第一話
完結済みですので、以前のように更新が途絶えることはありません(笑)
毎日更新するつもりなので、最後までお付き合いして頂けたら幸いです。
「さて……」
中年の男がカルピスを机の上に置きながら、俺の目の前に座り込んだ。ちなみに、俺の分は無い。というか、もてなしの品も一切無いという待遇であったが、慣れっこなので何も言わない。
畳の上で机を挟んで向き合い、男が重厚な語りで言った。
「知らない間にでかくなったな、英悟」
「──久しぶりだって、言えばいいのに」
「学校はどうだ。彼女できたか」
「部活が忙しくて、それどころじゃないよ」
「つまんな」
「忙しいからね」
男はクッ、と子音だけで鋭く笑うと、カルピスを口に含んだ。
この男、俺の叔父にあたる高端努というのだが、実際の親父よりも俺の親父らしい。というのも、俺の両親は多忙で家に居ないことがしょっちゅうだったので、よく彼に預けられていたのだ。
お陰で、この面倒くさい性格も心得ている。上手くかわしていかないと、たちまちに話題は逸れに逸れまくって、本題を繰り出すことができないのだ。どう考えてもその性格と職業は、不適合な気がする。
占い師、という職業からすれば。
「そんな忙しいのに、よくぞまぁ、お前んちから遠い俺の家まで来たな。悩み事か」
「まぁ、アドバイスが欲しくてね」
「部活か? 恋愛か?」
「……どっちでもない」
いつもならこんな質問、もう少し強気な態度で蹴散らすところだったが、今回は割とまともな意見を求めて来たので、心の中に溜まっていくもどかしさをこらえながらの会話である。
その気を少し察したか、叔父はすぐに職業モードに移行してくれた。
「久しぶりに来たと思ったら、大人な話か。言ってみろ」
「あぁ」
俺は息を吸い込んだ。これまで溜めてきた言の葉を、全て吐き出すために。
「ある時から、友達に言われて日記をつけ始めたんだよ。文に書くことで、自分が判るって言うからね。ただ、初めのうちは順調に進んだけど、最近は何も書けなくなっちゃったんだよ。それで冷静に、前に俺の綴った文を見たら、同じことを繰り返してるだけな内容だった。それに気づいたら、もう毎日毎日がほんと味気なくなっちゃってさ。それが、なんか辛くて。……今は、高校生で、色々と必死だからまだいいかも知れないけどさ、大人になったどうなるか。もう学年だの卒業だのの区分がないから、とにかく面白みの無い日々が始まるんじゃないかって思い始めて……」
「あぁ、全く以ってその通り」
突然相槌を打たれたので、俺は面食らった。叔父は深さの知れぬ堅牢な顔をより一層深めて、続きを促すように、頷いている。
俺は、腹にある重石が徐々に重くなるような緊張を感じながら、
「だから、何か、ない? そんなおおっぴらに輝きたいってわけじゃないんだけど……」
「何か、か。分かった」
それを聞いた途端、重石がふと消えたように緊張が一気にほどけた。
「助かった」
「それじゃあ、顔を貸せ」
言われるがままに、頭を突き出す。叔父は俺の頭を両脇から握りつぶすように指で掴むと、ぐいと力を入れた。脳が直接圧迫されるような感覚で、あまり長時間やられると本当に頭が変形してしまうんじゃないか、というくらいの勢いである。
そのときに浮かんだ表情から、今後を読み取るのが、叔父の占いのやり方らしい。胡散臭いが、頭皮から伝わる圧迫感が言及を許さない。
今回は具体的なアドバイスを求めているだけあってか、いつもよりやたらと長い。真っ直ぐ俺の顔面を射抜く叔父の視線は、全く手加減をしない。頭を心配しているのか身体がやたらと疼く。
五分ほど経っただろうか。
叔父がふいに手を離した。そして言う。
「……お前は、不幸になりたいのか?」
「え?」
思うよりも先に口から出た。
俺は脳が正常に働くことを確かめるように、叔父の言葉の真意を探ろうとする。
何と言った? 不幸になりたいかって? そんな奴がいるのか? それほど、俺の顔は酷かったのか? 幸福に溺れているのか? それとも、既に不幸なのか?
