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「ほんとにごめんね、志乃ちゃん。ごめん、ごめん」
空気まで凍りつきそうな寒い朝。「こむぎや」にやってきた私に、伝助さんはそればかり繰り返している。
シャッターが下ろされたままのお店の前には、珍しく「臨時休業」の四文字。
「せっかく来てもらったのに、ほんとにごめんね」
「大丈夫です。私は」
ばたばたと店を片づけると、伝助さんはトレードマークのパン屋さんの帽子をはずした。
今朝、いつものように伝助さんが仕込みをしているとき、祥子さんの陣痛が始まったという。
そして、あわてて二人で病院に駆け込んだけれど、「まだすぐには産まれませんよ」と助産師さんに言われ、伝助さんは一回お店に戻ってきたらしい。
「これから僕も病院に行くから……悪いけど、今日はお休みにするね」
「はい」
どんなに自分の具合が悪い日でも、お店を休まなかった伝助さん。だけど子どもが産まれる日だけは特別なんだ。
何度も電気やガスを確認して、あちこちぶつかりながらお店を出て行く伝助さんは、よっぽどあわてている。
「あの……気をつけて!」
私の声に伝助さんが振り返る。
「祥子さんにも……頑張ってって伝えてください」
伝助さんは親指をピッと立てて、にこっと笑う。
そしてその日の夜、無事に伝助さんと祥子さんの、はじめての赤ちゃんが産まれた。
「しっかし、『こむぎや』の娘だから『こむぎ』って……なんだか安直すぎやしません?」
一週間後、退院してきた祥子さんは、お店に赤ちゃんを連れてきた。
赤ちゃんの名前は「こむぎ」ちゃん。私は可愛いと思うけど、隼人くんは赤ちゃんの顔をのぞきこみながら、ぶつくさ言っている。
「俺だったらもっと、イケてる名前、つけてやるのになぁ……」
「うるさいわね、隼人。そんなこと言ってると、二度とカツサンド食べさせてあげないわよ」
「えー、祥子さん、そう来るか?」
祥子さんと隼人くんは、すっかり息が合っている。まるでちょっと前の、祥子さんと康太くんみたいに。
そんな二人を見るのは、やっぱり好きだけど、最近顔を見ていない康太くんのことも気になる。
進路のことで悩んでるみたいだったな……ほかにもいろいろあるって言ってたな……。
康太くん、今ごろ、どうしているのかな……。
「志乃ちゃん、ほら、見て」
隼人くんの声に顔を上げる。
「目、開けた。意外とかわいい」
「意外とってなによ。意外とって」
祥子さんの手に抱かれたこむぎちゃんの顔をのぞきこむ。まぶしそうにほんの少し目を開けて、こむぎちゃんは小さなあくびをひとつした。
「かわいい……」
思わずつぶやいた私に祥子さんが言う。
「うん、ほんとうにかわいい。愛おしいっていうか……月並みな言い方だけど、生まれてきてくれてありがとうって、心から思うよね」
こむぎちゃんを見つめる祥子さんの目は、やさしいお母さんの目だ。
隼人くんが恐る恐る、こむぎちゃんの小さな手に触れる。こむぎちゃんは隼人くんの指を、握手でもするかのように、きゅっと握りしめる。
「うわっ、にぎられたし」
「これからよろしくって言ってるんじゃない?」
祥子さんが笑う。隼人くんもちょっと恥ずかしそうに笑っている。
康太くんもいればなぁ……こむぎちゃんが生まれてくるのを、康太くん、すごく楽しみにしてたから。
そんなことを考えてから、ふと思う。
私、どうしてこんなに、康太くんのことばかり考えているんだろう。
「志乃ちゃん、抱っこしてみる?」
「あ……うん」
祥子さんの手からこむぎちゃんを受け取る。ふんわりと軽いのに、でもずっしりくる。
命の重み……ってやつなのかな……。
いつの間にかやってきた伝助さんも、にこにこしながらこむぎちゃんをのぞきこむ。
笑顔に囲まれたこむぎちゃん。私もこんなふうに、大切にされながら、育ってきたのかもしれないな……。




