第九話
『滓』の大半は、あの世のヒト以外の生き物の身体を強奪して現れる。
『半壊の者』が人間に取り憑くと、『滓』はその気配を察知して続々と現れる。
『滓』が出現するのは、光の少ない夜に限る。
『滓』は『半壊の者』と同じく、この世の生き物には見えない。つまり、奴らとの戦闘を何も知らない人が見れば、ただの怪しい人ということになるらしい。
それに関連して、『滓』に殺される時、俺は心臓麻痺で死ぬんだそうだ。しかし沙実によれば、服を着ている限り死ぬなんてことは殆ど無い、とのこと。
とりあえず、これが『滓』の予備知識──、RPGで言えばモブキャラクターのような物だな。戦利品は何も落とさないが。
そういうわけなので、いつでも奴らと応戦できるように、割り箸を常備しておくことにした。武器としては究極にダサイかも知れないが、誰にも見られないのだから格好つける必要もないし、低コストだし、想像以上にまともな戦闘ができる、持っていても怪しまれない、昼休みに箸を忘れた奴に恩を売ることができる、全く非の打ち所のない代物だ。あの世と関わって、割り箸の評価をここまで上げることになるとは思わなんだ。
二日後、また俺は彼らと出会うことになる。しかし、今度の場所は人気の少ない田んぼ道ではなかった。
部活が終わり、頼りない電灯だけで寂しく照らされた駐輪場で自転車を解錠したとき、空間の裏側で鳴っているようなリアリティに欠ける音がどこからともなく聞こえてきた。
「──なぁ、あの音って……」
「……うん、『滓』だね」
「えぇ! 何でここに出るんだよ!」
「仕方ないよ、出ちゃったものは」
そんな言い訳で片付くなら、世渡りに苦労しないぜ。でも出現してしまったのなら、確かにしょうがないな。帰ってくれ、って言ったら消えてくれるような連中でもあるまいし。
といっても、ここで戦闘するのはマズイ。『滓』の姿は他人に見えず、俺にしか見えない。つまり、俺は割り箸を持って振り回している変人として目撃されてしまう。
「場所変えられるか?」
「多分、逃げても追いかけてくるから、人気のないところまで逃げれば大丈夫だと思うよ」
俺はすぐさま自転車に飛び乗ると、いつもよりも一割増しくらいの速度で走らせ始めた。
校門を出てすぐ辺りで、『滓』の足音がより大きくなり、やがて姿を現す。ウサギとトカゲの中間の様な姿でドーベルマンほどの体躯の奴が、脚を凄絶な勢いで回転させて俺の後ろを追ってきていた。前を向いてないと危ないので直接確認できないが、足音を聞く限りではその後ろにまだ数匹いるようだ。
「こいつらめっちゃ速いな……」
「むしろ、それくらいしか長所がないしね」
俺のぼやきに沙実は平べったい調子で応える。
「なら短所は何だ?」
「うーん、あいつらこの世に干渉できないのに、この世からはされ放題なんだよ。小石を蹴飛ばそうと思ったらそいつの脚がひしゃげるし、割り箸でも簡単に殺される。それを自覚してないのが最大の短所だよ」
普通の説明なのに、どこか『滓』への嫌悪感を感じる口調だった。気のせいか──?
