第一話 スカーレット家
目の前に広がる農村風景。黄昏にそよぐ草原とすでに暗い森の境目あたりに、小さな集落と畑が広がっている。家々はいづれも垢抜けない石造りで、三角の屋根を被っていた。畑もよくみると若干形がいびつで、それが機械などを用いず人の手で開墾されたことがよくわかる。まかり間違っても機械化の進んだ現代日本の田舎などではなく、昔のヨーロッパの田舎という感じだ。
僕はそんな村を、小高い丘の上にある屋敷のベランダから眺めていた。足場を使って手すりからやや身体を乗り出し、日本では見ることができない美しい田園風景を存分に満喫する。これがまだ五歳になったばかりである僕の、最近の楽しみだ。
本と契約してこの世界に来てから早五年の月日が流れようとしていた。赤ん坊のころについてはさすがにほとんど覚えていないが、どうやら僕は森の中にぽつんと捨てられていたらしい。それをこの屋敷の主であるラナイル・スカーレットが拾ってきて養子にしたのだそうだ。以来、僕はこの家でラナイルさんを母と思いながら暮らしている。
そんな僕の名前はライ・スカーレットという。ラナイルさんが僕を拾った日は凄い雷雨だったらしく、そこからライと名付けたんだそうな。なんともはや安直なネーミングセンスである。ラナイルさんという人物は美人で優秀なのだけど、なんとなくそういうところがおざなりだ。
ちなみに、この世界の言語などはほとんど日本語と変わらない。だから雷雨のことをちゃんと「ライウ」というのだ。禁書が僕の高校の図書館にあったりもしたので、ひょっとしたらこの世界と日本では何かつながりがあるのかもしれないが……そんなことは今の僕にはわからない。まあ、とりあえず便利なので喜んではいる。もし訳のわからない異世界語だったりしたら、五歳になってもきっと十分に喋べれなかっただろう。本がしてくれたのはあくまで異世界への転生と魔法が使えるようにしてくれたことだけ。頭脳などのベースは僕自身のものなのだ。
とにもかくにも、こうして物思いにふけりながら僕は涼やかな風に吹かれる。小高い丘の上にあるこの家のベランダは、とても風が心地よい。こうして手すりから身を乗り出し冷やっこい風に吹かれていると、最高の気分だ。僕は鳥になったかのように解放感を謳歌する。だがその時、不意にベランダの扉が開いた。扉の向こうから、クラシカルなメイド服を着た十代半ばほどの少女が現れる。彼女のアーモンド形の黒く大きな瞳が細められるのを見て、僕はあわてて手すりからベランダへと跳び下りた。
「坊ちゃん! また危ないことをしてましたな!?」
「ごめんなさい」
「まったく、坊ちゃんは物分かりがいいのに無茶をするんですから。あんまり私を困らせないでください」
「うん、わかった。もうしないよ」
僕が素直に謝ると、少女は腰近くまで伸びたポニーテールを揺らして、ウムウムとうなずく。彼女の名前はアリサ。うちの屋敷で働いているメイドさんだ。とても優秀な人で、お姉さん代わりに僕の面倒を見てくれている。ちょっと古風でサムライみたいな堅苦しい考えをしているのが難点だが、黒髪黒眼で凛とした容貌が美しい自慢のメイドさんだ。
「さてと、反省したところでそろそろラナイル様が帰ってくる時間です。ちと早いですが、食事にしますのでついて来てください」
「はーい」
アリサの誘うまま、僕はとととッと彼女について行った。今日は長らく出かけていたラナイルさんが帰ってくる日。久々に家族全員そろっての食卓だ。楽しみでないはずがない。僕は帰ってくるであろうラナイルさんの顔を思い浮かべながら、とてとてと食卓へと歩いて行ったのだった。
並べられた料理が白い湯気を立てている。旨そうな香りが鼻腔をつき、僕のお腹がグーっと悲鳴を上げる。今日はアリサも奮発したようで、ずいぶんと豪華なメニューが並べられていた。海の幸に山の幸、色とりどりの料理がフランス料理よろしく小さく取り分けられて並んでいる。豪奢な装飾の銀食器に乗せられたそれらは、僕の食欲を激しく刺激した。
「ねえ、まだ食べちゃだめなの?」