「……いいや」
俺は、釈然としないまま答えた。
叔父も釈然としていないように見えたが、敢えてその様子を隠そうともせずに続ける。
「あぁ、悪かった、今の質問は忘れてくれ……」
そこで咳払い。
「あー、お前が日常から面白みを見出せなくなった、っていうのは俺としても意外なところだ……。部活は、何をやってんだっけ」
「吹奏楽。今は、大会に向けて、猛練習中だよ」
「──今日は、それを休んで来たのか」
「あぁ、いい加減、部活に支障が出そうな勢いだったからな」
俺は若干誇張して言った。そうでもしないと、この叔父は、俺に言わんとすることを言ってくれない気がしたからだ。
実際、その言葉は効き目があった。
「……お前、今日は電車で来たのか?」
「自転車で来る気にはなれないね。部活の疲れが溜まってる」
「外の風景を見ていろ。そこから、ヒントが得られるはずだ」
叔父は吐き出すように言い切りカルピスをあおった。
俺は、電車の車窓──ガラスの向こう側で建物が後ろに次々と過ぎ去っていく情景を思い浮かべながら、その助言の解釈をする。
「近くばっかり見てるから、同じものしか見えてないように思える、ってことかい」
「そうかもな。だが、もう俺から話すことはもうない。お前も、疲れが随分溜まってるようだから、今日はさっさと帰れ」
叔父はそう言って、立ち上がった。意味のよく見えない言葉に、俺もつられて立ち上がり、そのまま礼を言って叔父の家を出た。
もう、日が大分傾いている。それでも、いつもよりは家に早く着きそうだ。
俺は、新しい玩具を買ってもらったときの童心に似ている気分で、駅に向かって歩いていった。叔父のいつもと違う、不自由な雰囲気からの解放感があったのかも知れない。
いずれにせよ、俺は浄化された気でいたのだった。
改札を抜けてホームまで走っていくと、丁度電車が到着したところだった。俺は導かれるように、乗り込む。座席はほとんど埋まっていて座れそうも無かったので、窓がよく見える扉付近に陣取った。程なくして扉が閉まり、電車の駆動音が轟き始める。
ホームが視界から消えて、ようやく落ち着いた。
叔父の家から歩き始めて、ここまでずっと、どうにもつかみ所の無いアドバイスを聞いて、その真意を探っていたのだったが、それが間もなく分かるとなると、妙に素直な気分になるのだ。マジックの種明かしを、これから聞くようなものと似ている。
遠慮なしに建物が後方に過ぎ去っていった。
住宅街らしき、家が連なる風景が続く。遠くに学校のようなものが見える。反対側を見やったが、そちらも同じようなものだった。
ヒントが得られる、といったか。この延々と続く地平にヒントがあるというのか。それとも、この一瞬だけ現れる一つ一つの情景にあるのか、はたまた全体を通してあるのか。さすがに、あっという間に流れていく建物の壁に貼ってあるわけではなかろう。
程なくして、ホームに電車が滑り込み始めた。
扉の脇に佇み、逸らすことなく外を見つめる。丁度、目がぱっちりとした、割かしタイプな女性が乗り込んできたが、それでもくじけなかった。
発車する。立っているのはキツくはないが、席が空いたなら座りたい気分だった。
そういえば当方、吹奏楽部なのは存知だと思うが、合唱部員からこんな風に言われたことがある。
『座って練習できるなんていいよな』
なるほど、合唱は立ちっぱなしなのか、と思いながら、
『楽器がタダでいいよな』
と言い返したら、黙って何も言わなくなった。
座っていようが、立っていようが、同等に疲れるのであれば、俺は金の掛からない合唱の方がまだいいと思うがね。──そういう面だけで考えるのは、いささか無礼というか愚鈍な気がするが。
気がつくと、もう既にまた次の駅に着いていた。
いかんいかん、とまた車窓の外を眺めるが、何も見えないまま、また次のホームに流れ込む。目的の駅までの駅数が減っていくにつれて、また叔父の家に行く前までの緊張が蘇ってきた。
このままじゃ、俺が部活休んで来た意味がなくなってしまうぞ。
俺が改めて外を食い入るように見ていると、ふいに踏み切りが鳴る音が聴こえてきた。
子供の頃、踏み切りを待っている時、しきりに電車の中を凝視していたのを思い出す。友達だったり親戚だったり、誰か顔見知りが乗っているのではないか、と思ったりしたものだ。
逆に電車に乗っているときに、踏み切りを覗くなんてことをした覚えは無かったな。開くのを待つ人にとって踏切は重大なことなのに、通過する身になってみれば関係ないのか。
やがて、踏み切りに差し掛かる。
何気なく通り過ぎていく、と思ったら、違った。
俺の眼は凍ったように動かなくなった。動かすには、あまりにも理性が足りなさすぎた。
黄色と黒のバーの向こう、真っ向にこちらを見つめる少女がいた。
その子と俺の、目が合った。
宇宙の底のような輝きの瞳が、俺の目を捉えていた。一瞬だけでなく、追いかけるように。
目があったって? この高速で移動する筐の中にいる無数の人間の内の一人と、その外を通りすぎていく無数の人間の内の一人が、目を合わせるだと?
俺は慌てて窓の外を見たが、踏み切りはもう通り過ぎて見えなくなっていた。
シールで貼り付けられたかのように、その少女の風貌だけが脳内に残った。
幻覚か?
身体がぞくぞくとした。深夜の寺で見てはいけないものを見てしまったら、こんな風に身体が震えるのだろうか。
いかん、ここは電車内だ、公共の場だ。
よく分からない説得で自分を落ち着かせ、息の音が立たない程度に深呼吸をして、再び窓の外を見た。
俺のことを見ている人間なんて居なかった。当然のことなのに、俺は呆然とした。
「あの……」
唐突に声をかけられ、俺はコマの様な勢いで振り向く。すぐ近くに座っている、いかにも会社員といった男性だった。
「大丈夫ですか? 席、譲りますよ」
「あ、す、すみません!」
非常に動揺して、思わず座ってしまった。
嬉しかったが何だか妙に緊張してしまい、かしこまったまま目的の駅までたどりついてしまった。
電車の窓から外を眺めて、得られたものといえば、それだけだった。後は、疲れだけがひたすらに体内の陣地を広げていた。