第十話
「それで倉敷、どうすんの、部長の件」
部長はすっかり話題を変えて、近くの椅子を引き寄せ座りながら訊いた。それを聞いた笠原がくるりと俺を見る。
俺は突然喉元に矛を突きつけられたように狼狽して、
「えぇぇ……、このタイミングで言いますか」
「このタイミングだから言うんだ。部長は早いうちから決めておいて、威厳を見せておいたほうがいい」
「確かに、去年、先輩が部長って聞いたとき超意外でしたからね」
笠原がこくこく頷く。先輩はカラカラと笑った。
「まぁね。同級やら先輩やらは俺をやたらプッシュしたんだよな。この部の長は俺みたいなのが良いってな。何でだか知らんが」
ふてくされるように脚を投げ出す。──本当にこの人は絶妙だとつくづく思う。真面目にやるのも、バカなことをするのにも、高い水準を保ちつつも、やり過ぎたり少なすぎたりしない。悩みすぎたり考えなさすぎたり、超感情的になったり過剰に冷静だったりすることがない。
安定感のある人というのが、部長に適任だ。そう誰かが言っていた気がする。
俺に、安定感があるのか。噛み過ぎたガムの様に味気の無い毎日に気づいてげんなりして、逃げ出すように占い師の家に逃げ込んだ俺が、果たして揺るがないでやっていけるのか?
ふいに視線を感じて回首すると、沙実が伺うような目を俺に向けていた。手を伸ばしたら、答えが指に絡まってきそうな眼だ。何かを言うのかと思えば、ただ俺を見据えているだけ。言わんとすることを察するまで、その視線と向き合っていたかった。
だが、部員達にとっては視線を逸らされたように思われかねないので、俺は慌てて向き直る。
先輩は緩んでいた頬をまた唐突に引き締めると、
「まぁ、選択肢としては、笠原がなるっていうもんもあると思うがな」
と言って笠原を青くさせた。
「え、うちですか!」
「部長はカリスマ性があったほうが良いからな。それで、倉敷が副になるのも一考だな」
「か、かりすまなんて無いです」
「いやー、後輩連中からは結構女神と拝まれてっかんねぇ。自然と付いてくるだろうに」
「えぇ……、でもうちは絶対無理ですよぉ、そんな部長なんて──」
「でも、実際笠原は副部長タイプですよ。情報収集力も超半端ないし、サポート役があってますよ」
俺は思わず助け舟を出してしまった。そんな雨の日ダンボールに入れられている捨て犬みたいな目で見つめられたら、こうする以外どうしようもないだろう。
「えぇ、副部長だなんて……」
あんまり抜本的な救援になってなかったようだが。
広木先輩は、いつのまにかニタニタしている顔を俺に向けて言った。
「まぁ最近、倉敷の活躍は目覚しいからな。お前なら、存分に権限を乱用してくれるだろう」
「それはどういう期待なんですか……」
「でも、倉敷君、最近頑張ってるよね」
言及を逃れられたからか、笠原は年齢相応の笑顔を浮かべている。
頑張ってる、ね。
まぁ、頑張っちゃいるけどさ。
妙に素直になれない。そう言ってくれるのは嬉しいのに、嬉しくないわけがないのに、理性の関所があるかのように、その褒め言葉が喜びに直結しない。
憮然とした俺の意識を掠るように、予鈴のチャイムが鳴った。
「ん、何だ、真面目に朝練しに来たのに終わっちったな。お前らも遅刻しないようにしろよ」
部長はやれやれといったように立ち上がると、荷物をかっさらうように回収して、手をぶらぶら振りながら退室していった。
俺は笠原を見て促して言う。
「……行くか」
「うん」
一時間目は、倫理だったか。
英語の小テストはことごとく満点だった。
俺は何の感慨もなくその数字を眺めていた。二週間に一回ほどのペースで行われるもので、半分とれればgoodの判子が貰える程の難しさを誇るのだが、勢いづいてこんな点数を取ってしまったのだ。
「おい、てめえ!」
新山がふいに肩口から顔を突き出して、目の前の満点を示す赤字に向けて文句を吐き出してくる。
「なんだよ」
まぁ自然な反応だな、と思いつつも、俺はすっとぼけた返事をした。新山は、ツチノコを見つけたような驚きと興奮に満ちた顔で、
「何で半分取れりゃ良い方な奴がいきなり満点なんだよ!」
「なんでだろうな……」
「負けた! 今回は、こっそり勉強をしてさりげなく勝って、見下してやろうと思ったのに!」
「またせこいことしてんな、お前は」
俺がうんざりとした口調で言ってやったら、新山も負けじとうんざりとしたような調子で言い返してくる。
「お前、最近ヤバくない? 持久走もバカ速いし、英語で指されたときも間違えないし、政経のむちゃぶりも上手くかわしてたし、倫理で寝ててもバレなかったし」
「突っ伏さなきゃバレねえよ、あれは」
「そうじゃねえ、一年の時どんだけ手を抜いてきたんだよ、って訊きたいんだよ」
「……全力だったがなぁ」
「はぁああ、俺もお前みたいに生まれてきたかったなぁ」
センチメンタルな溜息に乗せて呟くと、新山は遠い目をした。
俺はそんな反応が来るとは思わず、
「お、お前にそんなこと言われるとは思わなかったな」
なんて言うと、新山は目を見開いて、
「あぁ? あ、いや、俺は人の庭の芝の方が青いと思い込むタイプの奴だから」
