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私(ぼく)が君にできること  作者: 本知そら
第二部三章 楓と遥
99/132

第79話 頑張れ ◆

挿絵(By みてみん)

「う~~……」


 お風呂から上がり、ソファーに座って髪を乾かしていると、ふいに背後からドアの開く音が聞こえた。振り返れば、薄く目を閉じて眉間に皺を寄せた椿が、顔を上げては下げてを繰り返しつつリビングに入ってきた。


 ドライヤーを切り、髪に触れる。まだ半乾きというところだけれど、これくらいなら大丈夫だろう。


 年々長くなり、乾かす時間が増えていく黒い髪。濡れるととても重いから、たまにばっさりと切ってしまおうかと思うこともある。しかし中学の頃、はさみを持った僕に遥が「それだけはやめとけ。いや、やめてくれ」と強い口調で何度となく釘を刺されたので、今じゃ髪を切りたいと思うことはあっても、ただ思うだけで留まり、選択肢が現われることはなくなった。


 まあ、遥が似合っていると言ってくれることが嬉しいからいいんだけどね。もう慣れちゃったし。


 コンセントからプラグを抜いて巻き取り、ドライヤーをローテーブルの隅に置く。肩に掛けているバスタオルの位置を直し、顔を上げた。


「椿。お風呂空いたよ」


「あ、うん」


 返事はすれども行動はなし。椿は俯いたまま僕の隣に腰を下ろすと、手を伸ばしてきた。上半身を捻ってそれを躱す。


「あれ……? もう、お姉ちゃん。避けないでよ」


「突然頭を触ろうとしてきたら誰だって避けるよ」


 特に今は髪を梳いたばかりだし濡れている。触られてぐしゃぐしゃにされると後が面倒だ。


「触ろうとじゃなくて、撫でようとしたの」


「言い方が違うだけで一緒だよ」


「今のわたしには癒しが必要なの」


「僕の髪に癒しを求めないで」


「髪じゃなくて頭だよ」


「それも一緒」


 再び伸びてきた手を立ち上がって避ける。その場でくるりと回り、一睨みしてやろうと椿を見下ろしたところ、めざとくそれに気付き、むむっと眉間に皺に寄せた。


 椿が着ている長袖のTシャツとズボンは、室内着であるため生地が薄い。おかげで体の柔らかな曲線や、胸の膨らみや形までもがはっきりと分かった。その少女というには少し似つかわしくない姿は、彼女を十二分に年相応の女の子に見せていた。対して僕はと言えば、去年奈菜に貰ったパジャマ代わりにもできる薄いピンク色のフード付きワンピースを着ているのだけど……まあ、その、うん。あれだ。椿よりも体が全体的に『そこはかとなく』小さいので、曲線が云々という域に達していないように思える。椿と同じくらいはあるであろう胸の膨らみが、せめてもの主張といったところか。


『それでぬいぐるみとか持ったら完璧やな!』


 笑いながら言われた沙枝の言葉を思い出す。なにが完璧だ。着心地が素晴らしく良くなかったら、こんな服は投げ捨てているところだ。……奈菜に悪いから捨てないけど。あくまでも言葉の綾ということで。


 実際にぬいぐるみを持たされた左手をぎゅっと握りしめて、椿から視線をそらし脱衣所へと向かう。洗面所横に置いてあるバスケットの中の洗濯物とバスタオルを洗濯機に放り込み、洗剤と柔軟剤を投入。あとは椿の洗濯物を入れるだけでOKの状態にしてリビングへ戻ってくると、椿はまだソファーに座ったままだった。


「椿、お風呂。冷めちゃうよ?」


「うん。すぐ行く」


 ……と言ったのにやっぱり動かない。お風呂は冷えても温め直せば済むけど、ガス代がもったいないから早く入ってほしいのに。今日は遥から貰った桜の香りがする入浴剤を入れているのでなおさらだ。


 椿の手を警戒しつつ隣に座り、顔を覗き込む。心ここに在らずといったところだ。


「……きゃっ。ビックリした。どうしたのお姉ちゃん?」


 数秒遅れて気付いたらしく、女の子らしい悲鳴を上げて体を仰け反らせた。


「それはこっちのセリフ。さっきからぼーっとしてるけど、何か考え事?」


「えっと、うん。解けそうで解けない問題があって、ずっと考えてるの。どうしてもあの答えにならなくて」


「テスト勉強?」


 椿がコクリと頷く。なるほど、だからずっと唸っているのか。


 明日は二学期の中間考査最終日。その日は英語に数学と、椿が苦手とする教科が揃っているらしく、「今日は徹夜する覚悟!」と昼間に缶コーヒーが三、四本入ったビニール袋を下げて意気込んでいたのを思い出す。当然徹夜もカフェインの取り過ぎも体に良くない。そうまでして勉強するのなら、徹夜しなくていいように毎日少しずつ勉強すればいいのに。そう助言すると、「それで点数取れるのは限られた人だけなんだよ」とちょっと怖い目をして諭されてしまった。


「お姉ちゃんは頭いいから余裕そうで良いよね。帰ってきてからもお昼寝してたみたいだし」


 ジロリと椿に睨まれ、たまらず目をそらす。


「別に余裕じゃないよ。お昼寝は、その、テストで疲れたからで……」


 体力がないのだから仕方ない。


「まあまあ余裕じゃないだなんて、そんなご謙遜を。実力テストで九位だったお姉ちゃんが何を仰るのやら。実力テストの前の日にちょこっとだけ勉強してあの順位。わたしには到底できない芸当ですわ」


