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「いらっしゃいませ」
「おはよう、いつもの焼けてる?」
「はい。食パンですね」
「こむぎや」にいつもの朝がやってくる。おいしいパンを焼くのは伝助さん。お店に立つのは私。祥子さんのいない毎日に、少しずつ慣れてきた。
祥子さんは時々こむぎちゃんを連れて、お店に顔を出す。その途端、無口な職人の伝助さんの顔がふにゃりと崩れる。
伝助さんは娘のこむぎちゃんにメロメロなのだ。
長い間、子どもを授かることのできなかった夫婦だから、こむぎちゃんへの想いもひとしおなのかもしれない。
「ありがとうございましたー」
最後のお客さんを見送ってから、シャッターを閉める。もうすぐテストがあるから、今日は「こむぎや」には寄らないって隼人くんが言ってた。康太くんも、来そうにないし……。
伝助さんに残り物のパンをいただいて、「お疲れさまでした」と言って店を出る。
雪でも降ってきそうな寒い夜。早足で歩き出したとき、私は女の子に呼び止められた。
「こんばんは、志乃ちゃん」
そこに立っていたのは弓香さんだった。
「こんばんは。あの……もうお店、閉まっちゃったんですけど……」
「いいの。今日は志乃ちゃんに会いに来たの」
そう言って弓香さんは私に笑いかける。
私に? 何の用だろう……。あまり親しくない人と話すのは、まだ緊張する。
「どこか話せるとこ、って言ってもなんにもないよね、この辺」
弓香さんがあたりを見回しながらそう言う。住宅地の中だから、お店もほとんどないし、駅前の繁華街まで行くには少し遠い。
「そこの公園でいいか。ちょっと暗いけど」
弓香さんはそう言って、私の返事も聞かずに歩き出す。私はただおずおずと、弓香さんのあとをついて行く。
坂道の途中にある小さな公園は、薄暗くてひと気がなかった。こんな時間に一人だったら、怖くて絶対来ない場所。
弓香さんはベンチに座って「志乃ちゃんも座りなよ」と私に言う。私は言われたとおりに、弓香さんの隣に座った。
あたりはしんと静まり返り、空気はひんやりと冷たい。弓香さんは制服姿で、短いスカートから伸びた足が寒そうに見える。
だけどそんなことはお構いなしのように、弓香さんは勝手に話し出した。
「私、今日ね、すっごく頑張ったことがあったの」
私は黙って弓香さんの声を聞く。
「後にも先にも、こんなに勇気を出すことはないっていうくらい勇気出してさ。当たって砕けろって言うじゃない? そんな感じで」
弓香さんはそこまで言うと、自嘲気味にふっと笑う。
「結局、見事に砕けちゃったんだけどね」
私の隣で弓香さんは、意味もなく足をぶらぶらと揺らす。うつむき加減で、ため息のような息をはぁーっと吐きながら。
「なんでだろうな……こんなに頑張ったのに……なんでうまくいかないんだろう」
私は薄暗い街灯の下で、かすかに震えている弓香さんの横顔を見た。
それはきっと、寒いからっていうだけじゃなくて……きっと……弓香さんは泣きたかったんだと思う。
「もう、やだ。こんなこと志乃ちゃんに言っても、しょうがないってわかってるんだけど」
弓香さんが両手で顔を覆う。鼻をすする音が聞こえて、それきり弓香さんは何も言わなくなった。
静かな公園に、弓香さんのすすり泣く声。私はその隣で何もできない。
ふと自分の手に持っていたビニール袋に気づき、それをそのまま弓香さんに差し出した。
「これ……よかったら。いただき物なんですけど」
中に入っているのは「こむぎや」のパン。「元気が出るよ」と焼いてくれた、伝助さんのパン。
弓香さんが顔から両手をはずし、それを見つめる。そしてゆっくりと手を伸ばすと、私の手からビニール袋を受け取り、中をのぞきこんだ。
「バカみたい」
泣き笑いの顔で弓香さんがつぶやく。
「私今日、意地悪な気持ちで志乃ちゃんに会いに来たのに……なんか慰められてるし」
私は黙って弓香さんを見る。弓香さんは私から目をそらし、顔を夜空に向けてこう言った。
「今日、康太に告白した。ずっとずっと、中学のときから好きだったから。でもフラれちゃった」
冷たい空気の中に、弓香さんの声が響く。
「好きな子がいるんだってさ。あいつ」
胸の奥がきゅんっと鳴った。それから心臓がドキドキしてきて、どうしたらいいのかわからなくなった。
「なんかもう、最悪だよね。こんなことになるなら、もっと早く伝えておけばよかった。康太が……志乃ちゃんと出会う前に」
ぼんやりとする私の前で弓香さんが笑う。
「ほんとはね、悔しくて意地悪しようと思ってたの。でももういいや。これ、もらっちゃったし」
パンの袋を目の前に上げて、その後ろから弓香さんが顔を出す。
「ありがと。志乃ちゃん」
弓香さんはもう泣いていなかった。すっきりした顔つきで、私に笑いかけて立ち上がる。
「付き合ってもらっちゃって、ごめんね?」
「……いえ」
「私ってほんとバカ。わけわかんなくて、ほんとにごめん」
弓香さんの笑い声を聞きながら、首を横に振る。
「じゃあ、さよなら」
「……さよなら」
弓香さんがビニール袋を揺らして帰って行く。私はその背中を黙って見送る。
――相手を傷つけるってわかってても、言わなきゃならないことってあるかな?
いつかの康太くんの言葉を思い出す。
康太くんは弓香さんを傷つけるってわかってても、それでも自分の気持ちを伝えたんだ。
じゃあ私は? 私は私の気持ちを、康太くんに伝えることができるのかな……。
ひっそりとした桜の木の下をひとりで帰った。
春はまだまだ、遠く感じた。




