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第四話

「うーんと、そのあたりは色々ややこしくて、あんまわかんないんだけど、とにかくこの世で自由に活動するには、どうしても肉体が必要らしくて、えーっと今回のケースで具体的に説明していくと、その、電車であなたとコンタクトを取ったでしょ。それからすぐに、肉体確保の手続きをして、何日かしてようやくこの体が届いたから、急いで会いに来たの」

 宇宙服をオーダーして、後日届いたのを着て、月に急行したようなもんか。何だか、現実味のあるシステムのあの世だな。

 俺は相槌をつきながら、ぼんやりと呟いた。

「つまり、俺が何日か、君を探し歩いていたのは全くの無駄骨だったってわけか」

「……あ、あれは」

 沙実が慌てたように口を開きかけ、それから少し考えるようにキョロキョロし始める。

 なにやら、申し訳なさと恥ずかしさが入り混じった様子で、俺は心臓の裏をくすぐられるようなむずがゆさを感じたので、

「ん? 何かあるのか?」

「えっと……、私達って、まず人に見つけてもらったら、強烈に印象付けるような催眠術をかけるの。人って、そういう時、ヒトと幽霊の見分けがつかないから、忘れられないようにね。つまり、今回でいうと、あの踏み切りで目を合わせた瞬間に、もうそれをかけておいたんだけど……、私、あんま得意じゃなくて……、チャンスも一回だけだし、なんか焦っちゃってかけすぎちゃったみたい」

「──なるほど」

 砂漠で水を求めるように、俺をあの町をさまよわせていた原因はそれか。行き過ぎた印象付けから、アイドルの追っかけに似た憧憬が生まれてしまった。道理で、あんな鮮明にこの子を覚えていられたわけだ。それでもって、この子が肉体を貰って会いにいけるぞ、ってなると、その術が自然と解ける、という流れになるらしい。

 俺は大いに納得して、前に傾きつつある体を真っ直ぐに戻した。

「それでだな、その、ハンカイの者っていうのが俺に何の用だ」

 その問いに、沙実は驚いたように身体を反らし、慌てたように言う。

「その前に!」

「何?」

「……その、私を探すために、色々と周りの人に迷惑をかけたりした?」

 俺は考えるように天井に目を向け、腕を組み、唸った。別に考えるまでも無く、即座に「部活」と言っても良かったが、──いや、良くねぇよ。もうちょっと、間が必要だろう。

 しかし、間を作れば作るほど、じっとりした雰囲気が濃くなっていくのに俺は耐えられず、喉の先からこぼすように言った。

「部活に……」

「部活」

 沙実はただ反復して、俺をじっと見た。

 これは意外だった。てっきり落ち込んでしまうものかと思ったが、案外心はそう脆くはないらしい。俺は、その視線を努めて柔らかく受け、続きを待った。

 しかし、そんな考えを否定するように、

「やっぱり……」

 と、言葉の方向を落として、顔も下を向いてしまった。

 俺は頬をボリボリと掻き、どうしようかと思案する。こういうシチュエーションで慰めをするのは非常に苦手なところなのだ。過去にも、軽率に物を言って痛い目を見たことがあるから、それ以来慎重に言葉を選ぶようにはなったのだが。

 俺はパズルのようにセリフを拵え、どうにか沙実の耳に届かそうとして口を開く。

「あ、っとな──」

「あ、大丈夫だよ!」

 途端に顔を上げてにんまり笑い、俺の脳内の言葉を吹っ飛ばした。

「そのために、私が来たんだからねっ!」

「……」

 ひどく返答に窮した。というか、なんという逆説的というか、裏に魂胆があることが何の苦労も無く推測できる理由だ。俺を虜にするためにかけた術で俺の日常が乱されたわけで、その代償を払うために俺に会いにきたというのだ。どう考えてもすっきりしない。