「……幸せな奴だな」
俺は少しほっとしながら言った。これ以上問い質されたら、なんと返そうかと困るところだったが、謎の自己完結をしてくれたので助かった。
五年分のくしゃみを、今日まとめて一発でしたような衝撃が俺の頭部を襲い、俺は背中をバットで弾かれるように起き上がった。部屋の中は真っ暗である。それもそうだ、暗黒の時間を平然と過ごすために、俺はさっき寝付いたばかりなんだからな。
つまるところ、深夜だ。手元の時計を確認すると、日付が変わってしばらく経っている。
寝起きはぼんやりするのが相場だと言うのに、どういうわけかしゃっきりしている。というか、目玉が飛び出そうな程ギンギンなんですが。
沙実が俺の顔を覗き込んで、
「おはよう」
「気分的におはようで、時間的にこんばんはだな……」
俺はぼやきながら立ち上がった。
そういや、今晩が沙実の「テスト」だとか言ってたな。寝る直前まで覚えてたが、眠り始めた瞬間忘れちまってた。──そりゃそうか。
「外に出る準備をしてくれる?」
「はいはい」
俺は沙実に急かされたので、とりあえず首まで覆えるジャージに着替え、いつものように割り箸をポケットに突っ込み出かけた。
自転車にまたがると、またいつかと同じように荷台へ沙実がふわりと載っかって言う。
「運動場に行って」
「運動場……、って何処の」
「んー、わかんないけど、あっちの方向にある所……」
沙実は自信無さそうに言う割に、確信のこもった指をある方向に向けた。
北斗星とは真逆の方向、真南ってことになるが、そっちの方にある運動場っていうと──、どちらかというと競技場だろうが、一応遠くない位置に心当たりがある。
「柏宮運動公園か……?」
「知らないけど、多分そこだと思う」
「了解、じゃあ行くぜ」
俺はペダルを踏み込んだ。
快速の自転車は月が見下ろす乾いた道路を滑るように走り、全く車の通らない静かな交差点で赤信号に引っかかって停まる。
ここまで夜が深くなると、本当に閑静になるもんなんだな、と思った。
十五分ほどして到着した件の運動場というのは、いつしか国体の会場にもなったという、本格的な運動場だ。確か、小学校の時の社会科見学かなんかで来たのが最後だった気がする。
もちろん夜中なので、付近は背筋が常時鳥肌が立つほどひっそりしていて、入り口は堅く閉ざされている。入れないのは当たり前のこと。
俺は締め切られた事務所の前で佇んでいた。周囲を見渡してみる。そこでようやく気づいたが、大分気味が悪い。人類が絶滅したら、これくらい静かになるもんなのかね。
そういえば、沙実は自転車を下りた頃から姿をなくしていた。客観的に見れば、俺は一人ぼっちだということになる。
「どうすんだよ」
俺は少し心細くなって訊いた。沙実の反応は案外素早かった。
「裏門に回れば入れるんじゃない?」
「マジかよ」
「そんな高くないと思うけど」
「そういう問題じゃなくてな……」
侵入されないために拵えた門を、あっさりと飛び越えるなんていう行為に対する、良心のお咎めがあってな。──まぁ、どうせバレないか。
裏に回ると、無骨で二メートル半程度の門扉がどっしりと居座っていたが、俺はハードルを跳ぶような感覚でそれを素通りした。
トラックの舗装の上に降り立つと、壮大な競技場が目の前に現れる。ライトが無いので、さっぱり奥行きが分からないが、やっぱり広いな。
俺は無言に背中を押されるようにフィールドへ歩いて行く。観客席を見上げると、ぶっきらぼうに投げ込んだような暗さが、乱雑に垂れ下がっていた。滅茶苦茶不気味だ。生身の俺だったら、あの門扉のところで回れ右をしていただろう。
いや、正直言うと超怖い、二十一時の夜とは比べものにならない濃度の晦冥が、あちこちで渦巻いているみたいだ。
ふいにその真っ暗闇から、足音が聞こえた。芝を踏んづける、人間味のある音がした。
俺は立ち止まる。
その靴の音は俺の真正面から向かってくるようだった。俺は乾燥した口で慎重に呼吸をして、その音が到着するのを待っているかのように立ちすくむ。陳腐な擬音語では言い表せないその足音は、一定のテンポを刻み、やがてその音を大きくしていく。
やがて、闇夜にまみれてぼんやりと、その足音の主が姿を晒した。
痩身痩躯で背が高く、全身は軽鎧の様ないかつい服に包まれ、手には大ぶりの剣を握り締めている。顔がよく見えないが、俺はあんまり見てみたいとは思わない。
「どうも」
その姿を視認するとすぐに、えらく芯の通った聞き取りやすい声で挨拶された。
「こんばんは」
俺は、一瞬逡巡した後、挨拶し返してみた。
そいつは、少しくぐもったように笑うと、また俺に歩み寄ってきた。そして、その表情がやがてハッキリと俺の目に映るようになってくる。
異常なくらいの秀麗だった。超絵が上手い人が一週間かけて書いたイケメンの顔を、そのまま具現したような、街を歩けば女性の十人に十人が振り向き、百人に九十八人が立ち止まりそうな、それほどの端正な顔立ちの男が、俺の前にいる。
そいつはその森羅万象を体現したような瞳を、俺にまっすぐ向けて言った。
「妹が世話になっている」




