第十九話
そしてようやくその山の麓が僅かに見えてきた。もう街灯なんて無い、自分の夜目を信じるしかない。沙実がいたころ持っていた能力の名残が僅かにあるので、きっと絶望的ではないはず。
突然、背後であいつによって石がかき回される音が止んだ。
もしかして消えたのか? と、期待して後ろを振り向いたがそんなはずはなかった。むしろ、悪化するような出来事が起きていた。
あいつが、宙を舞っている。さっきの岩と同じように。あんなのが朧月と並んでいたって、風情もクソもねえ。
そして、容赦なくその全体重を地面に叩きつけた。
何をしたのかと思えば──、地面が隆起して、やがて土砂の波となって俺へ襲いかかってきた。あんなの、ゲームぐらいでしかありえないと思っていたが、それは凄絶な光景だった。地面という地面が、波打って一直線に俺へ向かってくる。概観でも高さ二メートル強はありそうだ。あんなのまともに喰らったら、自転車が壊れるとかいう騒ぎじゃない。
何だか胸の奥へ恐怖が透き通っていく心地だった。息をするのも辛い。
でも、ここで死ぬわけには──。
俺は電撃が走ったようにペダルから足を離すと、サドルに足の裏をつけて立ち上がった。自転車自体のスピードが出ていてバランス的には安定しているので何とか立てたが、この後どうするのかが問題なんだ──でも、目の前に瓦礫の波が迫っている。こんな悪い道を走っているチャリの上に立っていれば、バランスなんて無くなっちまう、迷っている暇などない。
俺は、思い切りサドルを蹴って、跳び上がった。いつか初めてやった時よりも、高くは跳べなかった。──沙実のいない俺の身体なんかじゃ、そんな芸当はムリだった。
足が波のさきっちょに引っかかり、強い力で足をすくわれて俺は落っこちた。風景が落下して、その波の上を転がるように吹き飛ばされる。激しく飛礫に殴られ、サッカーボールのように運ばれていく。視界などめまぐるしく回りすぎて、無いに等しかった。全身をくまなく包み込む痛みに何度も意識が飛びかけたが、ここで気絶したら確実に殺される、とひたすらに気を張って耐えた。
やがて、その勢いが衰え始めたのを感じると、俺はありったけの力で立ち上がり、泳ぐように波に抗った。
倒れるな、膝をつくな、立ち続けろ。俺は無心に歯を食いしばる。
──どれくらいもみくちゃにされていたのか分からないが、しばらくすると波は収まり、俺にかかる圧力もなくなった。全身に留まる痛みに堪えながら周囲を見渡すと、目の前に目的の山がそびえている。立ち上がり少し歩いたらふらついて倒れそうになったが、気合で踏みとどまってひたすらにその入り口を目指す。
あの髑髏がどこに行ったのかは知らないが、とにかくこの山だけが頼りだった。しかし、この山に入った所でようやく逃亡劇が開始すると考えると、厳しい所がある──だが、行かなくては、生き延びなくては。
だが、その山道への入口である坂道に差し掛かったところで、俺はもう可能性がもう無くなったことに気づいた。想像以上にその坂道がキツいこともあったし、俺の体がボロ雑巾のようになっていたからでもある。
しかし、その坂道の先で表情の無い骸骨が俺を見下ろしているのを見たら、もう一歩も動けなくなった。もう、歩くという概念ごと忘れてしまったようだ。
そいつは、ゆったりと俺に近づいてきた。いつも、全ての『滓』がやってきたように、一歩ずつ踏みしめるように、距離を喰っていくように。これが絶望の体現なのだと思った。彼らなりの追い詰められた者へ贈る、最大限の恐怖と絶望の表現なんだ。
やってくれるよ──。
俺は近づいてくるそいつをじっと見据えながら、特に痛む腹を抑えた。熱い俺の血が手に絡みついてくる。首筋をもっていかれた時とはまた違う、沈殿するような嫌な痛みだ。
