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8/23

 翌朝は快晴だった。どことなく良い気分で私は坂道をのぼる。

 厨房へ続くドアを開けると、パンの甘い香りとともに、祥子さんの笑顔が見えた。

「おはよう、志乃ちゃん」

「おはようございます」

 祥子さんは元気そうにふるまっていたけど、なんとなく顔色が悪かった。

「おい、寝ててもいいんだぞ? 志乃ちゃんがいるんだから」

 伝助さんの声に祥子さんが言い返す。

「なに言ってんのよ。このくらいで寝込んでられないわよ。病気じゃないんだし」

 病気じゃない? じゃあ、なんなの?

 ぼうっと突っ立っている私に向かって、祥子さんが笑いかける。

「あのね、志乃ちゃん。実はね……」

 言い終わらないうちに、すかさず伝助さんが飛んできて、祥子さんが持ち上げようとした食パンの乗った板を奪い取った。

「重いものは僕が運ぶから。あんたはじっとしてなさい」

 お店にパンを並べに行く伝助さん。その背中を見送っていた私に、祥子さんがささやく。

「実は……できちゃったのよね。赤ちゃん」

「え……」

「まさかこの歳になって、パパとママになるとはね。もうすっかり、あきらめていたのに」

 祥子さんはふふっと笑って、サンドイッチ作りにとりかかる。


 そういえばずっと前に、お母さんから聞いたことがある。

 祥子さんも伝助さんも子どもが大好きで、自分たちの赤ちゃんをすごく欲しがっていたけど、結局できなかったって。だから私のことを、自分の娘のように、小さい頃から可愛がってくれていたって。

「あの……えっと」

 祥子さんの背中に私はつぶやく。

「私……すごく楽しみ」

 私の言葉に祥子さんが振り返る。そして店から戻ってきた伝助さんと顔を見合わせて、照れたように笑った。

「もう、やあねぇ。なんか恥ずかしい」

「おいおい、座って作れよ」

 伝助さんが椅子を持って来て、祥子さんに差し出す。

「ちょっとやめてよ。過保護過ぎ」

「そのくらいでちょうどいいんだよ。あんたはいつも頑張りすぎるから。志乃ちゃん、悪いけど、お店頼むね」

 伝助さんの笑顔に、私は「はい」とうなずいた。


 つわりの祥子さんは、やっぱり具合がよくないみたいで、お店には時々顔を出す程度になった。

 私と伝助さん二人の「こむぎや」は、ちょっと忙しかったけど、祥子さんと赤ちゃんのために頑張った。

 お客さんはみんな喜んでくれて、気の早い常連の佐藤さんは、もう赤ちゃんの名前まで考えている。

 でも、祥子さんみたいにシャッターを半分開けて待っていても、康太くんや隼人くんは来なかった。もうすぐ三年生最後の大会があって、部活が忙しいんだろうって、伝助さんが教えてくれた。


 久しぶりに隼人くんに会ったのは、梅雨入りしたばかりの頃だった。

 店を片づけて、伝助さんに「お疲れさまでした」を言って外に出たら、自転車で通りかかった隼人くんに偶然会った。

「あれ、志乃ちゃん。久しぶり」

 隼人くんは自転車を止めて、私に笑いかける。

「康太先輩と一緒じゃないんすか?」

 私が首を横に振ったら、隼人くんは小さな声で「なぁんだ」って言った。

「俺、一応遠慮してたんすよ? 先輩と志乃ちゃんの邪魔したら、悪いかなぁなんて思って」

 自転車から降りた隼人くんが、私の隣に並ぶ。私たちはなんとなく、一緒に歩く形になった。


 梅雨時の蒸し暑い空気の中、私は隼人くんと坂道を歩いた。

 隼人くんは康太くんより歩くのが速くて、私は隼人くんのちょっと後ろを、追いかけるように歩いていく。

 初めて会った時と同じように、隼人くんは姿勢がよくて、服装も乱れがなくキチンとしている。

 そんな背中を見つめながら、私は康太くんが言った、「悪いヤツじゃないんだよ」って言葉を思い出していた。

「でも俺、康太先輩には、マジでがっかりしてるんすよ」

 私は顔を上げて隼人くんを見る。隼人くんがちらりと私に振り返る。

 なんだか胸がざわざわした。黙っている私に隼人くんが言った。

「志乃ちゃんは、どこまで知ってるの? 康太先輩のこと」

 康太くんのこと? 少し考えて、私は首を横に振る。

 私は何も知らなかった。毎日一緒に歩いていたのに、私は康太くんのことを、なんにも知らなかった。


 家に帰って部屋のドアを閉める。机の引き出しから一冊の本を取り出し、そっとめくる。

 薄紙の間に挟まれて、押し花になった小さな花びら。康太くんにもらった桜の花びらだ。

「あの人はね、実はスゴイ人なんだよ」

 隼人くんは私に、康太くんのことをそう話した。

「俺らの中学が市で優勝して、県大会まで行った時のピッチャーが康太先輩。北中の榎本康太っていえば、市内ではかなり有名でさ。高校の野球部からも、それなりに期待されてたんだと思う」

 乾いた花びらを見つめながら、「俺は試合に出られない」って言った、康太くんの表情を思い出す。

「でも先輩はもう投げられない。高校入って、肩壊しちゃったから。後先考えずに、ずっと無茶してたもんな……」

 隼人くんは、ため息のような息をふっと吐いた。

「がっかりだよ、マジで。ほんとにあの人何やってんだか……正直腹立つ」

 吐き捨てるように言った後、隼人くんが夜空を見上げて、ぽつりとつぶやいた。

「あの伸びのあるストレートを……もう一度だけ見たかったのになぁ……」

 野球の試合なんて見たことないけど、康太くんの投げる姿だったら見てみたい。

 腹が立つって言った隼人くんの気持ち、なんとなくわかった。

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