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朝から雨が降っていたその日。「こむぎや」に行くと祥子さんの姿がなかった。
「あいつちょっと具合が悪くて……今日は志乃ちゃん一人でも大丈夫かな?」
伝助さんは申し訳なさそうな顔で私にそう言う。
「はい……大丈夫です」
「困ったことがあったら、何でも僕に言ってね?」
にっこり微笑む伝助さんの前で、本当はものすごく不安だった。
だけど、そんなことは言ってられない。
私が休んだ時、祥子さん一人にお店を任せっきりだったんだもの。
今度は私が頑張る番。
祥子さんのことを気にかけつつ、私はお客さんの相手をした。
常連さんばかりの小さなお店だし、今日はあいにくの雨だったし、お客さんがどっと押し寄せて、困ってしまうようなことはなかった。
「そう。今度は祥子ちゃんが具合悪いの?」
「心配だわね。お大事に」
お客さんは祥子さんのことを心配しながら、いつものパンを買っていく。
祥子さんがお客さんを大切に思っているように、お客さんも祥子さんのことを大切に思ってくれてるんだなぁってわかった。
伝助さんに助けてもらいながら、なんとか一日が過ぎようとしたころ、祥子さんがお店に顔を出した。
「ごめんねぇ……志乃ちゃん」
祥子さんの顔色は、まだ悪いみたいだった。
「明日からはちゃんと来るからね」
そう言って、にこっと笑う祥子さんに、伝助さんが声をかける。
「おい、病院は行ってきたのか?」
「うん。まあ」
「で、結果は?」
「やあねぇ、あとで教えるから」
病院……結果……そんなに悪いのかな、祥子さん。
私が心配そうな顔つきをしていたのか、祥子さんは私に笑いかけ「大丈夫、大丈夫」って言った。
「へぇ、じゃあ今日は志乃ちゃん一人だったんだ」
お店を出て、康太くんと歩く。今日は雨だから、康太くんは自転車を押していなかった。
「志乃ちゃん、すごいじゃん。もう祥子さん、隠居してもいいんじゃね?」
「そんなこと……」
でも今日一日で、少しだけ自信がついたのは本当。祥子さんに比べたら、まだまだ危なっかしくて、頼りない私だけど。
こうやって少しずつ、前に進んでいけたらいいなと思う。
「『こむぎや』もあれだな。こういう時のために、やっぱりバイトもう一人ぐらい入れとけばいいのに」
康太くんは私を見て自分を指さす。
「俺とかさ」
「ムリ、でしょ?」
私が言ったら康太くんがおかしそうに笑った。
雨の音がぱらぱらと傘に響く。傘がある分、康太くんと私の距離が、ほんの少し遠い。
薄暗い下り坂を黙って歩いた。
康太くんといると、私はとても居心地がいいけど、康太くんはどうなのかな?
私と同じように、思ってくれていればいいんだけどな……。
目の前に、坂道をのぼってくる人影が見えた。この時間、人とすれ違うことはあんまりないのに。特にこんな雨の日は。
ぼんやり灯る街灯の下、花柄の傘の中に二人の姿が見える。男の人と女の人。ゆらゆらと揺れる二人の影は、ゆっくりと私に近づいてきて、やがてその人物の顔がはっきりわかった。
――柴田くん。
柴田くんが知らない女の子と、一つの傘に入って歩いている。そして私の前まで来ると、その口元が「あっ」と小さく開いた。
「志乃?」
柴田くんが立ち止って私を見る。私はぎゅっと傘を握り締め、呼吸を整える。
落ち着いて、落ち着いて……。こんなところでパニックを起こしたら、また康太くんに迷惑がかかる。
一生懸命自分に言い聞かせている私のことを、康太くんが見ているのがわかった。
「元気……だった?」
柴田くんはちょっと気まずい感じで私に言う。隣の女の子は不機嫌そうな顔をしている。
「……うん」
「みんな心配してたんだよ。志乃、どうしてるかなぁって」
柴田くんの声は懐かしかった。だけどそれは、つらいことを思い出させる。
「なんか……あの時は、その……ごめんな?」
柴田くんが言った。
どうして? どうして柴田くんが謝るの?
「あんな噂が流れたの、俺のせいなんだ。俺が友達にしゃべったから……まさか、こんなことになるなんて、思ってもみなくて……」
私はうつむいて黙っていた。雨の音に混じって柴田くんが言う。
「とにかく、ごめんな。志乃」
傘の中で首を振った。違う、違う。悪いのは全部私。
女の子が柴田くんの袖をひっぱった。「じゃあ」って言って柴田くんが歩き出す。
待って……待って、柴田くん。私はまだ言いたいことがある。
「し、柴田くん!」
精一杯、想いを吐き出すように声を出す。
「ご、ごめんなさい! 私のほうこそ、ごめんなさい!」
柴田くんの気持ちに、ちゃんと向き合ってあげられなかった私。ずっと、謝りたいと思っていた。
女の子の隣で、柴田くんが少し笑った。中学生の頃、ちょっといいなって思っていた、柴田くんの笑顔。
柴田くんは背中を向けて、雨の中を歩いていく。
心臓の音が激しかった。傘を持つ手が震えていた。
だけど少しほっとしていた。私の気持ち、柴田くんに伝わった。
「志乃ちゃん」
呼吸を整えるようにしながら、雨の音を聞いていたら、康太くんが私を呼んだ。
「志乃ちゃん?」
ゆっくりと顔を上げて、傘の隙間から康太くんを見る。康太くんは穏やかな顔で、私にすっと手を伸ばした。
「よくできました」
私の頭に触れる康太くんの手。そのままふわふわと頭をなでて、すぐにその手を引っ込めた。
「帰ろう?」
「……うん」
傘を並べて康太くんと歩く。濡れた足元を見つめながら、雨が降っていてよかったと思った。
私の泣き顔、もう康太くんに見られたくないから。