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やわらかな日差しを浴びながら、長い坂道をのぼっていく。
淡い色の花びらが、ひらり、肩へと舞い落ちる。
あ、桜。
坂の途中で立ち止まり、空を仰いだ。
いつの間にか満開になっていた公園の桜が、私の上からひらひらと、花びらを散らす。
もう、桜の季節なんだ……。
坂の上から、どこかの高校の制服を着た女の子と、スーツ姿のお母さんが歩いてくる。
今日は高校の入学式。
晴れやかな笑顔の親子を見送りながら、去年の自分を思い出し、ちくりと胸が痛む。
大きく息を吸い込み、ゆっくりそれを吐き出す。そして私はまた、一歩ずつ歩き始める。
空は青く、空気はあたたかく、風はやさしく吹いていた。
***
「こむぎや」という名前の、小さなパン屋さん。
私のお母さんの妹である祥子さんが、夫婦で経営しているこのお店で、私は一か月前からアルバイトをしていた。
「おはようございます」
重いドアを開き厨房へ入ると、甘くてやさしいパンの匂いが漂ってくる。
「おはよう」
パンを丸めながら私に笑いかけてくれるのは、祥子さんの旦那さんで、この店のご主人の伝助さん。
伝助さんは、今年四十になる祥子さんより二十歳も年上で、帽子をはずすとちょっと頭が薄かったりする。
そんな伝助さんのことを祥子さんは、「『おじいちゃん』って呼んでもいいからね」なんて、ふざけた調子で言う。だけど伝助さんはそれを聞いても、ただにこにこと笑っているだけ。
口数は少なくても、伝助さんはすごくやさしい叔父さんなのだ。
「あ、志乃ちゃん、おはよー!」
店でパンを並べていた祥子さんが、ひょこっと顔を出す。祥子さんはとにかくいつも元気だ。
「おはようございます」
「さっそくだけどさ、これちょっと手伝ってくれない?」
祥子さんが私に手招きして笑う。「はい」と返事をして、私は祥子さんのもとへ向かう。
坂道の上の、住宅街の中にひっそりと建っている「こむぎや」さん。
お店は小さくて古いけれど、日当たりは良くていつも明るい。
売っているのは、今どきのおしゃれな名前のパンではなく、昔ながらのあんぱんとかクリームパンとかカレーパンとか……それから祥子さんお手製のサンドイッチが並んでいる。
お客さんは近所の常連さんがほとんどで、エプロンをつけたおばさんや、パン好きのハイカラなおばあちゃん、それに百円玉を握り締めてくる小さな子どもたち。
みんな「こむぎや」のパンが大好きで、パンを買いにきたついでに、祥子さんと楽しそうにおしゃべりをしていく。
そして伝助さんの作るパンは、とってもおいしい。
「おはよう、志乃ちゃん」
「いらっしゃいませ」
「食パン、焼けてる?」
今日一番のお客さんがやってきた。月曜日と水曜日と金曜日に必ず食パンを買いにくる、近所の佐藤さんだ。
「はい、焼けてます」
お客さんと会話をするのは、今でもすごく緊張する。
「あら、志乃ちゃん、ちょっとごめんね?」
佐藤さんの手が伸びて、私の髪に触れる。私はちょっと驚いて、体をきゅっと固くする。
「ほら、桜よ」
にっこり笑った佐藤さんの指先に、淡い色の花びら。
「ああ、公園の桜、満開だものねぇ」
焼きたての食パンを持って来てくれた祥子さんが、私の隣に並ぶ。
「そうそう、今日なんてあたたかくて絶好のお花見日和」
「そういえばお花見なんて、何年もしてないわ」
「行ってきなさいよ、あなたはちょっと働き過ぎ。私が店番してあげるから、たまにはご主人と二人でさ」
そう言ってから佐藤さんは、私を見てまた笑った。
「志乃ちゃんも。ボーイフレンドとね?」
「ありがとうございましたー」
大事そうに食パンを抱えて、佐藤さんが店を出て行く。
「お花見かぁ……あのじいさんとじゃ、ロマンもなにもないけどな。志乃ちゃんは彼氏でも誘って、行ってきていいからね」
「彼氏なんて……いないから」
「あらー、もったいない。そうねぇ、うちに来るお客さんで若い男の子といえば……」
祥子さんはいつもの調子で、どんどん話を進めていく。ぼんやりした私には、全くお構いなしで。
私とは正反対のそんな性格の祥子さんは、嫌いではなく、むしろ好きだけど。
「そうだ! 康太なんてどう?」
私の前でぽんっと手を叩いてその名前を言った後、「やっぱだめかぁー」と祥子さんは頭をひねる。
「あんなうるさくてガサツそうな男、志乃ちゃんのタイプじゃないよね。志乃ちゃんにはもっと、なんていうか、こう……白馬の王子様的な?」
苦笑いする私を無視して、祥子さんはすっかり自分の世界に入ってしまった。意外と祥子さんって「夢見る乙女」なんだ。
「志乃ちゃん」
一通り妄想し終わったような祥子さんは、私にくるりと振り返る。
「『王子様』が見つかったら、叔母さんにもちゃんと紹介してね?」
穏やかに微笑む祥子さんに、私は「はい」とうなずいた。