プロローグ
夕闇に落ちゆく学校図書館。その静けさの中で一人、僕は本を読んでいた。図書委員用の座り心地の良いデスクチェアに腰をうずめて、少し暗いのも構わず活字に視線を走らせる。
夕方の図書館というのは幻想的だ。並べられた書架の間を夕陽が通り抜けて、本が黄金色に輝く。その反面、書架の隙間は深い闇に沈む。一切の物音がしない静寂の中にあって、その陰陽の対比はなんとも美しい。だから僕は毎日この時間帯に図書館で読書をすることを生きがいにしていた。ただし、読むのは面白い本に限るけれど。
今日読んでいる本は、そういう意味でとても当たりといえる本だった。図書委員として本の整理をしていた時、偶然見つけた紅い表紙の辞書のような本。タイトルは『黒司書日記』といって、とても古びた仰々しい装丁の割に、ライトノベルのような内容の本だ。だが、話はとても壮大で面白く、ついつい時間を忘れて引き込まれてしまう魅力があった。
黒司書日記は剣と魔法の世界を舞台にしたファンタジー小説だ。内容は王道的で、封印から解き放たれてしまった自我と絶大な力を持つ禁書を、黒司書と呼ばれる人々が捕獲するというもの。黒司書と禁書との華々しい戦闘。さらに禁書を捕まえるために黒司書が他の禁書と契約するという矛盾。そして何より、魔法を使うがゆえに、対価として何かをささげた黒司書同士の触れ合いが魅力的な小説だ。
「ふう……。って、もうこんな時間か」
ふと見た時計は、七時近くを示していた。そろそろ練習熱心な部活も終わり、司書の先生が図書館の戸締りに来る時間だ。先生に見つかるとまずい。僕は早々に本を手に取ると元の場所へと戻そうとする。悲しいかな、この黒司書日記にはバーコードが貼られていない。要は貸し出し不可の本なのだ。古びてはいるが、ただの小説なのに。
そうして僕が書架の谷間へ足を踏み込むと、不意にぞわりとした感触が身体を襲う。こんにゃくにでも包まれたかのような、なんとも嫌な感覚だ。僕は思わず硬直して、手にしていた本を落とす。するとなぜだろう、甲高い悲鳴のようなものが聞こえた。
「だ、誰かいるの?」
僕はブンブンと首を振る。だが、視界に移るのは暗闇ばかりで誰の姿も見えやしない。強いて言うなら本があるだけだ。僕は気のせいだったのかと本を拾おうとする。すると、またもや僕の耳に声が飛び込んできた。今度は悲鳴ではない、はっきりとした言葉だ。
「坊主、俺の声が聞こえるのか?」
「お、お前誰だ!」
「目の前にいるじゃねえか。俺だよ俺、黒司書日記だよ」
何を言っているんだ? 僕は呆れてしまった。本がしゃべるわけなんてない。うすら寒いものを背中に感じながらも、声を無視して本を手に取り、棚へと戻そうとする。すると――。
「ひいッ!」
温かかった。本がちょうどひと肌ほどに温かい。僕は引き攣った表情をしながらそっとそれを手放すと、ゆっくりと後ずさる。もうこんなのごめんだ、先生に怒られても本は明日、元に戻そう。
決意した僕は、小さな歩幅で足早にその場を歩き去ろうとした。だがその時、本がふわりと浮きあがった。表紙に怪しげな魔法陣を浮かび上がらせたそれは、ひらひらとこちらへ飛んでくる。ふわりふわり、紫色のオーラのようなものを帯びながら、それは僕の方へまっすぐ迫ってきた。
腰が抜けた。顔から血の気が引いて、目が大きく開いて行くのが自分でもわかる。怖い、気持ち悪い。そんな感情が頭を埋めた。
「おいおい、そんなにビビることはないだろ? 俺はただの禁書だぜ。ほら、俺の物語を読んだならわかるだろ」
「……禁書? もしかして黒司書日記の?」
「ああ、そうだぜ。しかも最上位のひとつさ」
胸を張るように、本の表紙が弓なりに反った。案外と親しみやすい本である。僕はちょっと安心して、顔を緩めた。いつもの悪い癖だ、ちょっとでも興味のあることを言われると、相手がだれであろうと僕は話に喰いついてしまう。
「へえ、そうなんだ。でもあれってフィクションのお話じゃないの?」
「フィクション? ああ、嘘ってことか。違うぜ、黒司書日記は実際にあった話さ。ただ、この世界の人間の趣味に合うように、多少の脚色はしてあるけどな」
「じゃあ黒司書も実在するんだ?」
「もちろん。物語ほどかっこよくはないが、ちゃんといるぜ」
胸が高鳴るのを感じた。あの黒司書たちは実在する……! その事実だけで僕は興奮して顔が赤くなる。まるで、ウルトラマンが実在すると言われた子供のようだ。先ほどまでの怖さなどはうそのように消し飛んで、僕の瞳に輝きが戻る。もう、この本のことはちっとも怖くない。
僕が興奮した顔をしていると、本が近づいてきた。そして耳元でそっとささやく。
「坊主、黒司書によっぽど憧れてるみたいだな?」
「まあね、だってカッコいいんだもん」
「そうかい。じゃあここでもし、黒司書になれるかもしれないって言ったらどうする?」
はたと時が止まった。
僕はボウッとして、思考がゆっくりになる。黒司書になれる……? 本の言葉がにわかに信じられない。僕は素早く唇を震わせて、囁く。
「本当になれるの?」
「確実に、とは言わねえがな。俺と契約すればお前次第で黒司書になれるぜ」
「契約……。対価は何? 腕とか寿命とかはさすがに無理だよ」
禁書との契約に対価はつきものだ。事実、黒司書たちは手足に寿命、さらには感情など様々なものを魔法を使用するための対価として禁書に差し出す。だが、僕にはそんなものを差し出すほどの勇気はさすがにない。僕はちょっと、眉をゆがめた。すると本は、そんなこと見透かしていたかのようにククっと笑う。
「なあに、大したもんじゃないさ。この世界でのお前の存在と年齢なんてのはどうだ?」
「……それを捧げるとどうなるのさ?」
「どうもなりはしねえよ。ただ黒司書のいる世界に赤ん坊として転移するってだけのことさ。魔法が使える状態でな」
いわゆる、異世界転生と同じ状態になるってことだろうか。しかも赤ん坊のころから魔法が使えるなど……チート転生といってもいいかもしれない。ネット小説などによくあるパターンだ。僕はちょっと考え始めた。
今までの人生に不満がないかといわれれば嘘になる。僕はどちらかといえば社交性のない人間であったし、両親はともに死亡している親戚中の厄介者。家庭内でも学校でも何となく居心地が悪かった。たぶん居なくなっても、社交辞令程度に悲しまれるぐらいだ。そういった面では、この世界にほとんど未練というものはない。
それに、恥ずかしながら魔法や超能力というものを僕は大好きだ。そう言ったものが、いまちょっと手を伸ばせば使えるところにある。心が揺れないわけがなかった。僕は考えをまとめるべく大きくため息をつく。本はそんな僕をフラフラと宙を漂いながら見守っていた。
気が遠くなるほど長い時が流れたような気がした。ようやく考えを固めた僕は、本をしっかりと見据える。そして小さいがはっきりとした口調で宣言した。
「……契約するよ」
「フフッ、良い選択をしたと思うぜ。それじゃあせいぜい第二の人生を楽しんできな!」
足もとで怪しい光が揺らめいた。同時に急速に意識が薄れていく。こうして僕は、異世界へと旅立っていったのだった――。