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私の声が出なくなった理由。それは他の人からみたら、本当に些細なことだったと思う。
私自身、なんでこんなことでそこまで悩むのって、いつも自分の心に問いかけていたから。
私には、初音っていう親友がいた。
初音とは小学校の頃から仲良しで、中学のときは部活が一緒で、高校も同じ学校に合格した。
「志乃ぉ! 志乃とおんなじ高校行けて、あたし死ぬほど嬉しいよー!」
高校の合格発表の日。初音は私に抱きついてそう言った。私もすごく嬉しかった。
ちょっと人見知りしてしまう私と、誰とでも仲良くなれる初音。
いつも友達に囲まれている初音は、密かに私の憧れで……。
そんな初音が「一番の親友」に選んでくれたのが、この私だった。
「ね、志乃。高校行ったら、何部に入る?」
「やっぱりテニスかな?」
「バイトもやってみたいよねー」
そしてあの頃、たぶん初音にはもうひとつ、嬉しいことがあったと思う。
それは、初音がずっと好きだった柴田くんも、同じ学校に受かったこと。
私たちは幸せな高校生活を送れるはずだった。
私が――柴田くんに呼び出されたあの日までは……。
「俺、好きなんだ。志乃のこと」
春風の吹く校舎の屋上で、真新しい制服を着た柴田くんが、私に言った。
「付き合って……くれないかな?」
柴田くんの前に立って、私は意味がわからなかった。
どうして? どうして私なの? どうして初音じゃないの?
「……なさい」
「え?」
「ごめんなさい……無理です」
私が言うと、柴田くんは眉をひそめた。
「志乃……俺のこと、嫌い?」
「嫌いとか、そういうんじゃなくて……柴田くんとは、ずっと仲良かったし……でも……」
「でも、なに?」
「だって初音が……」
「初音がなんだよ」
柴田くんは煮え切らない私に、イライラしているみたいだった。はっきり言えよって、せかされているみたいだった。
はっきり言わなくちゃ……柴田くんのためにも、初音のためにも。
「だって初音が、柴田くんのこと好きだから。ねぇ、私じゃなくて、初音ともっと仲良くしてあげて?」
「なんだよ、それ。意味わかんねーし」
「ごめん。でも……初音はずっと柴田くんのこと好きで……」
「初音、初音って……俺はお前の気持ちを聞いてるのに……」
柴田くんはそこまで言って、私から顔をそむけた。
「もう、いいよ」
「柴田くん……」
柴田くんが、私の前から去って行く。
そしてその翌日には、初音が柴田くんのことを好きだという噂が、あっという間に広がっていた。
噂がどうして広まったのかは知らない。
柴田くんが自分で話したのか、誰かが私たちの姿を見ていたのか。
「どうして私のことなんて言ったのよ」
「ごめん……初音」
噂はさらに深みを増し、柴田くんが私に告白したことも、私が初音を理由に断ったことも、何もかもが初音の耳に伝わっていた。
「好きだって言う時は、自分で言いたかったのに。たとえふられるとしても……」
「だから、ごめん。私、初音と柴田くんにうまくいって欲しくて……」
「うまくいくわけなんかないじゃん! 柴田くんは志乃が好きなんでしょ! 実は志乃、柴田くんにコクられて喜んでるんじゃないの!」
「そんなことないよ!」
初音はふっと私から目をそらして、それきり口をきいてくれなくなった。
教室の中で、私は一人ぼっちだった。
初音はクラスの女の子たちといつも一緒にいて、私のことを悪く言っている様子はなかったけど、みんな噂のことは知っていて……私は自分からなんとなく、距離を置くようになっていた。
休み時間も、お弁当の時間も、放課後も……いつも私は一人。
時々教室で初音と目が合いそうになるけど、初音はごく自然に私から視線をそらす。
初音の視界に、まるで私なんかいないかのように……。
無視されるのはつらかった。いないものとされるのはきつかった。
でも悪いのは私だから、初音が許してくれるまで待とうと思った。
だけどやっぱり……私を無視する初音が、他の女の子たちと笑っているのを見るのは悲しくて……。
なんであんなこと、言っちゃったんだろう。
そうだね、余計なお世話だったよね。
ごめんね、ごめんね、初音。
どうしたらこんな私のこと、許してくれるの?
私が二度と口をきけなくなれば、初音、私のこと許してくれる?
***
外は雨が降っていた。
私はパン屋のバイトを、もう三日間も休んでいた。
「志乃ちゃん? 入ってもいい?」
コンコンとドアをノックする音とともに、祥子さんの声が聞こえてくる。
「……どうぞ」
私が答えると、笑顔の祥子さんが私の目に映った。
「元気になったらさ、またお店手伝ってよね」
祥子さんは、私が勝手に何日も休んでいることを責めたりしない。
私が休んだ理由を聞こうともしない。
ただいつものように笑って、明るく私に話しかけてくれる。
「志乃ちゃんいないと、お客さんみんな寂しがってるしさぁ……」
そこまで言って思い出したように、祥子さんは一通の手紙を取り出した。
「そうそうこれ。康太から預かってきた」
康太くんから? 私はほんの少し震える手で、祥子さんから手紙を受け取る。
「ラブレターかもしれないよ?」
うふふと笑って、祥子さんは私に背中を向けた。
「じゃあね、志乃ちゃん。ゆっくりでいいから……待ってるね」
ぱたんと静かにドアが閉まり、祥子さんの姿が消える。
私はベッドの上に座ったまま、祥子さんからもらった手紙を見つめた。
ただの真っ白な封筒に宛名はない。ぴりりと破いて中を見ると、入っていたのは半分に折りたたまれたメモ用紙。
私がそれをそっと開くと、ひらりと小さなものが膝の上に落ちた。
「花びら……」
桜が満開だった夜。康太くんと歩いた坂道を思い出す。
淡い色の花びらを手のひらにのせて、メモに書かれている文字を読んだ。
――志乃ちゃんのいないこむぎやで、うるさいおばさんにいじめられてます。早く帰って来て。
黒くて太いマジックで書かれたその文字は、お世辞にも綺麗とは言えなかったけど、それはとても康太くんらしかった。
「……へんなの」
メモ書きされた汚い字と、やわらかな花びらを見比べる。そうしたらなんだかおかしくなって、私はほんの少しだけ、笑うことができた。
外はまだ、しとしとと雨が降り続いている。
この雨で今年の桜は、全部散ってしまうだろう。