息を大きく吐くと、ひどく震えていた。そして、喉の奥から何かが溢れ出してくる。不快だ。たったあの一撃だけでここまで傷つけられるのならば、一回でも直接殴られるだけで、もう俺は人の形でなくなってしまうだろう。今までの『滓』と違って、そこら辺の木の枝を突き立てれば倒せる奴でもない。
一体どうなってるんだ。どうして、俺はまだ命を狙われてるんだ。
俺が絶望を確認すると一歩、俺が理不尽を嘆くとまた一歩、俺が不安に思えば思うほどそいつは俺に近寄ってくる。
あぁ、どうしてここまでことが綺麗にまとまった後に、こんなプレゼントが降ってくるんだろうか。何もかもがこれからだ、というスタートラインに立った途端に、どうして目の前に決して壊せない壁が用意されてるんだよ。明日にようやく希望を見いだせるようになった矢先に、どうしてこんな、ここまで醜悪なギフトを寄越してくれたんだ。
あるべきだった未来を睨んで俺は呻く。
神様よ、俺はあんたを存在が消滅したとしても──
「──恨む……」
その瞬間、『滓』がその言語に反応した。
『クカ……、カカカカカカカカカカカカ』
髑髏が窺うように首を傾けると、やがて狂ったように笑い出す。声を上げて笑い出した。この世の狂気を全て集めてきたような、甲高くノイズが混じったような混沌の声を、そこら中に放出している。
俺は怖がっているよりも、むしろ呆然としていた。狂気の髄をまざまざと見せつけられているのを、何だか妙に開き直った気分でそれを眺めている。
やがて髑髏は、操り人形のようにその腕を伸ばして、近くの木を引っこ抜いた。様々な自然が声なき悲鳴を上げる。
細い方の木とはいえ少なくとも俺の身体よりは頑丈だ、あれを投げつけられたら、間違いなく助かるまい──。
『ケカッ』
また笑った。あいにくと、俺はそれに同調して笑う気になれない。
そいつはその木をダーツのように構えて、先端を俺に向けた。俺が最初に遭遇した『滓』を倒したのと同じ方法で、俺を殺そうとしているのか。
上等。
異形の腕が振るわれた。空気が裂かれ、低く唸った。
俺は、何も見ず何も聞かず何も感じずに、喘いでいた。
どうしようもなく絶望を思いながら、死を受け入れようと思いながら、それでも結局最後は、同じようなことを思っている。
死にたくない、じゃなくて、無くなったりしてたまるか、と。
──轟々と動いていた時計が、たった一本の針のためだけに止まったように、唐突に沈黙がおりた。俺は何も捉えていない眼球を見張って、意識が途絶えるのを待っていたが、何故か一向に木が飛んでこない。
俺は瞼を限界まで閉じてから、もう一度世界を見なおしてみたら──
「謂れもないことで恨まれるのは御免なんでな」
いかつい軽鎧に身を包んだ痩躯が、俺の前に立ってそう言っていた。手から暗く伸びる日本刀の先に、派手に抉られた木が倒れている。
「……ゼウス」
俺がその名を呟くと彼は斜眼で俺を見て、
「恨みという感情がお前にあるとは思わなかった。私も驚いたが、あいつはもっと驚いたようだ」
「な……」
「お前が言ったのが聞こえたわけじゃない。あいつが言っていたんだ。『その恨みこそ、人間の有り方だ!』とかなんとかな。──そんなことより、ここは私に任せて、お前は引き返せ。自転車も荷物も無事に確保してある」
「……ほ、本当に? ……わ、悪い、任せた……」
捻り出したような声しか出なかった。プライドの欠片も無かったが、ここで意地を張ったところでしょうもないし、簡単にやられるような神様じゃ困る。俺はゼウスを無条件で信頼した。
俺が二、三歩後ずさり、振り向いて歩き出す。こんな身体で走ったら、すぐにバラバラになっちまいそうだ。
すると後ろから、付け足すようにゼウスが言った。
「それと、お前に会いたがってるのも居る」
俺は身体が許す限り走りだした。
どこに自転車が置いてるとは言っていなかったが、あの破壊された道に置いてあるとは思えない。この近辺で舗装されている道路かどこかにあると考えるのが自然だ。
