12
梅雨明けはまだなのに、もう夏がやってきたかのように、真っ青な空が広がった日。朝から祥子さんはそわそわしていた。
「あー、もう、大丈夫かしら、あの子たち」
「あんたがそわそわしてどうするの。だったら店番は僕がやるから、球場行って来たらどうなんだい?」
「いや、だめよ! 生でなんか見れるわけないじゃない! あー、考えただけで心臓がもたないわ」
私はお店にパンを並べながら、祥子さんと伝助さんの会話を聞く。
今日は康太くんたちの試合の日だ。意外と心配性の祥子さんは、実は試合が気になって仕方ないみたい。
「ねぇ、志乃ちゃん。ちょっと様子見てきてくれない?」
「えっ」
「自転車十五分もこげば着くでしょ? 店番は私一人で大丈夫だから。ほら、早く。試合終わっちゃう」
祥子さんに背中を押される。だけど私の足はためらっていた。
学校を辞めてから、ほとんど家の中で過ごした。誰かに会うのが怖くて……私の一言で、また誰かを傷つけてしまうのが怖くて……。
祥子さんにお店の手伝いを頼まれてからは、家と店の往復だけをしていた。大好きだった買い物も行かないし、外で食事をすることもない。
ましてや一人で、行ったこともない場所へ出かけるなんて……そんなことをしていたのは、もうずっと昔の出来事のような気がする。
「志乃ちゃん」
祥子さんが私の名前を呼んで、にっこりと微笑む。「大丈夫よ」って言っているみたいに。
私は顔を上げて、自動ドアの向こう側の、青い空を見つめた。
真夏のような空の下、祥子さんに借りた自転車を走らせた。
日差しが肌にじりじりと照りつけ、生ぬるい風が全身を包み込む。
人も車も家も、次々と私の視界から消えてゆき、また新しい世界が広がる。
交差点の信号でブレーキをかけた。その時ふと、康太くんの言葉が頭に浮かんだ。
――この大会が終わったら、二人でどこか遊びに行かない?
じんわりと胸が熱くなる。汗ばむ手でハンドルを握り直す。
目の前の信号が青に変わった。私はまたペダルを踏み込み、スピードを上げる。
ずっと止まっていた時間が、いきなり動き出したみたいだった。
康太くんたちが試合をしている市民球場は、祥子さんが言った通り十五分で着いた。
球場から少し離れた駐輪場に自転車を止める。そして息を整えるように深呼吸をしたとき、わあっという歓声がスタンドから響いた。
気がつくと私は走り出していた。康太くんがいるはずのスタンド席に向かって。
薄暗い階段を駆け上がると、眩しい日差しと共に、グランドの景色が飛び込んできた。
マウンドの上で、呆然と突っ立っている選手の背中に、十一番の背番号。
大歓声が沸き上がっているのは、相手チームのスタンドだ。
私は息を切らしながら、祈るような気持ちで周りを見回した。
反対側のスタンドで、がっくりとうなだれている、ユニフォーム姿の野球部員たち。
その中に、じっとグランドを見つめている、康太くんの姿が見える。
延長戦で、初めてマウンドにあがった隼人くんが浴びた、一本のホームラン。そのたった一点で、康太くんたち三年生の夏は、あっけなく終わった。
試合が終わった後、みんなの前で、ぼろぼろと泣いている隼人くんを見た。
自分が打たれたせいで負けてしまった。三年生に申し訳ないって、何度も言いながら……。
「いい加減にしろっ! いつまで泣いてんだよ」
そんな隼人くんに声をかけたのは、康太くんだった。
「打たれちまったもんはしょうがないだろ? 次のこと考えろ」
「ムリです。俺、康太先輩とは違うから……」
「ムリとか言うな。それからもう、俺のことは忘れろ」
「え?」
康太くんがちょっと笑って隼人くんを見る。
「俺が野球を教えてやったのに、悔しいけどさ。今のお前は、俺なんかとっくに超えてる。だからもう、こんな先輩のことは忘れて、自分の思うとおりにやれよ」
「こ、康ちゃん……」
また泣き出しそうな隼人くんの頭を、康太くんがぐりぐりいじってる。
「ただし、ビビった投げ方したら、どうなるかわかってんな?」
泣き笑いの隼人くんの前で、康太くんがいつもみたいに笑う。
いいなぁ、と思った。
こんなふうに泣いたり笑ったりできる二人が、すごく羨ましい。
「康太っ」
そんな康太くんに女の子が一人駆け寄ってきた。
小柄でボーイッシュな感じの、康太くんたちの学校の制服を着た子。私は少し離れた場所から、その姿を目で追う。
「あんた大人になったねぇ? この前までビービ―泣いてたくせに」
「はぁ? 俺がいつ泣いたって?」
女の子は、野球部のマネージャーみたいだった。ショートカットの髪に野球帽をかぶって、康太くんのそばで親しげに笑っている。
「泣いたじゃん、私の前で。『もう野球なんてやめるー』ってさ。都合の悪いことはすーぐ忘れるんだから」
女の子が康太くんの背中をぱんっと叩いて、康太くんが「いってーなー」なんて言ってる。
私はぼうっと突っ立ったまま、そんな光景を見ていた。
それは、私が絶対入ることのできない、私のなくした眩しい世界だった。




