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「やっぱりお休みにしたほうがいいかしらねぇ……」
出産予定日が近づいたある日、祥子さんはそんなことを伝助さんと話していた。
「私しばらくお店に出られないし。志乃ちゃん一人に店番頼むのは大変だしね……」
もういつ産まれても大丈夫だと言われている祥子さんのお腹は、丸々と膨らんでいる。
「あの……私だったら、大丈夫です」
そんな祥子さんと伝助さんに、私は言った。
「頼りにならないかもしれないけど……私、祥子さんの分まで頑張れます」
「でも……」
祥子さんが伝助さんを見る。伝助さんは私に微笑みかける。
「二人で頑張ってみようか? 志乃ちゃん」
「はい」
伝助さんが祥子さんの肩をぽんっと叩く。祥子さんは少し心配そうだ。
祥子さん、大丈夫。祥子さんが戻ってくるまで、私、頑張れる。頑張ってみたいの。
「よし、わかった! じゃあお店は志乃ちゃんに任せる!」
「はい」
祥子さんが私の前で笑う。伝助さんもにこにこと笑っている。
なんだか私も「こむぎや」さんの一員になれたような気がして、嬉しかった。
「こんばんは」
そんな私たちの前にやってきたのは、康太くんだった。
「あらまぁ、久しぶり。元気だった? 受験生」
「ちょっとその呼び方、やめてもらえます? ただでさえ悩み多き年頃なんですから」
康太くんはそんなことを言いながら、私の前にお金を置く。
「いつもの、まだありますか?」
「あ、はい」
久しぶりに見る康太くんは、髪が伸びて、ちょっと大人っぽくなっていて、なんだか違う人みたいでドキドキした。
私がいつものパンを差し出すと、康太くんは笑って「ありがとう」って言った。
「それにしても、少し見ないうちに、ずいぶんでかくなったなぁ……」
康太くんは私から視線をそらして、祥子さんのお腹を見た。
「そうよー、もう今出てきてもおかしくないくらい」
「へぇー、ちょっとだけ、触ってみてもいいですか?」
「どうぞ」
康太くんが手を伸ばし、そうっと祥子さんのお腹に触れる。
「すげー、この中に人間が入ってるなんて」
「すごいでしょ?」
「うん、すごい。志乃ちゃんも触らせてもらいなよ」
私が祥子さんを見ると、祥子さんは穏やかな顔つきで私にうなずいた。
私は康太くんと一緒に、そっと祥子さんのお腹を触った。
「お腹の中で、私たちの声だってちゃんと聞こえてるのよ」
祥子さんが私と康太くんに言う。康太くんはお腹の赤ちゃんに向かって呼びかける。
「おーい、早く出てこい。兄ちゃんが遊んでやるからなー」
私は隣にいる康太くんを見る。康太くんは笑っていたけれど、なんとなく元気がないように、私には見えた。
その日は久しぶりに康太くんと一緒に帰った。
あたたかなお店から一歩出た途端、強い風が吹き付けてきて、私はマフラーを口元まで上げた。
康太くんは私の隣で自転車を押しながら歩いている。黙って前を見つめる康太くんの上で、桜の枝がざわっと揺れる。
「康太くん……」
思わず私はつぶやいていた。
「なんか、あったの?」
康太くんが私を見る。そして少しの間のあと、いつものように私に笑いかけた。
「俺、もしかして暗かった?」
私は素直にこくんとうなずく。
「あー、志乃ちゃんに心配されちゃったかぁ」
康太くんは笑いながら、私の隣で空を見上げる。
「進路のことで、ちょっともめてて……親は大学行けって言うんだけどさ。ほら、うちって子だくさんで余裕ないじゃん? そういうの知ってるから、だったら専門行って資格取ろうかなとか……」
二人で初めて出かけた日。康太くんから聞いた、将来の夢を思い出す。
「けど親は言うわけ。保育士なんて、男の仕事じゃないって。それより普通に大学行って、普通に就職しろって……そういう親の気持ちも、わからなくはないんだけど」
私は黙って康太くんの声を聞く。
「それ以外にもさ、なんかいろいろ、あるわけよ」
康太くんは私を見ないままそう言って、ふっと笑った。
冷たい風が二人の間を通り抜ける。はたはたとマフラーの裾が揺れて、どこかで空き缶の転がる音がする。
私にできることないかな……康太くんの横顔を見て思う。
私にできることがあればいいのに……。
マフラーを巻き直し、康太くんとの微妙な距離を保ちながら歩く。
私の想いは、声に出さなきゃ届かない。
「志乃ちゃん」
康太くんが突然言った。
「相手を傷つけるってわかってても、言わなきゃならないことってあるかな?」
私は黙って康太くんを見る。
「それとも、うやむやにしたまま、なんとなくごまかしてたほうが、相手のためになるのかな?」
康太くんの視線が私に移る。私と康太くんの目が合って、心臓がとくんと音を立てる。
「……私だったら」
一生懸命考えながら、言葉を吐き出す。
「言って欲しいと思う」
康太くんはじっと次の言葉を待っている。
「すごく怖いけど……傷つくと思うけど……でもごまかされたほうが、もっと傷つく」
そこまで言ってふうっと息を吐く。そんな私の隣で康太くんがつぶやく。
「そうだよな……」
少し顔を上げて康太くんを見た。
「俺も、言ってもらいたいもんな」
誰かを傷つけてしまうこと。誰かに傷つけられること。どちらも同じくらい怖くてつらい。
本当は逃げ出したい。逃げてしまったほうが楽だって知ってる。だけど……伝えなければならないこともある。
「志乃ちゃんもさ、俺に文句あったら、遠慮なく言っていいからね?」
「そんなの、ない」
康太くんが、あははと笑って前を向いた。
「康太くんも……言ってね? 私、きっと、ヘンな子だと思うから」
「そんなこと、思ってねーよ」
康太くんの手が私の髪に触れる。緊張して体がこわばってしまうけど、嫌な気持ちは全然しない。
「やっぱ志乃ちゃん、パンの匂いがする」
私の頭をふわふわとなでて、康太くんは照れくさそうに笑う。そしてその手をゆっくりとおろすと、ふと視線を空に向けてつぶやいた。
「あ、雪……」
康太くんの声に空を見上げる。真っ暗な闇の中から、白いものがちらちらと舞い落ちてくる。
今年初めての雪。
「どうりで寒いわけだ。早く帰ろっ」
康太くんがそう言って、自転車を押しながら歩き出す。私は白い息をはあっと吐いて、そんな康太くんの隣に並ぶ。
坂道の途中で、もう一度空を仰いだ。花の咲いていない桜の木が、かすかに揺れる。
寒い冬を乗り越えたら、きっと綺麗な花が咲くね。その時またこの道を、二人並んで歩けたらいいな……。
小雪の舞う帰り道、私はそんなことを思っていた。




