第三話
「……あー、なんか、俺に用でも?」
俺は冷静に訊いた。用がありまくりなのは、むしろ俺の方なのだが。
少女は考えるように一瞬視線を逸らし簡潔に答える。
「話があって」
それほど強調したわけでは無いはずなのに、驚いて逃げ出す野良猫のように俺の耳を駆け抜ける声だった。
俺は手元の弁当を指差して、
「ちょっと、こいつを捨ててきたいんだけど」
「いいよ、待ってるから」
話は問題なく通じるらしい。
俺は台所に小走りに行って、弁当を捨てた。
それから吸い寄せられるように部屋に戻ろうとして、やっぱり思いとどまり、思考開始。
チャイムだのノックだの訪問したという事実を知らせずに、許可を得ないまま俺の部屋の中にいるというのは、紛れも無く非常識、というか犯罪。そして、自分の存在を俺に知らせようともせず、傍らでじっと見ているだけだった。
──色々考えたら急に、肌がぞわぞわとしてきた。なんだか、これに似た感覚をいつか経験したような気がする。
気晴らしに視界の風景を変えようと、なんとなく俺が左を向いたら、
「うぉあああ!」
当たり前の様にその少女が隣に居たのでしこたま驚いた。
彼女はきょとんとした顔で、
「なんか楽しそうだね」
「──おかげさまで」
俺は自分にげんなりしつつ言った。もうどうにでもなれ。
少女は俺の様子にはすっかり興味を無くしたように、ある方向に顔を向けると、
「ねぇ、そこでも良い?」
「何が?」
「話がしたいの」
「ん、ああぁ……」
彼女がそこ、と言って指さしたのは、居間だった。まぁ、別にどこでもいいだろう。埃は若干溜まっているが。
居間にある背の低いテーブルを挟んで、向き合うように二人して座った。俺はあぐらで彼女が正座。いつしか俺が妄想した『もし彼女ができて、家に連れてきた場面』に、かなり近い構図であり、凄く歯がゆい気分だった。
改めて彼女を見てみると、俺の脳内にあった少女そのもので、そのまま頭からずるりと出てきたんじゃないか、と疑うほどだった。服装もそっくりそのまま、うちの学校の制服。ただ、やはり具現して目の前にいる方が、やっぱり良いもんだ、とこっそりと思う。
「なんか、すごい落ちついてるよね」
少女が口火を切った。俺はなんとなくそうだな、と思う。さっきまでは、あんなぞわぞわとしていた気がどっかに行ってしまっていた。
「まぁ……、なんとなく憧れてた節もあるし……」
「憧れてる?」
「うん、ずっと、同じことの繰り返しの毎日だったから、こんな出来事もいいかなって」
「ほぉ。道理で……」
彼女は、口からビー球をこぼしたように「ほぉ」と言って、大いに納得した顔になった。その思わせぶりなところが気になり、俺はオウム返しに、
「道理で?」
「いや、なんでもないよ。んー、そうだな、まず自己紹介」
そう言って、俺に人差し指を向けた。
「あぁ……、って俺から?」
「うん」
「いや、これは言いだしっぺの法則ってわけで、君から──」
「私の名前は、あなたにつけてもらうの」
「……はい?」
いやはや、自分の耳を疑う、というのは正にこういうことなのだろう。今、俺の中で俺の耳に対する株価が落ちた音がした。しかし、少女は俺の耳を擁護するかのように、海溝の様に深い瞳で俺に自己紹介を促す。
仕方ない。俺はできるだけ簡潔に、基礎情報を教えてやる。
「名前は倉敷英悟、高二、十六歳、部活は吹奏楽」
「最近どう?」
「どうって……、最近は人探しばかりでどうもね……」
「人探し? 誰探してたの?」
それは純粋な疑問符だった。まるきり、自分であるということを知らない顔だ。
俺は、過去の自分を慰めてやりたい気分で、人差し指を彼女の鼻の頭に向けて突き出した。少女は一瞬寄り目になって、それからすっ、と視線を俺の目と合わせた。
「私?」
「そう。先週くらいに俺が電車乗ってて、君が踏み切りに居て、丁度こんな風に目が合ったはずだ」
「え、探してくれてたの!」
彼女は昨日あるはずだった約束を今日思い出した、というような勢いで声をあげた。俺は一瞬思考が停止したが、すぐさま再開させて、続けて言う。
「最近はそんだけ」
「……あぁ、うん。えーっと、じゃあ、私の名前をつけてくださいな」
妙に大人びた風にそう言うと、どっからともなく大量のカードを取り出して、テーブルにぶちまけた。ばばぬきが終わった直後の様に、カードが無秩序にばらける。よく見るとそれぞれのカードに、一文字ずつ漢字が書いてあった。
「これをどうするんだ」
「目をつぶって、好きなだけ引いて」
そんな適当で良いのか、命名って。いや、それ以外でも色々訊きたいことがあるが、とりあえず後回しにして、何も考えずに付き合ってやるとするか。
俺は言われたとおりに目をつむり手を伸ばし、できる限り適当に四枚ほど引いた。だが、どうもつかみが甘かったか、一枚だけはらりと床に落ちる。
「三枚か」
「じゃあ、それ見せて」
