10
雨はもう一週間も続いていた。私は店番をしながら、薄暗くなった景色を眺める。
さっき傘を差したおじいさんが通り過ぎたあと、店の前に人通りはない。
「今日はもう閉めようか」
祥子さんと伝助さんの話し声が聞こえる。
ちらりと時計を見上げ、時間を確認した後、視線を戻したら目の前に康太くんがいた。
「い、いらっしゃいませ」
条件反射のようにその言葉が出る。康太くんはカウンターの上にお金を置いて
「いつものください」
と言う。
かすかに震える手で、康太くんのために取っておいたパンを渡す。ほんのちょっと触れた康太くんの手は、雨のせいか濡れていた。
「この前は……」
康太くんの声に体がこわばる。
「ごめんな?」
うつむいたまま首をふる。康太くんがどんな顔をしていたのか、私には見えない。
かたんと小さな音がして、康太くんの気配が遠ざかって行く。
「康太」
私の背中で声がした。祥子さんがいつの間にか、私の後ろに立っていた。
「謝る気持ちがあるのなら、ちゃんと志乃ちゃんに話しなさい。あんたが今、思ってること」
康太くんが立ち止る。私に背中を向けたまま。
「はいはい、今日はもう店じまいね」
祥子さんが明るい声でそう言って、どんよりした空気を払いのけるように手を叩く。
そしていつものように私のエプロンをはずして、にっこり私に微笑みかけた。
雨の中に、ぱさっと傘を開く。
祥子さんにうながされ、帰り支度をしてきた私のことを、康太くんは黙って待っていてくれた。
どちらともなく歩き始めるけど、私たちの足取りは重い。
傘にパラパラと響く雨の音。じっとりと肌に張り付くような空気。
何か……何か言わなくちゃ……。
だけどきっとまた傷つける。私の言葉はいつも誰かを傷つけてしまう。
ふんわりと、私の頭をなでてくれた康太くんの手。
ひらりと膝の上に舞い落ちた、一枚の花びら。
そんなふうに私も、康太くんの心をあたためてあげることが、できたらいいのに……。
「……俺さ」
坂道の途中で、康太くんがひとり言みたいにつぶやいた。
「部活も学校も、何もかも辞めちゃおうかと思ったんだよね。もう、同じようには投げられないってわかったとき」
傘の陰から、康太くんの横顔をそっと見る。
「そしたらさ、祥子さんが言ったんだ。だったら、あんたにできることをやればいいって。あんたにしかできないこと、まだあるでしょって」
一台の車が水しぶきをあげて通り過ぎ、あたりはまた静まり返った。
康太くんはちょっと傘を傾け、ほんの少し表情をゆるめて空を仰ぐ。
「試合中に、スタンドの上からぼうっと見てると、今まで気づかなかったものに気づいたりする。マウンドにいるピッチャーの後ろで、必死に声出して守ってるやつとか、誰かのミスを、さりげなくカバーしてるやつとか……あー、俺も今まで、こんなに周りに助けられていたんだなぁって」
隣で立ち止まる康太くんを見た。康太くんは傘を閉じて、自分に言い聞かせるように言う。
「だから今度は俺が、あいつらを助ける番。グランドから見えないものが見えるのは、俺だけだから」
心の奥に何かが響いた。康太くんの言葉が、じんわりと深いところまで伝わってくる。
康太くんはそんな私に視線を移して、ふっと笑った。
「なぁんてな。頭ではわかっていても、時々どうしようもなく逃げたくなる。そんな自分が死ぬほど嫌だ」
私は黙って康太くんを見ていた。康太くんは夜空を指さして私に言う。
「雨、もう止んでるよ」
はっと気づいて空を見上げる。ほんとだ。雨はいつの間にか止んでいた。
おずおずと傘を閉じると、康太くんが歩き出した。私は傘を持って、その背中を追いかける。
私たちの上に広がるのは、もう花の咲いていない桜の木。
緑色の葉の下で、私は康太くんの隣に並ぶ。
思いつく言葉なんて何もない。何を言っても、私の気持ちは伝わらない気がする。
康太くんの歩くペースが落ちた。私の歩幅に、さりげなく合わせてくれていること、初めて一緒に帰った日から知ってる。
私は自分の右手をすっと差し出した。
「し、志乃ちゃん?」
ちょっとうわずったような康太くんの声。聞こえないふりをしている私の心臓も、壊れてしまうんじゃないかって思うほどドキドキしている。
康太くんはちらりと私を見たあと、それ以上何も言わずにまた前を向いた。
雨上がりの坂道を、康太くんの手を握って歩く。
初めてつないだ男の子の手は、私よりも大きくて、とてもあたたかかった。




