依頼の謝礼金が本業に比類しつつある気がする。
JRPCは基本的に慈善事業に極めて近いが、依頼をした先方が謝礼をくれるというならば断りはしない。丸々じゃ無いが、諸経費を差っ引いた後、葎にも多少は渡る。
嬉しいけど…んんん…方向性が間違えてる様な…本業が…考えたら泥沼になりそう…
「キャンプ場の小屋が広くなったみたいなのだな、これ…」
――ほう…良い趣向だ――
緑に埋まっている小屋は、葎にはおとぎ話に出てくる魔女の家にも見える。角材を組み合わされ作られたその建築物は、どこか異国情緒を漂わせ、話の中に迷い込んでしまったかの様な錯覚を覚える。霧が出て、老婆の高笑いが聞こえたら、もう完璧だ。
玄関口の横にはこれまた童話の様な緑色のポストが立っている。錆びれてないので、最近の物だろう。インターホンもしっかり新しいのが設置され、幻惑的光景に生活感を与えている。
玄関ドアに一枚の張り紙が貼ってある事に葎は気付いた。楼花が書いた物らしく、実に達筆だ。
「んー? えっと…現在留守にしてます…? 御用の方は市営の自然公園に居ると思いますのでそちらに…仕事関係は忙しいので、後にしてください? …だってさ」
――居ないのだね…張り紙なんて変わってるね…――
お前が言うのはどうかと思うのだが…。でも、こんな所に住んでるし…変わってる人なのかも…。
市営の自然公園といったら、近くだ。ここから五分も掛からないと思う。此処から伸びる林道を左に行けば直ぐ着く。ここへは勿論来た事など無いが、公園の方へは一度足を運んだから分かる。
注意しなくてはいけないのが、林道を真っ直ぐ行った先が急な坂になっており、ぼんやり歩いてると足を踏み外すと公共の案内図の注意書きにあった。多分そんな事はありえないだろうが、一応気に留めて置く事に葎はしておいた。人間何があるか分からないものだ。留意して得はすれど、損はしないだろう。
歩きながら空を見上げてみる。雲一つ無い空だ。そう言うと、スッキリとした空を思い浮かべるが、既にスッキリなど通り越していて、ギラギラという擬音がふさわしい。勿忘草色の空は太陽の白熱灯のような輝きで塗りつぶされている。それを木々の葉が和らげてくれているので助かる。木陰の間を通る風が生ぬるい汗を冷やしてくれる。それがとても心地良い。
まぁつまり、太陽が頑張りすぎて馬鹿みたいに眩しいけど木陰があってラッキー、風超涼しい、という事である。
――葎…前…――
こうも涼しいと気持ちの良さから、逆に頭が鈍ってしまう。
――おーい――
そう…おーい、だ。…おーいって何だっけ…?
――落ちるぞ――
そう、落ちるぞ…………はて? 落ちるぞ? ………………あ…。
ガックン…という衝撃と同時に足場が無くなった。顎までにその衝撃が伝わる。
気が付いた時にはもう遅く、葎は角度のある自然の坂を足の方から勢い良く滑って行った。
「ぬぼぁぁぁぁぁああああぁぁぁ!!!」
――あ~あ…――
少年時代の青臭い痛みを思い出す、泣く事は無いが、少し胸を打った様で苦しい。
雑草が多く、それが落ちた勢いを減らしてくれたみたいだった。
こんな時なのにここまで平静で余裕を保っていられるのは、子供の時から年月を重ねたせいもあるのだろう。前にもこんな事があったな、という経験があるからこそ、初めて振り返る事が出来る。経験値があるから、どうなるかまで分かる。小さい頃、こういう時に泣いてしまったのは、多分痛いというよりも先行して、驚きが強かったからかも知れない。同じ事を繰り返す内に、そうした驚きも慣れてしまった。こういう風にぐだぐだと考えられるのが何よりの証拠だろう。
「いって…」
手のひらを少し擦った以外は大して怪我はしてない様だ。もしかしたら服の下に傷が出来てる可能性があるかも知れないが、出来ていたとしてもそんなにひどいものじゃない。
――犬も歩けば棒に当たる。葎も歩けば転げ落ちる…うん…! いい出来だ――
神様は俺に恨みがあるからこんな奴を押し付けたんだと思う。それか先祖が偉い人、もしくはお坊さんを殺したのかも。坊さんの方だとしたら、きっと逆恨みである。
うー…手がヒリヒリする…洗いたいなぁ…
「水道…どっかに無いかな…」
葎は付近を見渡して、トイレか水飲み場が無いか探した。見た所、この辺には無い。
ある場所まで歩いて行くしか無いか…
「君、大丈夫か?」
ぬむ…? 誰だ?
葎は声に反応して横を見た。落ちたショックで眼に入らなかったらしく、直ぐ近くに書きかけのキャンバスとイーゼルがあるのにも彼は、今気付いた。
良く、例えで夢の様だとか、幻の様だという言葉を使うが、その瞬間、俺の眼に映った情景は正にそれに近い。特段嬉しかった訳でも無く、本当に幻みたいで、丁度、漫画や小説の登場人物が現れた―――そんな感覚。持っている写真から抜け出したのだろうか。それとも記憶が形を成したのか。
「いきなり落ちてくるんだ…驚いたよ」
真と同じ年齢が判別出来ない顔立ち。総髪―――髪を後ろで束ねているポニーテルともいう髪型。前髪は木の葉を模したヘアピンで左右に分けている。それに淡黄色のシャツに紺青のブーツカットジーンズ。
腰には白い上着を腰に巻いていた。
「立てるか? はい」
片手で楕円のパレットと筆を持ち、もう片方で葎へと手を差し出してくる。
見た目にそぐわず、口調は男性調だ。
「あ…え――――ありがとう?」
木漏れ日が一段と強さを増し、その姿を照明ライトの様に照らし出す。
葎は劇場の舞台の上に居る気分になっていた。彼の前に居る人物が主役ならば、彼は間違えて舞台上に登ってしまった観客である。主役たるその人物は、舞台に紛れ込んでしまった葎と違い、とても良くその空間に馴染んでいる。
「気を付けなよ? 夏はどうしても熱に中てられてしまうからね」
「もしかして…」
「あぁ―――私に用があったのかな?」
自分に用事があるのだと、自然のスポットライトを浴びている主役は判断したらしい。
「そうです…けど…」
「なら、宜しくだね。んー…? 少年?」
「少年って年じゃ……あ! 俺は栖小埜葎って言います…」
その人物は、葎を見透かす様な視線で見てから口を開いた。
普通の男ならドキリとする目付きだ。それはその人物から発せられる全体的雰囲気に裏打ちされている。葎も心臓が高鳴った。しかし、彼は朴念仁でもあるので邪な思いは持ち合わせない。というか、薔薇色の青春はほぼ諦めてるのに近いから、持とうともしない。
その鼓動の理由は下心から来るものではなく、もっと違う理由から来ていた。視られている。外的視線ではなく、もっと内面的な視線で彼女は葎を視ている。ある筈の壁が無くなった様だ。いや、本当は在るのだ。透視されているだけで。嫌な感覚では無いが、不気味ではある。これがもしかしたら記憶を見られるというものなのか。
「どうやら君も――――自分の中に同居人が居る様だね――――」
写真から抜け出した人物、葎がテレビで見た顔。
過去が見えるという女性――――古雫楼花が微笑んでいる。
それが、彼女との最初の邂逅だった。
五話目は比較的、真面目な感じにやろうと…ん? 真面目じゃ無い?
…………き…気のせいじゃないかな…?




