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「おはようございます」
雨上がりの朝。私は厨房のドアを開いた。
いつものようにパンをこねている伝助さんが、穏やかな顔で「おはよう」と言う。
「あの……お休みして、ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げた私に、伝助さんは何も言わず、にっこり微笑んだ。
久しぶりに店に出た私のことを、祥子さんも伝助さんもいつも通りに迎えてくれた。
お店のお客さんからは「もう体調はいいの?」と心配された。
甘くて、あたたかくて、いつもやさしいこの場所の人たち。
ふとしたことで沈みかける、まだ危なっかしい私は、そのやさしさに甘えちゃっている。
いつまでもそんな調子じゃだめだって、わかってはいるんだけど……。
服のポケットに、そっと手を差し込んでみた。その日私は、メモに挟まれた桜の花びらを、こっそりポケットにしのばせていたのだ。
康太くんに会ったら、勇気を出して言おうと思っていたから。
「ありがとう」って。
閉店間際になって、時計を見上げる。シャッターを半分閉める祥子さんの背中を、私はレジの中から見つめる。
店の前で、ブレーキをかける自転車の音がした。だけど私の前に現れたのは、待っていた人とは違っていた。
「めずらしいわね、今日は一人?」
「練習中に怪我したやつがいて、まぁたいしたことなさそうだったけど、念のため康太先輩が病院に付き添って行ったんです」
「あら、そうなの」
祥子さんと会話しているのは隼人くんだ。私はうつむき気味に視線をそらす。
だけど祥子さんが厨房に入っていくと、隼人くんがカウンター越しに、すっと私の前にやってきた。
「もう大丈夫なんですか? 具合は」
道端でしゃがみこんでしまったあの夜、私はそのまま康太くんと帰って、結局隼人くんとは会っていなかった。
「あの日具合悪くなって、康太先輩に送ってもらったんすよね?」
「もう……大丈夫です」
隼人くんは私の前で軽く笑うと、カウンターを指先でとんとんっと叩いて言った。
「それにしても先輩はひどすぎる。俺に財布取りに行かせて、結局『かばんの中に入ってた。ごめん』って、なんなんですかね、それ」
まくしたてるような隼人くんの口調に、私の心臓が高鳴り始める。
「もしかして先輩、志乃ちゃんと二人きりになりたくて、俺を邪魔者扱いしたとか。そういうことですか?」
うつむいたまま、私は首を横に振る。隼人くんに言い返そうとしても、私の口からはなんの言葉も出てこない。
「はいはい、おしゃべりはそのくらいにしてね」
私たちの間に祥子さんが入った。祥子さんはとっておきのカツサンドを隼人くんに渡す。
「特別サービスでこれあげるから。今日はもう帰ってくれるかな?」
「えー? じゃあ俺、志乃ちゃんと……」
「あ、いいの。志乃ちゃんにはまだ手伝ってもらいたいことがあるから」
「先輩は信用できるのに、俺はできないってわけですか?」
「そんなこと言ってないわよ。いいから、ほら。おやすみ、隼人くん」
まだ文句を言いたそうな隼人くんの背中を、祥子さんがぽんぽんと叩いて外へ押し出す。そして「気をつけて帰るのよー」と手を振ると、私に振り返りいたずらっぽく笑った。
「悪い子じゃないと思うのよねぇ……たぶん」
そして私の後ろにまわり、いつものようにエプロンのひもをほどいてくれる。
「ゆっくり仲良くなろう。ね? 志乃ちゃん」
祥子さんの言葉に、私はこくんとうなずく。
その時、店の外で、隼人くんとは違うブレーキのかかる音がした。
「やっぱり来たわね。律儀な男が」
祥子さんが私の顔をのぞきこんで笑う。店の入り口を見ると、シャッターをくぐり抜けてきた康太くんと目が合った。
「志乃ちゃん……」
康太くんはいつもと違って、すごく息を切らしていた。なんだかものすごく急いで来たみたいに……。
「ちょっと康太。そんなに自転車ぶっ飛ばして来たら危ないでしょ。それほど志乃ちゃんに会いたかったの?」
「そんなんじゃないって!」
康太くんが照れたように祥子さんに言い返して、私も少し恥ずかしくなった。
祥子さんはおかしそうに笑いながら、一回奥に入って何かを持ってくる。そしてエプロンと引き換えに、あんぱんをひとつ私の手にのせた。
「はーい、今日はお疲れさま。気をつけて帰るのよー」
祥子さんが私の背中をとんっと押す。私はそのまま一歩を踏み出し、康太くんの前にあんぱんを差し出した。
「あの……」
康太くんが私を見る。ものすごく照れくさい。
「いろいろ……ありがとう」
私が言うと、康太くんは嬉しそうに笑った。そしてポケットの中をあさった後、パンを受け取って、私の手のひらにお金をのせた。
「はい。あんぱん代」
「ありがとうございます」
康太くんがもう一度笑う。私もすごく嬉しかった。
康太くんの前で、私はうまく笑えたのかな?
その日の帰り道は、やっぱり照れくさかった。
自転車を押して歩く康太くんと、微妙な位置を保ちながら歩く。
公園の桜はすっかり散ってしまって、水たまりの中に、花びらが数枚浮かんでいる。
「……隼人はさ」
坂道の途中で、康太くんがつぶやいた。
「悪いヤツじゃ、ないんだよな」
祥子さんと同じようなことを言いながら、康太くんは私に笑いかける。
「小学生の頃はさ、すっげーかわいかったんだよ。康ちゃん康ちゃんって、俺のことばっかり追いかけてきて。あいつに野球教えてやったのも、この俺なんだ」
一言一言、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと康太くんが話す。私は黙って、その声を聞いている。
「中学になっても、しつこいほど俺にまとわりついてさ。俺の真似ばっかすんだよな、あいつ」
ふっと笑って、康太くんは私から目をそらした。
「だから……そんなに悪いヤツでもないんだよ」
康太くんの気持ちは、私に伝わった。だから私はうなずいて、康太くんに返事をした。
「うん……わかった」
康太くんはほっとしたように笑って、また前を向いて歩き出す。
雨上がりの風は少し生ぬるかったけど、気分は悪くなかった。