第十一話
俺は今度こそ、足の甲を釘で固定されたように動けなくなった。
妹って、この場に女は一人しかいないもんな。ということは──
「お前の、お兄さんですかい……?」
「うん」
沙実は俺の中で飄々と言った。
脳内で回転する危険信号のランクが上がる。つまり必然的に、この方は人外ということになる。それに、そもそも沙実が乗り移って、俺は超人になれたわけだが、それの兄上ってことになると、それはもう格段にヤバいだろう。
そしてなによりも、どう見ても臨戦態勢なのがマズい。
沙実の兄貴は、その西洋風の瀟洒な剣を丁寧に握り直しながら、俺を捉えて訊いてきた。
「丸腰か?」
「……丸腰です」
本能的に敬語を使ってしまう。
「ならこいつを使え」
淡白にそう言って、彼はその剣を何らためらいもなく俺の方に投げてきた。空気を切り刻みながら飛んできて、俺の足元に綺麗に刺さる。
俺がそいつをどうするべきかを逡巡していると、沙実がふいに話しかけてきた。
「……身体に入るよ、大丈夫?」
「あ、ああ」
俺はほとんど何も考えず答えた。すると、すぐさま夜目が利くようになって、かなり神経が鋭敏になり、空気の流れが変わるのを、肌で感じることができるようにもなった。そして、沙実の兄と対峙している、という緊張が次第にほぐれていった。
そして、俺はすぐ傍に突き刺さった剣に手を伸ばし、引っこ抜く。どっしりとした手応えが、いかにも人を殺傷するための道具らしい。よく見ると、刺さっていた穴の周囲の芝が軽く焦げている──、もう人間を凌駕しているのは当たり前のことのようだ。
前を見ると、彼はまた別の剣を手にしていた。俺が手にしているのとはまた違う、細身で殆ど無いも同然な月の光でも鈍く輝いている──、日本刀。
「お前の名は」
少しでも刃を動かしたら空間が音を立てて壊れてしまいそうなほど緊張した空気の中、男は訊いた。俺は視線を彼に流して、
「……倉敷英悟、しがない高校生だ」
「──私の名は無い。お前がつけろ」
俺はグリップを握る手を強ばらせた。沙実が言ったつけてくれ、とはまた程遠いジャンルの命名だ。
──困るな。沙実のときはカードがあったから良かったが、ノーヒントとなると難しい。
ふと刀身を眺めてみると、ぐちゃぐちゃした線で何かが刻んであった。俺は眉をひそめてそれを解読してみる。どこからパクッてきた剣なのかは知らないが、そこにはとある超メジャーな神の名が記してあった。
これでいいか。
「ゼウスなんてのは」
「ゼウス、全能の神か」
そいつは間髪入れずに返してきた。
俺もほとんど間隙を入れずに、
「ぴったりなんじゃないか」
「──」
ゼウスは上機嫌にそう言って、少し口の端を緩めた。
「それともう一つ、お前に寄生している『半壊の者』──沙実の兄が本当に私であるかを知りたいか」
確かに、出生の秘密とか気になるな。
「是非とも」
「『半壊の者』に親は居ない。気づいたら誕生している。だから、その誕生した順番で秩序をつけているのだ。そして、私と沙実は立て続けに誕生した。性別は、奇数番目に誕生した私が男で、偶数だった沙実が女、それだけだ」
「なるほど……」
つまりは、血の繋がってない兄妹なのか。道理で、顔の作りからして全然似てないわけだ。
それきり沈黙が蔓延った。今晩は全くの無風だ。屋外であることを忘れそうになるほどの静寂に包まれている。
「それにしても、随分と落ち着いているな」
ゼウスは俺に切っ先を向けながら言った。
「そうか?」
「さっきまで、慄いた表情をしていたのに、今はかなり堂々としている。何があった」
「何って──」
沙実が俺の身体を借り、共有し始めたから。たったそれだけだ。
