13
その夜、「こむぎや」に来た康太くんは、いつもと変わらなかった。
「そういうわけで、ちょっと予定より早く暇になっちゃったんで、パン屋でバイトでもしようかと思ってるんですよねー」
「はぁ? なに言ってんの、康太。あんたにはこれから、やることがあるでしょう?」
「やること?」
「受験勉強」
祥子さんの言葉に「げー」なんて言いながら、康太くんが頭を抱える。
いつもと変わらない二人のやりとり。いつもと変わらないはずなのに、私の気持ちはなんとなく重い。
「で、隼人は?」
一通り言い合ったあと、ちょっと真面目な顔で祥子さんが言う。
「今日は帰った」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、あいつは。明日になれば、けろっとした顔でパン買いに来る」
康太くんが私の前にお金を置く。私は奥からパンを持って来て、康太くんに渡す。
「康太は?」
そんな康太くんに祥子さんが言った。
「あんたは大丈夫なの?」
「なにが?」
一瞬動きを止めて、康太くんは祥子さんに振り返る。祥子さんは穏やかな顔つきで、康太くんに笑いかけた。
「悔しかったんじゃないのかなぁ、なんて思ったからさ」
「負けたから?」
「そうじゃなくて。本当は思ったでしょ? もし自分が投げてたら……って」
何か言いかけてやめた康太くんの前で、祥子さんは振り向き、今度は私に微笑んだ。
「ま、人生いろいろあるよね。頑張ってもどうにもならないこととか。いっぱい」
祥子さんの話が長くなりそうなのを察したのか、伝助さんがさりげなく椅子を差し出す。祥子さんは「よっこらしょ」なんてお腹を抱えながら、私たちの前に腰をおろす。
「私はさ、あんたたちよりちょっと長く生きてるから言わせてもらうけど。生きてると、悔しいこととか悲しいこととかたくさんあるのよ」
そう言って祥子さんは、愛しそうにお腹をなでる。
「だけど私はね、不器用でも一生懸命生きてる人が好き」
祥子さんが康太くんを見て、そのあと私の顔を見る。
「そういう人が好きなのよ」
祥子さんは穏やかにそう言った。
いつも明るい祥子さんにも、悔しいこととか悲しいこと、いっぱいあったんだろうなって思う。
私は祥子さんみたいになれるかな? 今は自信ないけど……なれたらいいな。
「祥子さんって怖いよな」
生ぬるい夜風を受けながら、康太くんと坂道を歩く。また明日から雨が降り出すらしく、空気はじっとりと重かった。
「俺が持ってる腹黒い気持ちとか、全部祥子さんに見透かされてる」
康太くんは私の隣で少し笑って、夜空を仰ぐ。
「隼人の前では偉そうなこと言ってるけどさ、実は内心思ってる。なにやってるんだよ、あいつ。あいつなんかより俺が投げてれば……って」
康太くんの頭の上で、桜の木がざわっと揺れる。
「とか言って、俺が投げても、結果はさらにボロボロだろうけど」
乾いた笑い声を立ててから、康太くんがふと立ち止まる。私も足を止めて、康太くんのことを見た。
「そんで、そんなこと考えてる自分に、たまらなく腹立つ。俺って結局、全然成長してないんだよなぁ」
康太くんの視線が私に移った。私は深く息を吸い込んでから、少しずつ想いを吐き出す。
「でも、頑張ってると思う」
私の声が、静かな空気に浮かぶ。
「康太くんは……一生懸命、生きてると思う」
「志乃ちゃん……」
康太くんが真っすぐ私のことを見た。私は恥ずかしくなって、さりげなく視線をそらす。
「あー、やっぱり俺、間違ってなかった!」
急に納得したような声で、康太くんが言う。
「やっぱり志乃ちゃんにしてよかった!」
わけがわからないまま、康太くんを見る。康太くんはなんだか嬉しそうに私を見ながら言った。
「この前の約束」
「え……」
「ちょっと予定より早かったけど……いいよね?」
どうしよう……私の心臓、ドキドキしてきた。
「日曜日の午後、祥子さんに言って休みもらいなよ。どこか遊びに行こう?」
「えっ、あ……でも……」
「『でも』とかなし! 日曜日、迎えに行くから。ねっ?」
勝手にそこまで決めて、康太くんは私の顔をのぞきこむ。
お願いだから、そんなふうに私のこと見ないで? どうしたらいいのかわからなくなる。
康太くんの前で、こくんと小さくうなずいた。康太くんは笑って、そしてゆっくりと歩き出す。私は少し戸惑いながら、康太くんのあとを追いかける。
一歩ずつ、一歩ずつ……康太くんに近づいていけたらいいなって思った。