──しかしなんだか、さっきから背後で嫌な気配がする。どうも違和感があったので後ろを見てみると、なんと荷台の端っこに『滓』が食らいついた。
「うぉっ!」
「わあ! 前見て、前! 危ない!」
俺の首にしがみついた沙実が大きな声を出す。安心しろ、俺は自転車歴十年だ。ちょっとくらい目を離しても転ぶことはない。
しかし、こいつもジョーズさながらの食いつきっぷりだ。尖った口先を広げて毒々しい歯茎をむき出しにして、鋼鉄のような牙をチャリのキャリヤにひっかけている。それでもこいつはもう俺の元にはこれまい、と踏んで前を向き直した。両手で捕まってるならまだしも、噛み付いてるんだからな、不可能に近い。
俺達は夜の田んぼ道に突入した。あともう少しで、初めて連中と遭遇した場所にたどり着く。あそこまで到着すれば、もうこっちのものなんだが。
と、いったところでふいに骨盤のあたりから、湿った紙を肌に勢い良く貼り付けたような音がした。ぞっとして振り返ると、『滓』が荷台によじ登り切って、その塗りつぶしたような眼で俺を見つめている。
俺が愕然としていると、沙実が叫んだ。
「前、前!」
「後ろのがヤベぇよ!」
すかさず叫び返す。いくら『滓』が服にさえ干渉できないのであっても、むき出しの首筋にでも噛み付かれたら、痛いとかいう騒ぎでは済まない。
──仕方ないな。この自転車には少し痛い目に遭ってもらおうか。
俺は意を決してペダルから足を離して素早くサドルの上に立ち上がると、自転車がこけないうちに思い切りサドルを蹴りつけて跳躍した。
ああ、暗い地面が近づいていくる。ああ、遠くで自転車が転倒する悲惨な音が聞こえる。
咄嗟に地面へ手を付きだすと、想像以上に強靭な力で俺の体重を受け止めてくれたので、それほど大したダメージはうけなかった。自転車の倒れた方を見やると、『滓』と一緒にのびている。どこも壊れてないと良いが──。
では後続の奴らを倒すとするか。俺は制服の上着ポケットから割り箸を取り出す。その拍子に、「おてもと」の袋がひらりと舞い落ちた。
「沙実、身体を貸すぞ」
「んー……、どんぐらい?」
「え、どんぐらいって……?」
「何かさ、全身を借りると疲れちゃって……、半分くらい貸してくれれば十分だよ」
なんだそりゃ。俺は毎日全身操ってるんだぞ。
「なら半分で頼む」
「分かった」
直後に、何かが身体に滑りこんでくるような感覚があった。でも、あまり体感的には変わらないな。
俺は割り箸を握り直して駆け出す。まず手頃な場所にいる一匹に手をかけようと、割り箸を振り下ろした瞬間、世界が変わっていることを知った。一昨日までただの映画感覚だったものが、一気に某アミューズメントパークにあるアトラクション並のリアリティを帯びていたのだ。
俺が適当に振るった場所に『滓』の頭部があって、適当に身体を屈めると上半身があった場所に『滓』が飛び込んできて、適当な所に割り箸を投げてみると丁度そこに『滓』が居て、といった具合に、俺は快刀乱麻に化物を駆逐していく素晴らしい爽快感を得た。それは、沙実の采配の賜物なのだろうが、あたかも俺が戦闘能力を得たような感覚だ。
十分ほどそんなことを続けていたら、やがて『滓』達は潮が引くように去っていった。
「良かった、無事だ……」
俺は自転車を立ち起こして、そう呟いた。チェーンもギアも健在なら、それで良い。
「よし、帰るか」
そして、沙実に呼びかける。沙実は虚ろげに星がばらまかれた夜空を振り仰いでいるようだったが、俺の声を聞いた途端驚いたような顔になった。それから窺うような目付きになって言う。
「あのさ……明日、夜中にちょっと出かけたいんだけど大丈夫?」
「夜中? 何でだよ」
「うーんと……、テ、テストがあるから」
「何の?」
「私の」
何となく思わせぶりな言葉を俺は訝しんだものの、すぐに了承した。日頃受けている恩を考えると、ここでその頼みを却下するのは酷な気がしたからだ。どうせほとんど疲れない体だし。沙実はほっとしたように頬を緩ませると、自転車の荷台に跳び乗った。その無邪気なさまを見て俺は苦笑いをし、サドルにまたがる。
これが、沙実があのとき言っていた、繰り返しの毎日を更生させるということか。
なるほどこんな非日常、現代の感性に汚染され創造性が鈍り、真上にぽっかりと浮かぶ現実にいつか触ろう、と愚考していた俺にはとびきりの刺激に違いない。
でも何だか違う気がするんだよ。