「うん、そのために来たんだよ、そうそう」

 さっきまでの消沈とした様子はどこに行ったのやら、やけに自信をこめてそう言い放つ沙実。──何か、たった今その理由を見つけたような口ぶりだな。

 俺は怪訝に思って訊いた。

「……そのためって何だよ?」

「あなたの、繰り返しの毎日を大改造するため、だよ」

 繰り返しの毎日、とは俺が言ったそのままの文句だった。それを改めて聞いてみると、俺はなにやら落ち着かない気分になる。

「大改造……」

 そして、その毎日を大改造する、とはかなり好奇心を誘いつつ、しかしとんでもない陥穽が含意されているような言葉だった。

「そう、私が手を貸せば、あなたは繰り返しに悩む必要はなくなるよ」

「……」

 俺は考えた。

 別段、暇を持て余してるわけでも、環境が腐ってるわけでも、人間関係がぎくしゃくしているわけでもない。多忙ではあるが怠惰を望むわけではない。

 でも、でも、何か違う。何か、って何なのか分からない。

 俺の毎日の指針が、平坦な経験の積み重ねを示しているように思えてならない。

 そう思えてしまう現状に、何が足りないのか分からん。脳の牢獄で答えが鉄枷を激しく打ち鳴らし咆えて、見えない願望が喉の奥から這い上がろうとしてきているようだ。

 俺は悄然としてきた。

 だから叔父に相談しに行ったんじゃないか。

 その果てが今なんじゃないか。

 この無垢そうな少女の非現実的な対面が、叔父の言う不幸なのだろうか。

「──変えてくれ」

 俺は、ぽつりと言った。沙実はそれを聞いて目を丸くしたが、すぐに真摯な表情になる。

「分かったよ。──まぁ、私としてはムリにでも変えるつもりだったけどね。あなたが望むのなら、是非ともしてあげようかな」

 あなたが望むのなら、ねぇ。

 こんな漠然としたものが望みだとは思いたくないな。俺は傲慢にもそう思った。

「じゃあ、契約は成ったね」

 沙実は笑みを惜しげもなく晒して言った。俺は眉をひそめて、

「契約、ってことは、俺も何か提供しなくちゃいけないのか」

「ううん。新しい日々を謳歌してくれればいいの。別に、この世の者からもらうものなんて無いしね」

「ふぅん。後で俺の魂を地獄に持ってったりしないのか?」

「地獄なんてないよ。死んだ生き物の魂はあの世に入れるか、入れないか、だもの。入れない場合が地獄って考えるかも知んないけど、別に私たちはそんなの望まないよ」

「へぇ、そうなのか」

 となると、入れない魂がいわゆる亡霊だったりになったりするのか。

 というか、さらりと死後の展開を知ってしまった。何だか、壮大すぎて全く実感が沸かない。実際、まだこの目の前の女の子が、この世の者じゃないって認めてない節があるんだろうな。

「それで、どうするんだ?」

 なんか書類に判子やら血判やらを押したりするのか。

「ちょっとそこを、動かないで」

 沙実は俺に指示を出して、立ち上がった。とたとたとテーブルを回り込み、俺の隣にすとんと腰を下ろす。何だか、あまり俺の隣に来たという感じがしなかった。

 そして、半ば呆然として彼女の動向を眺めていた俺の肩をつかむと、そのまま体をぐいと方向転換をさせる。俺と沙実が向き合うような形になった。

「……人ってあったかいよね」

 和気溢れる声で沙実は言って、肩に載せていた手を俺の首筋に伸ばした。なるほど、温かかい。でも、もう少し他に触る場所がないか?

 突然、沙実の手に強烈な力がこもった。

 俺は一瞬何のことか分からず唖然としていると、次の瞬間なすがままに突き倒された。景色が空転して天井に変わる。頭をしたたか床に打ちつけたが痛みは無い。ただ、視界が少しの間ぼやけた。

「──ごめんね、これは儀式みたいなものだから」

 あまり謝意の無さそうな調子でいいながら、沙実は顔を俺の目に近づける。首にあった手はとっくに肩に戻り、俺を押さえつけている。肩口から髪が零れ落ちているが、全く匂いはしなかった。