すぐ後ろで沙実が、いつもの秩序に満ちた瞳で立っているような気がするだけでも、俺は真っ向から俺が神と名付けた男を見据えることができていた。
「当たり前だろう」
俺がそう言うと、ゼウスは鋭く短い乾いた笑いをあげ、
「──それでは、見せてもらおうか。お前の、充ちた姿を」
テストが始まる。
すぐにゼウスが目にも留まらぬ速度で跳びこんできた。
一瞬遅れてやってくる斬撃を、柄近くギリギリで受け止める。ドラマでよく聞くようなものとは比べ物にならないほど甲高い音が鼓膜を貫いた。
俺はそれを即座に押し返し、反撃をしかける。沙実に乗っ取られた俺の腕は、慣れた手つきで剣を振り上げ、ゼウスの懐を狙うが、ことごとく受け流される。
その衝撃で俺の身体が少しふらついた。奴は好機と言わんばかりに、連撃を仕掛けてくる。軽くて振りの速い日本刀が相手では、俺が使う一撃必殺志向の両手剣は明らかに相性が悪い。自然、受身に徹する姿勢となってしまう。
「何故、お前にとって不利なその剣を渡したと思う?」
そんな状況下で、いきなりゼウスが口を開いた。俺は剣がぶつかり合う音の合間を縫うように言い返す。
「き、訊きたかったけど教えてもらえないかと思ったんだ」
「教えてやる、と言ったら」
「是非とも教えて下さい」
「……」
急に押し黙ったかと思ったら、ゼウスはふいに俺の脇腹に鋭い蹴りを放った。鈍い痛みと共に俺は吹っ飛び、地面を転がりもみくちゃにされたが、勢いが弱まったところで素早く立ち上がり、相手を睨めつけた。
「なんということはない」
ゼウスは全くおびれた様子を見せずに刀を弄びながら俺に接近し、続けて、
「それがお前の実力だ」
少しさっきよりも調子が強い物言いだった。どこか、怒気がこもっているようにも思える。
彼はそのまま近づいてくると、間合いに入ったか入らないかという、ギリギリの場所まで踏み込んできた。
喉元に伸びた刀の切っ先を、剣の腹で思い切り弾き飛ばすと、さっきの仕返しといわんばかりにその鳩尾に蹴りを入れてやる。
だが、よろけるばかりで吹っ飛ばない。あまり痛そうでもない。──力云々の問題じゃなくて、装備が違うんだよ。俺はジャージで奴は軽めとはいえ鎧だ。
俺は追撃として剣を振り下ろしたが、あいつはあろうことか篭手でそれを受け止めた。堅い音と軽い痺れが体中に響いていく。今の今までそんなものの存在知らなかった。相当硬い素材でできてるね、これ。
「甘い……」
篭手の向こう側から、俺を強い眼差しで見据えながらゼウスが鋭く言った。そして、篭手で代用した分、フリーになったもう片手にある刀で容赦なく斬りつけてきやがった。
慌てて身を逸らしてそれをかわすと、ジャージのファスナーが一部吹き飛んだ。
こんな近距離での刹那を争うような場面で、俺の剣は不利にもほどがある。持てないほどではないが、いかんせん重い。
俺は必死で斬撃を受ける。刃こぼれするんでないかと思うほど、遠慮無く打ち込んでくるが、全く痛む様子が見られない。剣も刀もこの世のものじゃないのか。
ふいに相手の刃の軌道が変わった。俺は沙実の意志に引っ張られるように、身を芝に投げ込むと、俺の腹があったあたりが派手に斬りつけられる。
危機一髪かと思えば、そうでもない。俺の身体は無理な姿勢から緊急回避したので、地面に打ち付けられている。それこそ、超人的速度で起き上がったというのに、ゼウスは軽く凌駕する速度で肉薄してきた。
硬いものが強烈に脇腹を殴った。鈍痛が腹一帯を覆って、吸い込まれるように俺は崩れ落ちる。
「ぐぁ……」
漫画でよく見るうめき声だが、本当に使うとは思わなかった。