もっと、俺にとって重要なことが他にある気がしてならないんだ。
翌朝。
俺はいつもどおり、誰もいない教室に入室した。脚力が格段に上がったのか、自転車を漕ぐスピードが三割増しくらいになったので、以前よりも大分早い登校になってしまう。宿題だって無いも同然の速さで終了してしまう。何もすることがなくなって、すこぶる暇だ。
明かりの灯っていない蛍光灯を見上げながら、俺はふと思い立つ。そうだな、部室にでも行ってみるか。例の空白の期間を埋めるためにも、いくらか朝練でもしてみようかな。
しかし、世の強豪校なんてものは、当たり前のように朝練なんてしてるのに、うちのところは全く朝練はしない。だから、毎年コンクール出場したところで、行っても県大会止まりなんだよな。俺が部長になったら、朝練を発案してみようかね。──なったらの話だが。
階段に差し掛かったところで、またいつもの衝撃が脳内を襲った。沙実が起きたのだ。
「……おはよう」
スライムのようにとろけた声が脳内に響く。俺はげんなりとした気分を隠さずに訊ねた。
「──なぁ、どうして俺とお前は別々に覚醒するんだ?」
「うん……? だって、眠いじゃん」
からっきし的を得てない回答だな。肉体がないのに、どうして俺よりも惰眠を貪れるんだか、詳細に教えてもらいたいもんだ。
部室は鍵がしまっているものの、合鍵が消化器の裏側に隠してあるので、それを使って入ることができる。危ないように思われるが、夜はセキュリティーシステムが見張ってくれるので、あとは部員の良心に委ねられている。
合鍵を元の位置に戻してから扉を開けると、がらんどうとした部屋に並べられた机と椅子の一つに、沙実が悠然と座っていた。
「おい」
「たまには先を越されておかないとね」
沙実は初めて百点をとった子供の様な笑みを浮かべて言った。目が覚めて数十秒後に悪戯とは、なかなかやってくれる。
なんだか練習する気も失せてしまった。──何だかんだで、沙実の恩恵によって俺の演奏スキルも上昇しているようなので、ブランクはそこまで気にすることでもない。
俺が、歴代の大会の賞状を何気なしに見ていると、
「何か、変な人だよね」
沙実は揶揄ではない調子で言った。
「変って、俺がか?」
「うん」
「……それは多分、他の人間を知らないからだろ」
「多分そうなんだろうけど、でもきっと違うんだと思うよ」
「──まぁ、そりゃあ十人十色っていうからな」
俺は何かしこりを感じながら返事をした。きっと、沙実の提示している話題に対してこの答えは不適当なんだと思う。だが、変だと言われる謂れも無いからな。
「んー……、だとしたら──」
沙実が口を開きかけた瞬間、扉が開いたので、二人してぎょっとしてそちらに視線を向ける。
笠原が扉を開いた姿勢のまま、きょとんと目を硬直させて俺を見ていた。
「おぉ、びっくりした……」
俺が意図せずに呟くと、笠原は恐縮したように、
「あ、ごめんね」
「いや、どっちかっていうとその戸がボロいからいけないんだと思うが……。あーっと、朝練か?」
「ううん、忘れ物を取りに来たんだけど」
そう言いながら吸い寄せられるように、俺が賞状を拝んでいた付近の戸棚に歩いて行くと、折れた鉛筆やら楽譜の残骸などでごちゃごちゃした中身を覗いて唸った。
「ううー……」
俺も笠原の肩越しに、その中を見やる。
「あぁ……」
そういや、そこは忘れ物が無造作に放り込まれる場所だったな。乱雑な管理ではあるが、無条件に忘れ物が消えるという合唱部よりはマシだろう、というのが部長の論だ。
なんだかいたたまれないので、俺も隣に行って中を見てみる。
確かに、汚い。ネズミ一家がこんにちはしても、それほど不自然でも無さそうな空間だ。
「これ、多分何代も前から貯めこまれてるな──初めて見たけど凄まじいな」
「んー……」
見るからに困ってる。うさ耳が頭についていたとしたら、ワカメのようにしなっと垂れていることだろう。
「何忘れたんだ?」
「──お弁当」
笠原は視線を逸らして、恥ずかしそうに言った。こちらも口の中がむずむずしてくる様だ。
しかし、もし弁当がこの戸棚に放りこまれているのだとしたら──。
「ご、ご愁傷さまですが……」
「で、でも洗えば……!」
「ゴキブリが一度でも入った弁当だぜ──」
「入ってないよ! 多分……」
「でも、こん中に一晩だよな」
「──」
絶句してしまった。いや、悪いとは思いながらも、ついからかっちまう。俺がこの立場だったら、胃がしこたま痛くなるだろうとは思うのだが。
