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夏が終わる頃、康太くんには「受験生」って肩書きがつけられていて、「こむぎや」にもあんまり顔を出さなくなった。
隼人くんは隼人くんで、新チームの練習が忙しいらしく、やっぱり「こむぎや」に来なくなった。
私は毎日変わらずお店に立っている。お客さんとの会話も少しずつ増えてきて、伝助さんに教えられながら、パン作りもさせてもらえるようになった。
「志乃ちゃん、変わったわね」
秋も深まったある日、常連の佐藤さんにそんなことを言われた。
「なんだかずいぶん明るくなったっていうか……ほら、前はちょっと、とっつきにくい子だなぁなんて思ってたから」
佐藤さんはそう言って私の前で笑う。
「最近すごくいい顔してるわよ。もしかして、ボーイフレンドできたんじゃない?」
「そんなんじゃないです」
私が言うと、佐藤さんはまたおかしそうに笑った。そんな私たちのことを、ずいぶん大きくなったお腹を抱えて、祥子さんが眺めている。
外が寒くなっても、このお店の中はあたたかい。甘い香りと、やさしい視線に包まれて、私は少しずつ自分を取り戻していた。
隼人くんがお店にきたのは、すっかり陽が短くなった寒い日。
「どうも……」
ひょこっと自動ドアから顔をのぞかせた隼人くんは、なんとなく落ち着かない様子だった。
「あら、久しぶりじゃない! 野球少年」
「ご無沙汰してます」
「入って入って。外寒いでしょ?」
祥子さんにうながされながら、隼人くんはドアの外を指さす。
「えっと、今日は新しいお客さんを連れてきました」
「え?」
「どうぞ、入ってください。弓香先輩」
隼人くんの後ろから、ひょっこり現れたのは、あの弓香さんだった。
「こんばんは」
弓香さんは祥子さんに言う。
「まあまあ、いらっしゃい。やぁねえ、隼人くんの彼女?」
「ち、違いますって! この人は、元野球部のマネージャーさんです!」
大げさに否定する隼人くんの隣で、弓香さんがぺこりとお辞儀をしてから答える。
「こちらのパンがすごくおいしいって康太から聞いて……でもなかなか連れてきてくれないんで、後輩の隼人に連れてきてもらったんです」
「あら、そう。康太が宣伝してくれたの。あの子も少しは役に立つわね」
いつものように笑っている祥子さんの向こうから、弓香さんが近づいてきて、そして私に言った。
「こんばんは。志乃ちゃんでしょ?」
「……はい」
「康太から聞いてる」
なんでも聞いてるんだ……この人は、どこまで知っているんだろう、私のこと。
「んーっと、なにかおすすめのパン、ある?」
弓香さんがお店を見回しながら私に聞く。
「どれもおすすめですけど……カツサンド、とか?」
「カツサンドかぁ……おいしそうだけど、ちょっと重いかな。甘いパン、ある?」
「クリームパンとかチョコレートパン……康太くんは、あんぱんが好きです」
「あ、じゃあ私もあんぱんにする!」
弓香さんがそう言ってにこっと笑う。そしてお金を出そうとした弓香さんに、祥子さんが言った。
「いいわよ、今日はサービス。また買いにきてちょうだいね?」
「わぁ、いいんですか? ありがとうございます!」
ぺこっと祥子さんに頭を下げて、弓香さんは私にもう一度笑った。
あんぱんのほかにも、売れ残りのパンをいくつかもらって、弓香さんは満足そうに帰って行った。その途端に隼人くんがはぁーっとため息をつく。
「俺正直、あの人ちょっと苦手なんすよねぇ」
隼人くんの言葉に祥子さんが尋ねる。
「あら、どうして? 元気で素直で、いい子そうじゃない?」
「確かに素直ですよ? でも直球すぎて、俺はちょっとひいちゃうっていうか」
「おばさん、意味わかんないんですけど?」
「わかんないんすか、祥子さん。あの人、康太先輩にベタ惚れなんですよ!」
「えー? 康太にー?」
驚いた顔で祥子さんは言ったけど、私にはわかっていた。
弓香さんは康太くんのこと、すっごく好きなんだなぁって……。
「祥子さん、言っときますけど、康太先輩は意外とモテるんですよ?」
「へー、あの康太がねぇ……」
祥子さんはお店にいつもの椅子を持って来て、「よっこらしょ」と腰をおろす。
「祥子さんは先輩の、ちゃらけたとこしか見てないでしょ? 先輩が野球してるとこ、見たことないでしょ?」
「確かに見てないわね」
「見たら惚れますって。絶対カッコいいですから」
そしてちらりと私の顔を見てから言った。
「弓香先輩は、中学のときから康太先輩のこと見てるから……カッコいいところも、カッコ悪いところも全部ひっくるめて……惚れてるんです」
「なるほどね」
祥子さんはそう言ってから、再び隼人くんに聞く。
「で、康太に惚れてる彼女が、なんでうちに来たの?」
「はぁ? わかりませんか? わからないんですか? 本当に祥子さん、わからないんですか?」
「うるさい子ね。さっさと言いなさいよ」
隼人くんは祥子さんの前でため息をついて、そして言った。
「志乃ちゃんを見に来たに決まってるじゃないですか」
「志乃ちゃんを?」
「ライバルだと思ってるんじゃないですか? 志乃ちゃんのこと」
心臓がとくんと動いた。
――実は志乃、柴田くんにコクられて喜んでるんじゃないの!
突然、初音に言われた言葉が頭に浮かぶ。
やだ……いやだ。そんなふうに思われるのはいやだ。
「あは、なーんだ。かわいらしいこと」
あっけらかんとした祥子さんの声が耳に聞こえる。
「そういえば私もあったなぁ……私ね、サッカー部のキャプテンが好きでね。でもその彼、すっごくモテモテだったから、周りの女の子全部ライバルに見えてきて」
「何百年前の話ですか?」
隼人くんを軽く小突いて、祥子さんは続ける。
「卒業式の日に思いきって告白したら、フラれちゃった。まぁ、そのおかげで、今の私があるわけだけど」
祥子さんは愛しそうにお腹をさすりながら私を見る。
「うまくいく想いも、うまくいかない想いもある。だけどそれでもいいじゃない。人間どこでハッピーエンドになれるかわからない。それより大切なのは、自分の気持ちを、相手に伝えられるかどうかなんじゃないかなぁ……」
「んー、そんなもんですかねぇ……」
「そんなもんよ」
首をかしげる隼人くんの前で、祥子さんが声を立てて笑う。
私は祥子さんの言葉を胸の奥に大事にしまった。
私は伝えることができるだろうか。
自分の想いを――大切な人たちに……。