「……な、何を……」

 背中に床の異様な冷たさが広がっていく。

 沙実は俺を床に押さえつけたまま、片方の手を何か探すように床へ這わせていたが、やがて一枚のカードをつまんで、俺の目の前に差し出した。

「あなたがさっき落としたもの」

 さっき、俺がこの子の名前を決めた時、俺の手から落ちていった一枚の漢字だ。

 のっぺりとしたそのカードには、「幸」と書かれていた。

「あなたが私と会ったのは、この上ない不幸。落ちた幸せは、もう取り戻せない」

 音も無く、彼女の指からカードが落ちた。

 その瞬間、全身の体液が凍ったかのように俺は全身が動かなくなった。

 俺の視線が真っ向から捉えていたもの、それは彼女の宇宙の果てのように深い瞳。催眠術をまた俺にかけたのだ。

 すっと、沙実が立ち上がる。身体を覆う温かさが消えた。同時に、背中の冷たさが根を生やしたように、食い込んできた。

 鉄になったような俺を見下ろしている沙実は、やがて足を上げて俺の眼前に突き出す。突き出された足は止まることなく、俺の顔に接近して、そのまま口の中に入り込んできた。

 ──愉悦? バカなことを言うんじゃない。

 つま先から入った足は、容赦なく俺の口蓋を押しのけて喉奥まで入り込んでいった。息が通るスペースなどない、むせようにもむせられず、俺はただ舌にこすりつけられる脚の生々しい血流を感じるほか無い。

 身体が鈍い悲鳴を上げた。身体をひねらせ、くねらせ、もがきたかった。しかし、金縛りは容赦せず俺を拘束し、ただただ眼球がめまぐるしく回るだけ。

 気管に紙粘土をつめ込まれていくような感覚、ぐわりと押し寄せる不快感に為す術もなく打ちひしがれ、そのうち、視界が徐々に暗闇に包まれていった。視界が消えた。

 頭の中が空っぽになったようだ。しかし、それでも沙実が俺の体の中に、足を踏み入れている様がありありと分かる。

 これは何の拷問だろうか。

 いつしか、彼女が何をしているのかも分からなくなっていく。

 俺は、声帯に溜まった、何と叫びたいのか分からぬ言葉を、延々と動かない体に響かせていた。


 気がついたら、俺は一人で居間に寝ていた。沙実の姿はない。

 俺は起き上がりつつ、自分の体を見渡した。特に、異常が無い。確実に顎は外れただろうに、口元も何ら問題は無い。

 夢だったのか。夢であって欲しい、というのは陳腐な願いだが──、不思議とそんな感じはしなかった。あれは事実だったのだろうと思う。

「そうだよ」

 ふいに沙実の声がして、俺は仰天して冗談じゃなく飛び上がった。

「え!? え!?」

「落ち着いて。別に、乗っ取ったわけじゃなくて、ちょっと身体を借りてるだけ。魂の下宿みたいな感じだよ」

 混乱する俺の目の前に、沙実が現れる。やけに鮮烈な姿で、すぐさまその沙実には実体がないことが分かった。──幻影か何かの類だろうか。

「そうそう、幻影というか姿をあなたの視覚に投影してるんだよ。なんだかんだで察しが良いよね」

「……俺に何をしたんだ」

「今言ったでしょ、借りたの。憑いたっていう言い方の方が、嫌だけど合ってるかな」

「憑いた……」

 俺の体に、この子が入った。

 そんな途方も無い事実に、俺は気が天に昇っていきそうであった。しかし、身体は寒気すら感じない。もはや、この身体は俺の所有物ではないのか。

「そういうわけだから、これからよろしくね」

「……よろ、しく」

 やけに落ち着く頭を借りて、俺は言った。

 乾いた居間にぽつんと、「幸」と「閏」のカードが並んで落ちている。あれにはもう、触れることはできないような気がした。


 このとき、俺は一切彼女の目的を訊かなかったし、聞かされなかった。

 沙美は、目的に関してずさんな嘘をついた。俺の壊れた日常を修復するために、俺のもとへやってきた、なんていう後付けの目的を俺に聞かせた。いくらなんでも、そこを問い詰めるだけの余裕がその時の俺には無かったのだ。だからこそ、俺は彼女を享受した。

 もしこのとき、俺が本当のそれを知っていたら、どうしていたのだろうか。

 俺の、日常への嫌悪は、それ程のものだったのだろうか。

 ──そんな筈が無いだろう。

 そして、なんとなく思う。

 きっと、彼女もその目的がどういうものなのかを、知らなかったんだろう。




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