胃が口から出てきそうなほど走ったところで、ようやくさっきまで自転車で走ってきた道に出くわした。遮断されそうな視界を動かし、自転車を探す。地面がひっくり返っているもののそこまでひどい状況ではなかった。しかし、肝心の自転車が見当たらない。俺はゾンビのように探し回る。
──あった。確かに壊れていない、無事だった。
ただし、田んぼの中で横たわっている。無事じゃないじゃねぇか、いや、無事なんだけど、実際的には無事じゃねぇよ。カゴに入れておいた鞄も泥まみれだ、教科書類はもうダメだろう。しかし、ここから逃げるにはあれを使うしか無い。走って逃げていたら、家に着く頃には五臓六腑を全て吐き出しているだろう。自転車が在るだけでも十分、文句は明日にでも散々言ってやる。
意を決してその田んぼの中に足を踏み入れようとし──、全く兆候も無く背中に何かが抱きついてきた。俺は一瞬身体を強ばらせ、反射的に首だけ振り返る。
そして、その姿を見て全身の力が抜けた。
沙実が、寄りかかるように俺の背中に顔を埋めて寄りすがっていた。
「びっくりした……」
俺が言うと、沙実は顔を上げた。──泣いている。ひどい泣き顔だ。
「──ど、どうしたんだよ」
「……会いたかったよー!」
そう言って、一層俺に密着する。それほど顕著な歓喜の表現は嬉しい限りなのだが、今は状況が状況であるだけに、
「うごああああ!」
どっかの骨が軋みを上げ、俺は駆け巡る激痛に叫んだ。痛い、痛すぎる、今までは何だか朦朧としていたから、そんなに痛みは無かったが、こうして現実に引き戻されると、改めてその傷の深さを突きつけられるようだった。
沙実も驚いたように俺からぱっと離れて、
「あ、ご、ごめん……、そうだよ、死にそうだったんだよね、危なかったんだよね、ご、ごめんね……」
「い、いや、そんな大したことなかったから大丈夫……」
そんなこっちが気の毒になるほど謝らなくとも──、と思いながら俺はやせ我慢して言う。この場面では、よほどの根性が無ければ怒ることなんて到底できまい。
「うぅ……、生きててくれて良かったぁ……」
この迷子になってから三時間後に保護された子供みたいにうじうじと泣く沙実を見てな。
俺は歯を食いしばりながら沙実に向き直ると、
「そ、そんな泣かなくなよ」
「うぁ、ぁ、ご、ごめん……、だ、だって、すっごい嬉しくて……、き、昨日別れたばっかりなのに……、今日は、ずっとあなたのことばっかり考えて……、うぅう……、離れ離れになるとこんなに寂しくなるなんて、知らなかった……」
「……」
俺は胸が苦しくなった。
──知らなかった、か。だから昨日はあんなあっさりと別れちまったのか、もう今日にも仕方がないと割り切ってしまった俺とは真逆だな。
沙実はぐずぐずと鼻をすすって、
「そ、それで、さっきこの世に重量級の『滓』が逃げ込んだって聞いて、もしかして、って思って来てみたら……」
「……こ、この有様だな」
「…………良かった……、ほんとに……」
彼女は、本気で俺のことを心配してくれている。傲慢にも、いつしか俺をそんな風に思ってくれる人ができると、心の片隅で思っていたが、まさかこの世の人間じゃないとは、誰が予想したことだろうか──。
でも、別に誰だっていい。それが心底から思ってくれているなら。
「沙実……」
俺は身体を引きずるように近づいていくと、手を伸ばしてその頭を撫でてやった。初めて俺から触れたその身体は、暖かいように感じた。沙実の顔を見ると、目を真ん丸くして俺を見つめている。そして、にっこりと笑った。俺は急に照れ臭くなってきた。痛みなんて、もうどこかへ行ってしまったようだ。
──あれ?
と思った矢先、急に身体の力が抜けて、俺はなす術も無く倒れた。
砂利やら小石やらが散乱した地面に身体が転がり、ぼやけた夜空が視界に映り込んだが、すぐに沙実の顔が隠してしまった。
どうしてそんな悲しそうな表情をしている──、いや、ちょっと待て、何故そんなに泣きっ面で嬉しそうな表情をしてるんだよ。