「ラナイル様が帰ってくるまでの我慢です。まだ食べてはなりませんぞ」
「そんなぁ……」
ラナイルさんの帰りは遅れていた。窓から見える景色はすっかりと暗くなっている。もうかれこれ、何分待ちぼうけを喰らっているだろうか。食べざかりの身体に食事を我慢させるのはいかにもつらい。
そうしていよいよ、僕がこっそりとつまみ食いでもしようかと思った時。食堂の扉が少々乱暴に押しあけられて、二十代半ばほどの女性が現れた。ラナイルさんだ。彼女はだらしなく着崩したコートを脱ぎながら、まっすぐこちらへとやって来た。
「ただいま~! 馬車の都合でちょっと遅くなったわ」
「おかえりなさい!」
「おかえりなさいませ」
アリサはラナイルさんにすごすごと近づいて行くと、その手からコートを受け取った。彼女はそのまま頭を下げると、一歩下がってラナイルさんの左手を見る。その黒光りする鋼の手には、大きな罅が入ってしまっていた。アリサは心配そうに顔をゆがめる。
「あの、義手が傷んでいるようですが……。お仕事の方は大丈夫でしたか?」
「ええ、もちろん。義手はどうも寿命が来てたみたいね。今度の仕事までには直してもらっとくわ」
笑いながらそう言ったラナイルさん。アリサはそれを聞いてほっと安心したようだ。きつくなっていた目元がゆるみ、口からと息が漏れる。
僕はまだ詳しく教えてもらっていないが、ラナイルさんは何か命がけの仕事をしている。村に屋敷を立てていることなどからすると、おそらく黒司書だろう。黒司書は禁書を追いかけるだけでなく、その高い戦闘力を活かして犯罪者の捕縛や有害生物の退治などの仕事も請け負う。その仕事料は法外で、一回で家が建つほどの金額だ。
また、黒司書をやっているならばラナイルさんの腕が義手である理由もわかる。魔法の代償として腕をささげるというのは、黒司書にはよくあることなのだ。だからラナイルさんは九分九厘、黒司書なのだろうが……。僕は彼女が魔法を使っているところを見たことがない。まあ、そのうち機会があれば見られるだろう――。
「いただきます!」
ピッタリと三人の声が重なった。僕たちは一斉に各々の皿に手を伸ばす。これはメイドのアリサも一緒である。前は彼女だけ後で食事をとっていたのだそうだが、ラナイルさんが一緒に食べるようにさせた。なんでも「二人だけだとさびしいから」ということなのだそうだ。このことが原因でアリサが一時期、ラナイルさんを信者のごとく崇拝していた時期があったのだが……。基本的にだらしないラナイルさんの正体に気がついて、信仰するのはやめたようだ。
僕がアリサに見られながらお行儀よく食事をしていると、ラナイルさんはもうすでに食事を終えてしまっていた。基本的にマナーなど一切気にしないこの人は食べるのがやたら早い。そうして手持ち無沙汰になった彼女は暇そうに僕の方を見ると、おもむろに口を開いた。
「ねえ、ライ。あんたってさ、姉妹が欲しかったりする?」
「えッ、どういうこと?」
「ラナイル様、まさかそれは結婚して子供を……!」
言葉を失い、目を真ん丸にした僕とアリサ。僕たち二人は互いにひきつったような顔を見合わせた。ラナイルさんがまさか結婚……!? 常日頃から「結婚なんて死んでもしない」といっていただけに、雷が落ちたくらいに衝撃的だ。そもそも、顔とスタイルは素晴らしいが基本ちゃらんぽらんなこの人を貰ってくれる男がいたことにびっくりである。
僕たちが驚愕に顔をゆがめていると、ラナイルさんは違う違うとばかりに手を振った。彼女は苦笑すると、冗談混じりに事態を説明する。
「そんなわけないでしょ。結婚なんて死んでもいやよ。そうじゃなくてね、私の知り合いで病気がちの人がいるんだけど、その人の娘を引き取らないかって話があってさ。ちょっと訳ありの娘なんだけど……。どうかしら?」
「……いいんじゃないかな」
「私も構わないと思いますが」
「そう。じゃあ早速だけど明日、顔合わせをするとしましょうかね」
ラナイルさんはやわらかに微笑んだ。それにつられるかのように、僕たちも笑う。こうして食事は無事に終わって、僕たちは明日を待つことになった――。