第二話
翌日、俺は一時間目の退屈な授業中、ぼんやりと昨日の少女について考えていた。あの誰とも知らぬ女の子と目が合った瞬間のことが、今更になって鮮明に思い出せるようになってきたのだ。肩の奥に流れていくまとまったあの髪の質感、真正面から捉えたくっきりとした眼、少し子供じみた丸みが残った輪郭と、その待ちこがれるような表情。
そして何より、服がうちの学校の制服だったんだよな。
たった刹那だったが、電車の中の俺と目を合わせるという所業を成し得るとんでもない猛者が、この学校内にいるということだ。そんなことを考えると、授業なんて受けている場合ではない。ましてや、倫理なんて授業だからな。考えるな、って言う方が無茶ってもんだ。
さて、その少女についてだが突っかかるところがある。俺が、その顔に覚えがないということだ。
いくら高校が中学よりも規模が大きいといえど、全く見覚えの無いとはどういうことだろう。ここまで、鮮烈に顔を覚えているのにも関わらず、あの人だ、というものがないのだ。
そういうわけで、俺は今朝登校したら、校門が見えるトイレに立てこもって、登校してくる生徒達を観察していた。誰か入ってこないか冷や冷やしながら。
果たして三十分間ほど、通行人をじろじろと眺めていたが脳内のイメージと合致する人はいなかった。もちろん校門といっても、そこ一箇所でないので、また明日には場所を変えて見張ろうとは考えているが、それよりももっと効率がいい方法がある気がする。
そうこう考えを巡らせているうちに、授業が終わった。
休憩時間になったが、俺は席から動かずに、思慮を深める。
一つ、思い出したいことがあった。校章の色である。それによって、この学校は学年が区分されているので、それが分かれば大分限定できるのだが。
しかしそんな都合よく、ふっと思いだせるものだろうか、いいや、ありえないだろう。
──と、思っていたら、ぱっとイメージが浮かんできた。
脳裏に映る光景での校章の色は、俺の襟元についている色と同じだった。
同学年? そうなると、尚更、知らない顔なのは奇怪なことだ。
突発的に浮かんだイメージを確信するってのは危険なことだが、でもそれしか情報が無いのだから、これに絞っていくしかあるまい。
俺は、ざわめく教室を見渡してから立ち上がり、鞄の中を探って次の時間の準備をしている女子に近寄って言った。
「笠原、ちょっと頼みごとがあるんだけど」
「え?」
俺が名前を呼んだ女子、笠原都巴は目を丸くして俺を見た。少し大人びた目つきに背中まで素直に流れる長髪が特徴的で、映画鑑賞が好きらしい彼女は、部活仲間であり去年も同じクラスだったので、こうして気楽に会話できる仲なのだ。
「確か、この学年全員の情報が入った名簿持ってたよな?」
「うん、先輩から一部だけもらったのがあるよ」
「貸してくれないか?」
「ん、良いよ」
笠原は快い表情で承諾し、鞄の中から分厚いファイルを引っ張り出す。更にその中から手作り感溢れる冊子を取り出して、俺に差し出した。
「これだよね?」
「おう、ありがと」
俺は礼を言ってそれを受け取り、中身をざっと確認していると、笠原が不思議そうな顔で、
「何に使うの?」
「ん……、いや、人探しをね」
「人探し……、そうなんだ。えっと、用が済んだら返してね」
「分かった」
俺は頷き席に戻って、その名簿に用心深く目を通してみた。しかし、全部見渡しきらないうちに次の始業のチャイムが鳴る。すぐに先生が入室してきて授業が始まったが、俺はそっちのけで名簿を眺めていた。
あの踏み切りがあった場所は覚えている。その付近の住所の人を、片っ端から確かめていこう、という魂胆だ。すぐ顔と名前が一致して、相違あると断言できる人は消していって、ピンと来ない人は実際に確認してみる。
その授業が終わると、早速リストアップした人物のクラスに急行した。手洗いだとか、自販に飲み物を買いに行く振りをしながらその全てを窺う。が、俺の記憶の顔と合致する人物はいそうもない。
昼休み一杯を使っての調査も収穫は無く、俺は重い足取りで自分の席に戻ってきた。丁度そこで鳴るチャイム。これから数学だ。もう昼寝でもしてしまおうかな。
奇妙な感覚だがこれほどまで追究してきたあの踏み切りの少女を、見つけることなどできっこないと心底では思いながら、それでもなんとかして探し出さなければならないような気が起こるのだ。この水と油の境界ような心境は、非常に居心地の悪いものだった。
俺はそれから数日間、部活を休んでその町に繰り出していた。
主に、その踏み切りの周辺をぶらつく。あの日の時間帯に差し掛かったら、踏み切りでじっと見張り、それ以外ではひたすら歩き回って、頭の中に浮かぶ人物を捜し求めた。
何故ここまでする必要があるのか、全然分からない。しかし、しきりにそわそわして、こうせずにはいられないのだ。
もちろん、見つかるはずも無い。計画性ゼロの行き当たりばったりの、調査といっては失礼にあたるものなのだから当然だろう。
そして、やはり追求欲と付き合うのにも限界というものがある。
いい加減に部活を休み続けることが、精神的に難しくなってきた。そろそろ、家用だけで済まされなくなってくるだろうし、何より、練習についていけなくなってしまう。何より休む度にその旨を笠原に伝えなければならないのが、何よりも辛い。
