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春の香りが漂う坂道を、自転車を押す康太くんと歩く。夜風はまだ少し冷たくて、遠くでかすかに救急車のサイレンの音がした。
「あ、なんかこの感じ」
隣を歩く康太くんが急に立ち止り、振り返って私に言う。
「前にもあった気がする。あったわけじゃないけど。こういうの……なんていうんだっけ?」
「……デジャヴ?」
「ああ、それそれ」
康太くんは満足したように笑って、また何事もなかったかのように歩き出す。私も黙ってそんな康太くんと並んで歩く。
お店では、祥子さんとぽんぽん会話しているくせに、康太くんは私と一緒だとあまりしゃべらない。私がしゃべらないから、つまらないのかもしれないな……。
「あ」
短くつぶやいて、康太くんがまた立ち止まる。
「桜」
私も立ち止り、康太くんの視線の先を追いかける。私たちの上に覆いかぶさるような公園の桜の木が、ひらひらと花びらを散らしている。
「あー、いつの間にか満開だったんだ。毎日通ってるくせに気づかなかった」
康太くんがそう言って、私の前でいたずらっぽく笑う。そんな康太くんの肩に、ふわりと一枚、花びらが舞い落ちる。
「あ……」
「ん? なに?」
「あの……そこ……」
なめらかに言葉が出ない私のことを、康太くんはいつも黙って待っていてくれる。私は思わず右手を伸ばし、そっと康太くんの肩に触れた。
「花びら」
「あ、ほんとだ」
康太くんは笑いながら、私がつまんだ花びらに手を伸ばす。私の指先と康太くんの指先が、ほんのちょっとだけ触れ合った。
「志乃ちゃんてさ」
花びらをつまんだまま康太くんが言う。
「パンのいい匂いがするのな」
「え……」
「あ、俺は汗臭いか。ごめんごめん。あんまり近づくと祥子さんに殺されるし」
わははっと笑ってから、康太くんは自転車を押してまた歩き出す。
そんなことないよ。そんなこと思ってないよ、康太くん。
思っただけの私の気持ちは、康太くんには届かない。
名前だけしか知らない高校の、でも見慣れた制服の背中を見つめながら私は歩く。
康太くんがどう思ってるかはわからないけど、二人で歩く帰り道は、なんとなく居心地がよかった。
「ありがとうございましたー」
今日、たぶん最後のお客さんが坂道の下に消えた頃、祥子さんはいつものように半分だけシャッターを閉める。
日曜日はいつもよりちょっとだけ忙しくて、店のパンはほとんど売り切れていた。
「今日は来ないかもね」
パンをのせてあったカゴを下げながら、祥子さんが私に言う。
「え?」
「康太。どこかで試合があるって言ってたから」
そういえば昨日祥子さんと、そんな話をしていたっけ。
「志乃ちゃん、一人で帰れる?」
「はい」
「送って行こうか?」
「大丈夫です」
店から私の家までは歩いて二十分程度。住宅街の中だから、夜はちょっと暗い。自転車で来ればいいんだけど、あの坂道をのぼりきる自信がないのだ。
「そう? じゃあ、気をつけて帰ってね」
祥子さんが私の背中に回って、エプロンのひもをほどいてくれる。いつも一緒にいるから気づかないけど、きっと祥子さんもパンの香りがするんだろうな。
「ありがとうございます」
祥子さんに振り返ってそう言ったとき、店の前で自転車のブレーキの音がした。
「おつかれーっす。遅くなりましたぁ」
いつものように言いながら、いつものように入ってくる康太くん。
「あら、康太。今日は来ないかと思ったわ」
「志乃ちゃんを、一人で帰すわけにはいかないでしょ?」
「案外律儀なのね、あんたって」
「案外じゃなくて、俺は律儀な男なんです」
二人の会話を聞きながら、少しホッとしている自分がいる。
「はい、いつもの。試合どうだった?」
祥子さんがあんぱんを差し出しながら康太くんに聞く。
「どうって言われても別に。俺は試合に出れるわけでもないし」
康太くんの答えはどこか歯切れが悪かった。
「あのね、私はそう言うことを聞いてるわけじゃないの! あんたの感想を聞いてるの!」
だけど祥子さんは手厳しい。康太くんはちょっとふてくされたような顔つきで、祥子さんを見る。
「勝ったよ。今年のチームは打てるやつが揃ってるし、ピッチャーの川瀬の調子もよかった」
「そう。で、新入生は? 上手い子入ってきた?」
「一人俺の中学の後輩で、すごく速い球投げるやつがいる」
「顔は?」
「は?」
「顔はいいのかって聞いてるの」
祥子さんの言葉に、康太くんが大げさにため息をつく。
「顔がよくたってカンケーないだろ!」
「あ、いいんだ。じゃあ今度連れておいでよ。カツサンドおごってあげるからさ」
「マジか、ありえねー! 俺にカツサンドおごってくれたことなんか一回もねーのに!」
康太くんの調子が戻って、祥子さんが明るく笑う。
私はやっぱり、こんな二人を見ているのが好きだ。そしてうじうじしている康太くんは、やっぱり見たくない。
康太くんは、いつも試合に出られない。
どうしてだか理由は知らない。もしかして、めちゃくちゃ守備が下手くそなのかなとか、空振りばっかりしてて打てないのかなとか、いろいろ想像はしてみたけど。
ただ大きな声でいつも笑っている康太くんは、チームのムードメーカーなんだろうなっていうのはわかる。
そして康太くんが試合に出られない理由を、祥子さんはきっと知っている。
「じゃあ、おやすみ! 寄り道しないで、まっすぐ送り届けるんだよ、康太!」
灯りのぽっと灯った店の前で、祥子さんが私たちに手を振る。
「なんか俺、祥子さんに信用されてないよな」
自転車を押しながら、ぼそっと私に言う康太くん。
「そんなこと……」
私はゆっくりと口を開く。
「そんなこと、ないよ」
祥子さんは康太くんのことを信用してるから、私と一緒に帰ることを勧めてくれるんだ。
私の隣で康太くんが笑う。私は一生懸命笑顔を作ろうとする。
まだ――うまく笑えないけど。
坂道の上では、いつまでも祥子さんが私たちのことを見送ってくれていた。