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高校を辞めて、家でひきこもり状態だった私に、「うちで働かない?」と声をかけてくれたのは祥子さんだった。
「パートさんが急に辞めちゃって困ってるのよ。一日一時間でもいいからさ。叔母さんを助けると思って……ね? 志乃ちゃん」
その頃の私は、外へ出て働くなんて夢にも思っていなくて、祥子さんの誘いにはとても戸惑った。
だって私は――うまく言葉を話すことが、できなくなっていたから。
高校一年生の一学期が終わる頃、朝起きたら声が出なくなっていた。
どうしてこんなことになったのか、理由は想像できたけど、思い通りにならない自分の体がもどかしくて、腹がたった。
涙も出たし、意味もなく自分の体を傷つけてみたりもした。お母さんは心配して、病院にも連れて行ってくれた。
だけど焦れば焦るほど、口からもれるのはヒューヒューした息ばかりで……。
私は学校を辞めて、部屋の中にひきこもりがちになった。
そしてそんな自分が、ものすごく嫌いになった。
祥子さんがうちに来た頃、私はなんとか知っている人とは話せるようになっていたけど、お店に立つなんて絶対無理だと思った。
「大丈夫、大丈夫。私がついてるから。おいしいパンも食べ放題だよ?」
パンに釣られたわけじゃない。だけどなぜか私は、祥子さんの言葉を受け入れていた。
祥子さんが「大丈夫」って言ったから、「大丈夫」な気がしたのかもしれない。
アルバイトをすることになった私に、祥子さんが出した条件はただひとつ。
「『いらっしゃいませ』と『ありがとうございます』だけ、言えるようになろうね」
甘い香りに満たされた、この小さなお店にやってくるのは、気さくでやさしい常連さんばかり。
パンの値段が覚えられなくてレジ打ちに戸惑っていると、お客さんが親切に教えてくれる。
おしゃべり好きなおばさんにつかまると、すかさず祥子さんが飛んできて間に入ってくれる。
「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」――その言葉を繰り返しているうち、少しずつお客さんとも会話ができるようになってきた。
「そろそろ来る時間ね」
外が暗闇に包まれる頃、閉店の準備をしながら祥子さんが言う。シャッターを半分だけ閉め、自動ドアをあけっぱなしにして、時計を見上げる祥子さん。
やがてかすかにブレーキの音がして、カシャンっと店の前に自転車が止まる。
「おつかれーっす」
腰を曲げてシャッターをくぐるようにして入ってくる、坊主頭の男の子。
「ほら来た。ジャスト七時半」
「なんすか、それ。俺、お客なんだけど」
お店の床に、野球部指定のエナメルバッグをどんっと置いて、その子は私にニッと笑いかける。
榎本康太くん。私よりひとつ年上で、近くの高校に通う三年生。
野球部の練習が終わると、必ず「こむぎや」にやってくる。
「やっぱ違うわ。あんたは志乃ちゃんの王子様ってガラじゃない」
「は? なに言ってんの、祥子さん」
「いやいや、こっちの話」
祥子さんは私を見て意味ありげに笑う。
「どうでもいいけどさ、俺、腹減ったんだけど。いつものちょうだい」
康太くんが私の立つレジの前に小銭を置いて、店の奥をのぞきこむ。
「伝助さーん! いつものくださーい!」
「そんな大声出さなくても、わかってる」
いつの間にか私の後ろに立っていた伝助さんが、あんぱんをひとつ康太くんに差し出す。
「どうも。いっつもごちそうさんです」
にかっと笑う康太くんを見て、伝助さんも少し微笑むと、また静かに店の奥へ戻って行った。
「ではでは、いただきまーす!」
私と祥子さんの顔を見比べたあと、康太くんはあんぱんにかぶりつく。
もちろん店には飲食スペースなんてないけれど、康太くんだけはその場で食べることが許されているのだ。立ち食いだけど。
「うまい! 『こむぎや』のあんぱんは、やっぱさいこーっすね」
「いちいち大げさな子ね」
「その言い方トゲがあるなぁ。俺、こんなにこの店の売り上げに貢献してるのに」
「だったらあんぱんだけじゃなく、もっとたくさん買ってちょうだい。腹ペコなんでしょ?」
「あー、残念。うちの母ちゃんが可愛い息子のために、ディナー作って待ってるからね。パンで腹を満たすわけにはいかないんすよ」
康太くんがおかしそうに笑って、祥子さんがまた何か言い返す。だけどそんな祥子さんのまなざしは、とてもあたたかい。
子どものいない祥子さんと伝助さんにとって、毎日やってくる康太くんは自分の子どもみたいなものだって、前に祥子さんが言っていた。
そして私のことも、同じように思っているんだって……。
「あ、もうこんな時間だ」
あっという間にパンを食べ終わった康太くんが、時計を見上げて言う。
「あら、ほんと。志乃ちゃん、あがっていいわよ」
祥子さんは私の後ろにすっと回って、つけていたエプロンのひもをほどいてくれる。
「あ、ありがとうございます」
「お疲れさまでした」
私の顔をのぞきこみ、にっこり微笑む祥子さん。
「じゃあ帰ろうか、志乃ちゃん」
康太くんの声が聞こえてきた。私は照れくさくてちょっとうつむく。
私と康太くんの家が同じ方向だということが最近判明して、どういうわけか私は彼に、毎日送ってもらうことになったばかりなのだ。
「康太! 私の大事な姪っ子を、ちゃんと家まで送り届けてね!」
「はいはい」
「寄り道したり、志乃ちゃんに手を出したら、あんたどうなるか……」
「わかってますって。俺だってまだ命は惜しい」
「わかってるなら結構。じゃあ志乃ちゃん、また明日もよろしくね」
祥子さんに「はい」と言って顔を上げたら、私を見ている康太くんと目が合って、ちょっと困った。