頬に当たる芝生が冷たい。流血しているか分からないが、激痛が居座って離れない。
「峰打ちだ」
突然、近くから声がして、俺は尋常でない力で持ち上げられた。
臓腑が浮くような心地がしたと思ったら、目の前の景色が回転し始めた。何が何だか解らぬまま、気づいたらさっきよりもひどい衝撃が全身に駆け巡る。
地面が硬くなっている。トラックの方に投げつけられたのか──。
「……いってぇ……」
無意識に声が溢れる。ちぎれつつある綿の様な意識の内で、フェンスに叩きつけられたのを確認した。相当吹っ飛ばされたようだ。
満身に蠢く多様な痛みに耐えながら、俺は前を見る、──瞠目した。
「痛いだろ」
月明かりも大して無いのにギラギラと光る日本刀、軽く薙ぐだけで俺の脚など簡単に切り落とせそうな輝きが、目前に迫っている。
喉の奥から初めて死に対する恐怖が転げ落ちた。打ちのめされた身体では、それ以上の思考が浮かばない。
死ぬ、のか。
「脆い」
ゼウスが恨めしそうに言った。しかし、俺を批難している言い方ではない。
「あれだけ時間が経ったのだから、もっと喰いついていてもいいはずだ」
日本刀を舗装された地面へ突き刺す。まるで粘土に刺したかのように、するりと入り込む。
「一体何だ、その中途半端な出来は」
静かな怒りを漂わせながら、俺へ一つ一つ歩み寄り、
「それで許されると思うか!」
突如、叫んだ。
真の戦慄が駆け巡った。電撃に打たれたように、俺は逃げ出そうとした。逃げたい、逃げたかった。面白半分で来たことを、一瞬で後悔し、一瞬で絶望した。
目は固定されたまま、声もでない。意識以外が、全く機能しない。
身体が動かない。腹の底が冷えていくのを感じる。頭の後ろから脳が垂れていく様な錯覚を覚える。
胸ぐらを掴まれた。激烈に引き寄せられ、ゼウスの顔が眼前に迫る。
「剣の一本も満足に扱えないとは、その程度か! お前、どんな使命を負っているのか、理解しているのか! あれほど大言壮語を吐いていたのは誰だ! 今までの矜持は、どこへ行った! どうしてそんなに弱い! 弱い、脆すぎる! それで満足していたのか、それだけ『半壊の者』を軽視しているのか! ふざけるなァッ!」
憤怒に染まった彼の眼は、俺を見ていなかった。俺の裏側にある空間を俯瞰して、その怒号を投げ込んでいるかのようだった。
「何故、何故だ、どうしてこんなザマになっている……、ただでさえ、規格外の『滓』が流浪しているというのに……」
呪詛のように呟くと、俺を捨てて立ち上がり背中を向ける。
冷たい空気が彼の身体を包むように流転していた。全知全能の名に相応しい風貌だと、誰かが仕向けたかのようにぼんやりと思う。
「この世の人間」
声をかけられた。しかし、俺は返事をすることができない。
「お前もいくらか軽視しすぎているところがある。そのおかげで空洞化が始まりつつある、そのままでは昇華できない──、またいつかお前の前に現れることがあるだろうが、その時も今のままであったら、その首を刈って中身を引きずりだしてやる、そのつもりでいろ」
そう言うと、踵を返して暗がりの中に消えていった。
俺はいつまでそこに留まっていたか、記憶にない。朦朧とする意識の中で、確認できたのは、ふいに倒れ伏していた身体が操り人形の様に立ち上がり、帰宅しようとしていたことだけだ。
気づいたら、俺の部屋の布団に横たわっていた。身体に傷は一つとして無く、その他異常は全くなかった。
剣はどこに行ったのかは分からない。ゼウスが何を仄めかしていたのかも分からない。
でも知らずにそっとしておいた方が良いような気がした。本能が、そう訴えていた。