その日も朝から不安でしょうがなかった。胸の中に埃の塊を蓄えているかのようにだるく、時間が経つのがひどく遅い。
結局、平坦にその日の授業が終わった。
俺はもう、そのことについては諦めようと決心して、鞄を持ち上げたのだが、そのたびに、浮かび上がってくるのは決まってあの光景である。
過ぎ去る風景の中、一箇所だけ拡大され時が止まったような空間、その中央に立って俺を凝視する、あの吸い込まれるような瞳の黒が。
「倉敷君?」
突然名前を呼ばれ、俺はぎょっとして我に帰った。視界に飛び込んできたのは、心配げな目をして佇む笠原の姿だった。
「あ、あぁ、何?」
「大丈夫? すごいぼぉっとしてたけど……」
そういいながら、俺の眼前で掌を左右に振ってくる。
俺はなんと言ったら良いか分からず、
「あー、ちょっとな……」
視線を逸らしながらしどろもどろに応える。笠原はそんな俺の目玉を覗き込むように窺って、質問を投げかけてきた。
「家の方が大変なの?」
「家……、う、うーん、今日も厳しいかな……」
「今日もダメなの?」
俺は弁解するようにすぐさま笠原の目を見た。俺の感性に直接問いかけている瞳だった。
「……あぁ。まだ解決できなくってな……」
それでもなお、俺はこう言ってしまった。思い切り近くの机に頭を叩きつけてやりたい。まるきりの嘘なのに、それを吐くことにこんなにも罪悪感を抱いているのに、どうして俺はこうも執拗に会えるはずもない少女を探し求めるのだろうか。
俺はなんとかその罪悪感を薄めようとして、
「でも、もうすぐ一段落しそうだから、近いうちに復帰できるよ」
「そうなんだ、安心した──。じゃあそろそろ部活行くから、頑張ってね」
笠原は少し顔を自然に和らげそう言い、別れの挨拶をしてから教室を去っていった。
残された俺は、その後姿を見送って、少ししてから教室を出た。
結局その日、その子を見つけることはできない、ということを身体で理解した。数日間の行脚だったが、却って部活よりも疲れた気がする。
通りすがりの若い女性の顔を確認していくだけを、延々とこなしていた。よくぞ、何日も続けられたと思うよ。このまま、ずっと続けていたらそのうち通報でもされかねなかっただろう。よく考えれば怪しすぎたな。
今までの執念は何だったのか、と問いたくなるほど、俺の気持ちはさっぱりしていて、明日も捜しに行かなければ、というような責任感のようなものも消え失せていた。
俺は丁度夕飯のできる時間に帰宅した。それはあくまで他家庭の話なのだが。
ちらりと述べたと思うが、うちの両親は多忙の身で、最近はこの通り俺が成長して安定してくるやいなや、家を不在にすることが当たり前になった。まぁ、頻繁に連絡しあっているから、別に俺はそれほど寂しさというものを感じないのだが、それを聞く人は大概気遣うような物腰になる。それも慣れっこだから、特になんというでもない。
そういうわけだから、俺の「家用」という建前もなかなか現実味を出すのだ。
今日も例によって、家の中は真っ暗。
俺は帰りにコンビニで仕入れてきた食料を電子レンジに突っ込むと、自分の部屋に入った。そろそろ掃除をしないとマズそうだが、疲れた身体がストップをかけ続けて早二ヶ月にもなる。次の休日には、片付けたいな。
鞄の中身を、明日の用意にそっくり入れ替え終えると、丁度電子レンジが電子音を鳴らしたで俺は台所へ行き、弁当を部屋に運んだ。
あまり美味くない。俺は、飲み込むように食い尽くすと、天井を仰いだ。
おかしい。あれほど忠実に浮かんでいたあの少女の像が、今ではさっぱり現れなくなってしまったのだ。顔をいくら思い出そうとしても、ひどく画質の悪いカメラのピントがずれたようなものしか出てこない。校章の色を思い出したメカニズムは一体なんだったのか。
知らぬ間に、欠伸をしていた。涙で視界がぼやける。
身体が何だか硬直しているような気がするので、俺は思い切り伸びをした。それと同時に、椅子の背もたれが軋みを上げ、俺の身体が一瞬重力から解放され、臓腑が浮いたような感覚に見舞われた。
「うぐぁっ」
椅子が俺もろとも綺麗に倒れた。結構、派手な音がして俺は床に転がり込む。またやった。今月でも三回目だな、椅子ごとこけるのは。もう慣れた痛みなので、気恥ずかしさなんて全くない。
俺はよろけながら起き上がると、椅子を起こし大きく息を吐いた。
そういえば、弁当のゴミを処分してなかった。ここに置きっぱなしだと、生ゴミ臭が半端なくなるからな。
俺は空の容器を手にとって、台所に向かおうとした──、が、思わず立ち止まった。
扉の前に誰かいた。
誰か? いや、見覚えがある。そう、その容姿はつい最近まで、毎日見ていた気がする。
そんでもって、これは軽くホラーな場面ではなかろうか。だって、この家には俺独りしかいないんだぜ、独りしか。これが映画のワンシーンなら、オーケストラがBGMにいやらしく不協和なリズムを鳴らしまくっているに違いない。日本映画なら沈黙しているだろうが。
俺はできるだけ落ち着き払って声をかけた。
「さっきの、見てた?」
「……見てたよ」
これが普段の友人相手だったら口止めを凄まじい勢いでしただろうし、見知らぬ人だったら頭を抱えてトイレに急行して便器に頭を叩きつけて記憶を抹消するだろう。
だが、この場合はどちらでもない。
俺を通せんぼするように扉の前に立っているのは、俺が意地張って散々歩きまわって、結局見つけることのできなかった、その少女だった。