カードが群がるところから少し離れた場所に、その三枚を並べてみる。
「沙」と「閏」と「実」だった。
「これが私の名前ね」
そう言って、彼女は三枚のカードを手に取り、開いて俺に見せ付けた。なんとも、楽しそうな様子、だが。
俺は目を細めてその三枚を見て、訊いてみた。
「なんて読むんだ」
「……あ、そっか」
彼女はカードをまた机に置いて、唸り始めた。
これで本当に命名が済んでいいのかね。まぁ、本人が良いなら良いんだろうけど。俺は、あぐらを崩して脚を伸ばし、ぼんやりと彼女を眺めていた。
やがて、
「これでいっか」
「ん」
いかにも妥協しました、といったような口調に、俺は一抹の不安を覚えつつも、テーブルの上に並べられたカードを見た。
「閏」「沙」「実」
「うるう、さみって読むの」
「さみ……、みさ、の方が良くない?」
「そう? 別にどっちだっていいじゃん」
苦心して娘にみさ、と名づけた親御さんが聞いたら怒りそうなセリフだな。まぁ、俺は別にいいけど。
こうして、ここに閏沙実、という少女が誕生した。いやぁ、めでたい。
それはともかくとして。ずっと、ずっっと、色々と訊きたかったことがこれで訊けるんだな。
俺は逸る気持ちを素直に受け入れ、表情をできるだけ真剣なものにして言った。
「んで、訊きたいことがあるんだけど良いか」
「お前は誰か、ってこと?」
「……はい」
沙実はそのままの表情でしれっと先手を突いて来た。そうならば、俺はペースを彼女に任せておいた方がいいのかも知れないな。下手に食いついていくと、振り回されて情けないから。
沙実も沙実で、表情を引き締めて、語り出した。
「私は『半壊の者』という種族の一人」
種族、という言葉が、俺の感情へ針のように刺さった。
「なんとなく分かってたと思うけど、ここの人間じゃないの。ここの人たちがこっちのことをこの世って言ってるなら、いわゆるあの世っていうところの人間っていう感じかな。あ、人間って言っても、生物学的なヒトじゃなくて、意思を持った存在っていうことね」
「……まぁ、姿はヒトじゃないけど、個体が共存する点では人間っていうところか」
「まぁそれであってるんじゃないのかな。それで、あの世っていうからには、死人が行くところで、そこの人口のほとんどは死人の魂なんだけども、すっごい昔っから、あの世をまとめてきた組織があって、それを構成する魂っていうのは死人のものじゃなくて、元からあの世で生まれてきた魂なの」
沙実は滔々と語る。俺はなんとなく、彼女の倫理の授業は受けたくないな、と思った。興味深いことには、興味深いんだがね。
「まぁ、その組織ってのはあの世での政府みたいなもんか」
「こっちのことはよく分からないけど、まぁそんな感じのところ。で、私はそこの下級の存在で、『半壊の者』っていう分類をされてるんだ」
「はんかい……」
「あー、半分の半に、壊す、者ね」
「『半壊の者』、ね。それは、君の方が壊れてるの、それとも壊してるんか?」
「さぁ、私は下級だからそのあたりは分からないね……、わかんないけど、どっちかっていうと、壊す方じゃない?」
「ふーん……」
何となく意味深な発言だったが、俺は納得したように鼻を鳴らしてみせた。実際、納得したとはいわない。さすがにここまで現実離れしていると、いくらそれらしい要素がこれまであったといえども、俄かに鵜呑みにできないところがあるのは当然じゃないか。
沙実はそんな俺の内情に気付いているのか否か知らないが、まだまだ説明があるようだ。
「まぁ、分かりやすく言えば、私は幽霊っていうことでいいのかな。別に、こっちの世で死んで魂になったわけじゃないから、幽霊っていうのは少し違う気がするけど」
「じゃあ、俺の部屋に気付かないうちに居たっていうのは、そういう幽霊的スキルってことで考えていいのか?」
「ううん、玄関の鍵があいてたから、そのままはいってきちゃった」
その言葉を聞くや否や、俺は投石器で飛ばされるように玄関にダッシュした。一人暮らしで鍵が開けっ放しって、俺にとってはかなり重大な過失だ。
しかし鍵は、閉まってむっつりとしている。騙されたか、と一瞬思った時、
「だから一応、閉めておいたんだけど」
ひょっこりと沙実が顔を覗かせて言った。こう言われてしまったら、もうこれ以上の言及は難しい。
俺は何も言わずにさっさとまた居間に引き返し、沙実の話の続きを伺う姿勢に戻った。
「あの、一応この肉体はこの世のものだから、この世の物理法則はきちんと守らなくちゃいけないの。だから、玄関が開いてなかったら、素直にチャイムでも鳴らすつもりだったんだよ」
「俺としては、そっちが良かったな……」
心臓の寿命的に。
「そうなの?」
「まぁ、常識的に考えて……、ってこっちのことは知らないのか。でもチャイム知ってるんだよな、──まぁいいや。でも、肉体はこの世のものって、どういうことだ?」