第二話 少女
翌日。ラナイルさんに連れられて、僕とアリサは村のメインストリートを歩いていた。このロンド村は農業が主要産業の鄙びた田舎町であるため、メインストリートといても簡素なもの。まばらな家々や露店の間を、土を固めただけの道が通っているにすぎない。だが、ラナイルさんに用事がある都の役人が通ったりもするため、通りとして最低限度の体裁は整えられていた。
そんな通りを行く村人たちは、僕らの方を見るとみんな端の方へと避けていった。彼らはそうして道をあけると、にっこりと笑ってこちらに頭を下げる。ラナイルさんはこの村で村長以上に発言力を持つ有力者だそうだ。ゆえに、村人たちは彼女のご機嫌を損ねないようにしたいのだろう。しかし、そんな村人の態度をラナイルさんは何となく気に入らなかったりする。なんでもせっかく田舎暮らしをしているのだから、村人たちにはもっとフレンドリーに接してほしいのだとか。
こうして村人たちの微妙な視線を感じながら通りを歩いて行くと、割合大きな宿屋が見えてきた。この村では珍しい二階建ての木造建築だ。外観としてはリゾート地にありそうな小洒落たペンションといった感じで、村の建物の中では一番都会的。たぶん、外から来る客の目を意識したためこう言った瀟洒な建物になったのだろう。
「ココナ~! 私よ、出てきて」
「は~い、ちょっと待ってください」
ラナイルさんが大声で呼びかけると、バタバタと音を響かせながら二十歳ほどの女性が飛び出してきた。女性はパンパンとチェック地のワンピースを整えると、流れるような金髪を揺らして頭を下げる。彼女はこの宿屋の主人で、村一番の美女と名高いココナさんだ。さすがに村一番といわれるだけのことはあり、素晴らしい美貌である。溢れる豊かな金髪に白磁のように滑らかな肌。鼻は高く筋が通り、瞳は静謐な蒼を湛えている。加えて胸はワンピースがはちきれそうなほどだ。
こんな美人なココナさんであるが、この村でも珍しくラナイルさんに素の状態で接している人物である。ラナイルさんもそれが気に入っているようで、二人は友人といってもいいような親しい付き合いをしていた。そのためラナイルさんは食事処代わりにこの宿屋を利用したり、また逆に宿屋の部屋が足りなくなったりした時は、ココナさんが屋敷の部屋を借りたりしている。
親しげにラナイルさんと笑い合うココナさんをじーっと見つめる僕。その視線は恥ずかしながら、ココナさんの胸元に釘付けだ。五歳児といえど、中身は思春期真っ盛りの男の子なのである。だが、そうしてココナさんを凝視しているとどこからか手が伸びてきた。僕の視界が白い手でふさがれ、冷え冷えとした声が耳元で響く。
「坊ちゃん、女の胸元を凝視するなどはしたないですぞ。アリサはこんなふうに坊ちゃんを育ててしまった自分がちょっぴり情けないです」
「いや、これはそういうことじゃ……」
「いやもへったくれもないです!」
アリサの声はいつにもまして迫力があった。五歳の体なのに額から脂汗が出る。僕はとっさに背筋をビシッと伸ばすと、人形のように角ばった動作でうなずいた。するとアリサさんの手が目から離れていく。しかし、そこにはもうココナさんはいなかった。
「あれ、ココナさんは?」
「ココナなら一旦中に戻ったわよ。すぐ帰ってくるけどね」
ラナイルさんは開きっぱなしになっている宿の扉を指差した。大きな木の扉が完全に開け放たれていて、宿のカウンターが丸見えだ。なるほど、確かにすぐ戻ってくるつもりのようだった。僕は扉の方に目を凝らすと、ココナさんが帰ってくるのを待つ。すると、ココナさんよりいくぶん軽い足跡が奥から響いてきた。
不意に、銀色の髪の女の子が目の前に現れた。胸元にプラカードのようなものを下げた、一風変わった女の子だ。
僕と彼女の視線がぶつかる。その刹那、僕の意識がふっと遠のいて彼女の瞳に吸い込まれるような心地がした。ブラックホール。光さえも逃さない暗黒の穴に、彼女の瞳は何となく似ていた。それくらいどこか底冷えのする光のない目を彼女はしていたのだ。まだ小学校一年生ほどにしか見えない少女が、どんな経験をすればこんな目になるのか。僕の身体を得体の知れぬ黒い恐怖が走る。