俺は贖罪のために、少し中をかき回してみた。幸い、有機物はないらしい。大量のペン類、黄ばんだ楽譜の他に、埃にまみれたマイクやら、割れたレーザーディスクやらレコードやら、一番下の部分がないリコーダーに、数年前の年が書かれた某難関大学の赤本。本当に忘れ物なのかこいつら。
「でも、弁当なんてのは無さそうだな」
深く探れば出てきそうな気がするが、沙実によって鋭敏にされた感覚が、無い、と断言している。
「うぅん、どこいっちゃったんだろう……」
笠原は、俺の口から弁当箱が出てくるんじゃないかと期待するような目で見つめてきた。
「さぁ……」
と俺は、上方に視線を逃がす。困っているのは分かるが、それにしても心当たりがないからどう答えればいいのか分からない。ここは、一緒に探してあげるよ、程度の台詞を言える甲斐性が要されるのだろうか。
神様によって齎されたような沈黙。視線を逸らしたことが怒りに触れましたか。
俺は恐る恐るもう一度笠原を見た。なんだか、真正面を除く三方向が厚い壁に覆われているような気分だ。悪い意味でなく、な。
笠原は一瞬目を瞠ると、すぐに言った。
「あのっ」
「うん?」
「うち、部長は倉敷君がいいと思うなっ」
突然を三乗したくらいの唐突さに、心臓に張り手を食らったような衝撃が俺に迸った。あれから、部長の件に関しては誰にも話してないのに。とりあえず、六月に入るまでは持ち出さないようにしていたのに──。まぁ、噂なんてあっという間に広まるもんだから、不思議ではないか。
笠原は続ける。
「最近、勉強も頑張ってるし、スポーツも大活躍だし、楽器も上手くなってるし、皆に信頼されてるし、──ぴったりだと思う」
「……」
俺は黙った。真摯に言う笠原の瞳の奥に、海の静けさに似たものを垣間見た気がする。
確かに勉強はできる。英語は日本語同然、数学等問題が答えのようなもので、日本史も昨日実際に見てきたような感覚がある、負ける筈がない。スポーツもできる。走っても疲れないし、反射神経がとんでもないことになっている。楽器、については語っていないが、最早俺の一部の様に扱える。顧問も目を見開いていたっけか。
そして、これは自分で言うのはどうかと思うが、容姿が良くなった、らしい。
総合して自然と自信がつく。腰や肝が座ったように見えて、信頼も寄せられる──。
「そう、だなぁ……」
俺は下を向いた。確かに逸材だな。
なんと返そうかと逡巡し始めた直後、何ら前触れもなく誰かがまた扉を開け放って入室してきた。
「ん、誰かいるんかー」
その音の主は無遠慮な足音を響かせながら入室してくると、俺たちを見やり、
「お……、青いねー!」
なんて言いながらニヤニヤしだした。
言うまでもなく広木先輩だ。何が青いんだかさっぱり分からん、が──笠原は顔を赤くして伏せている。真逆じゃないですか。
俺はすぐさま、
「何で来たんですか?」
「お前、何で、ってことはないだろう。今日は朝練日和だからな」
荷物をドサドサと置きながら、ケラケラと笑って俺たちに寄ってくる。
「な、何でこっち来るんですか」
「何でって、これをそこに入れたくてな」
彼はふいに真面目な顔になって、ひょいと小さなものを指にぶら下げてみせた。
「あっ、それ……」
笠原がほぼ同時に声をあげる。それをよく確認してみると、どうやら弁当箱のようだった。
広木先輩は目を丸くして、
「あ、これお前のなん?」
「そ、そうです。探してたんです」
「ほー、昨日、パーカスの連中がこれを喰おうとしてたもんだから、俺がもらおうと思って奪ってきたんだが、からっぽだったから、この混沌箱に突っ込もうかと思ってな」
「サイテーですね」
俺は思ったままを有体に言ったら、先輩は心外そうな顔をして、
「いや、すすいだ瞬間キュキュっと何とかで洗ってやったから、ゴキブリも寄り付かないだろ。レモンの香りだし」
「レモンで逃げるんなら、世界中の誰もがゴキブリに怯えたりしませんよ」
「ああああ、そ、それ返して下さい」
なんかどさくさに紛れて、混沌箱に放り込もうとしてるのを、笠原が寸でのところで確保する。──混沌箱なんて名前をつけるほどの自覚があるなら、整理してください。
「おぉ、悪かった。でも、持ち主が見つかって良かったわ」
そうすました顔で言う広木先輩を見てるど、どうにも人というものが分からなくなる。きっと、この人は適当に適当な世界を見ているんだろう。