僕のすぐ後ろに立っていたアリサも同様の気分になったようだった。彼女は眉を寄せると、ラナイルさんの元へ近づく。彼女はそ僕にも聞こえないような小声で何やらそっと耳打ちをした。するとラナイルさんの顔が若干ながら歪む。そのまま二人は険しい表情で物陰へと消えていった。
それと入れ替わるようにして、宿の中からココナさんが出てきた。彼女はあたりを見回して首をかしげると、そそくさと僕の方に近づいてくる。
「ラナイルとアリサさんは?」
「二人ならさっきいなくなりましたよ」
「あらそうなのですか……。残念、せっかくメルちゃんを連れてきたのに」
ココナさんは先ほどの少女を一瞥すると、ちょっと残念そうな顔をした。この子の名前はメルというらしい。僕はこのかなり不気味な少女について、ココナさんに聞いてみることにした。
「ココナさん、もしかしてこのメルちゃんが新しくうちにくる子なの?」
「ええ、そうですよ。ラナイルがそう言ってましたから、たぶん間違いないです」
「へえ……」
僕は改めてメルの顔を見た。幼い少女なのにすでに完成されたような趣のある顔は、まったく非の付けどころがないほど整っている。目の大きさ、鼻の高さ、唇の厚さ……顔を構成するすべてのパーツが予定調和的に組み合わせられていて、まったく隙がない。計算されつくした冷徹な美しさがそこにはある。だが、僕にはそんな彼女の顔がひどく不健康なものに見えてならなかった。今の彼女にはどこか陰がある。
「…………!」
僕がそうして顔を見つめていると、メルはココナさんの後ろに引っ込んでしまった。彼女は扉の後ろに回り込むと、ひょっこりと目だけを出して器用にこちらの様子を確認する。ココナさんはそんなメルの様子に、ハアと息をつきながら苦笑した。
「メルちゃんは人見知りさんなのですよ。私が話しかけようとしてもずっとあんな様子なのです。だから、嫌われてるとかじゃないので気にしないでください」
「はあ……。でもこれからはメルちゃんと僕は家族になるんですよ。仲良くしなきゃ」
僕は制止しようとするココナさんを振り切って、扉を開けた。ビックリしたようなララの顔が飛び込んでくる。彼女はスッと足を引きずるようにして、後ろへと一歩下がった。僕もまたそれを追うようにして、一歩足を進める。すると、ララが首から下げているプラカードようなものに変化が現れた。
『来ないで』
プラカードもどきに、こんな文字が太くはっきりした線であらわれた。おかしい、こんな文字は書かれていなかったはずだ。僕はびっくりしたようにメルの顔を見る。するとプラカードもどきにまた文字が現れた。
『私が出しているの。私、しゃべれないから』
「しゃべれない? ほんと?」
『ええ』
こくこくとうなずくメル。なるほど。だから「訳ありの子」とラナイルさんが言っていたのか。だけど、僕は声が出せないことなんて気にしない。この世の中、そんな子はごまんといるだろう。とくにこの世界は人として何かが欠けたことが前提の黒司書が大活躍する世界だ。僕はメルの方にまた一歩近づくと、出来るだけ優しく笑う。
「大丈夫、僕やみんなはそんなこと気にしない」
『嘘。そういって本当はみんな気にする』
「そんなことないよ。現にうちのラナイルさんだって手がないけど、そんなことうちの家族や村の人は誰も気にしてやしないもの。君に声がないのだって、みんな気にしないさ」
『……そういうもの?』
メルの眼には疑いの色が浮かんでいた。少女の心の揺れが目を通してダイレクトに伝わってくる。僕はそれに動揺しながらも、極力優しい顔で続けた。ここで踏ん張らないで、いつ踏ん張るというのだろうか。
「そうに決まってるさ。だから心を開いてみない?」
長い沈黙があった。メルは顔を下に向けると、額に子供らしからぬしわを寄せる。皮膚がしびれるような緊迫感が、宙を支配した。
『……ちょっとだけ、信じてみるの』
メルの顔がぱっと華やいだ。顔から険しさが抜けて、満月のような笑みが浮かべられる。僕はその笑顔に微笑みで返し、二人はさらに大きく笑った。
これが後に義姉となるメルとの、初めての出会いだった――。