 むむ……。今日の椿はなんか意地悪だ。連日の夜更かしでストレスが溜まっているのかもしれない。よく見ると目の下には隈ができていた。


 僕に八つ当たりするのは構わない。しかし、自身が溜めたストレスを身勝手に他者にぶつける行為はとても褒められたものじゃない。……や、やっぱりここは姉としてビシッと叱るべきなのだろうか。でも叱るのってどうすればいいんだろう。椿を叱ったことなんて一度もない。昔から僕の言うことをよく聞いてくれるとても良い子だった。というより、あれ? 僕って誰かを叱ったことあったっけ? 怒ったことはあるけど、主に遥に。


 試しに頭の中で予習してみよう。「だめだよ、めっ」……いやいや小さな子供じゃあるまいし。「その自分勝手な物言いが相手を傷つけているんだよ?」……ううん、ちょっときついかな。「ふー。椿がそんなこと言うんなら、もう口聞いてあげない」……ひどいっ。


「あの、ごめんなさい。ちょっと意地悪だったね。お姉ちゃんにこんなこと言うつもりはなかったのに」


「えっ。う、ううん。気にしてないよ」


 その必要はなかったようだ。すぐに自らの行為を振り返り反省できるなんて、なんともできた妹。出来過ぎて何もできないことがちょっと寂しくはあったりするけど。


 しゅんとした椿に微笑みかけると、彼女は安心したようにほっと息を吐いた、


「でも、そんなに根を詰めてまで勉強しなくたっていいんじゃないかな。椿だって成績が悪いわけじゃないし」


 椿の成績は悪くない。むしろ良い方だろう。この街でも有数の進学である学園で、一学期の学年成績順位は五十三位だったのだ。この前の実力テストだって四十八位だったと言うし、充分に誇れることだと思う。……僕がそれを言うと嫌味に聞こえてしまうだろうから、決して口には出さない。


「ううん。それじゃ駄目なの。わたし、お姉ちゃんの妹だから、お姉ちゃんの妹として恥ずかしくないように、お姉ちゃんが自慢できるような妹になりたいの」


「それで勉強を頑張ってた?」


 椿は少し遅れて、ゆっくりと頷いた。


 じーんと胸に来た。僕が自慢できるような妹になりたいから。それは裏を返せば、僕に自慢される妹になりたいということ。そんなにも僕のことを慕ってくれているという事実に、改めて感動する。


「なんだそんなことか。だったらもう頑張らなくて良いね」


「ど、どうして?」


「だって、もう椿は僕の自慢の妹だから」


 椿が驚いたように目を丸くする。何を驚いているのやら。こんなにできた妹が自慢じゃなくてなんだというのか。


「ほら、お風呂。ぬるくなる前に入っちゃって」


「う、うんっ」


 椿は元気良く返事すると、すっくと立ち上がった。そのまま立ち去るかと思いきや、横目で僕を見て、


「でも、やっぱりお姉ちゃんにもっと褒められたいから、わたし頑張るねっ」


 そう言い残して、リビングを足早に出て行った。その頬は少しだけ赤くなっていた。


 ◇◆◇◆


 テスト範囲を一通り復習し終えてふと時計を見ると、いつの間にか時刻は二十三時を回っていた。自室に戻ってきて早二時間。集中していると時間が経つのは早い。


 うんっと伸びをして立ち上がる。勉強はこのくらいでいいだろう。机を片付け、明日に備えて鞄に必要な物を詰める。筆記用具に教科書、ノート、いざという時のためにいろいろ入っているポーチ。机の隅にある充電器に携帯電話をセットして、その横にお財布を置く。


 準備を済ませ、トイレに行ってから布団に入ろうと廊下に出ると、椿の部屋から光から漏れているのに気付いた。扉が少し開いているようだった。本当に徹夜するつもりなのかな。邪魔してはいけないと思い、気付かれないよう扉の隙間から中をそっと覗き込む。


 椿は机に向かっていた。熱心に勉強しているようだ。振り向くことなく、カリカリとシャーペンをノート上で走らせている。机の脇には缶コーヒーが三本。そのうちの一本の蓋が開いていた。すぐ横にはサンドウィッチがあるけど、コーヒーと合うのだろうか。そもそもよくもまあコーヒーなんて飲めるものだ。しかも微糖。少ししか砂糖が入っていないのだ。あれを僕が飲んだら間違いなく頭痛を起こす自信がある。


「ふっ……はあ。疲れた」


 と、椿が体を起こして伸びをした。ぷるぷると震える両手が頭の上から机に戻り、コーヒーを手に取った。


「ちょっと休憩」


 缶コーヒーを傾けながら、一番下の引き出しを開け、分厚いアルバムのような物を取り出し……って、それは桜花の時に撮った写真を収めた僕のアルバムじゃないか!


「ふふっ。お姉ちゃん可愛い」


 たしかに数日前、桜花の頃の写真を見たいと言うから、遥に貰ったアルバムを貸したけど、それはさらっと流し見する程度だと、軽い気持ちで貸したのであって、引き出しにしまって休憩時間にじっくりと見るのを許可した覚えは――


「遥先輩と一緒にいるときのお姉ちゃんが一番可愛いなあ……。やっぱり安心しているからかな」


 え、そうなの? 僕はまったく意識していないけど、写真を見ると一目瞭然なの? 自分のアルバムなんて恥ずかしくてじっくり見たことないから分からない。……いやいやそうじゃなくて! なんで妹に可愛いなんて褒められるんだよ! 恥ずかしいじゃないかっ。


「はあ……」


 頬杖をつき、ため息をつく椿。なんのため息だろう。アルバムのページを捲りながらどうしてため息をつくのだろう。


「わたしもお姉ちゃんと同じ中学だったら良かったな……」


 ズキリと胸が痛んだ。決して僕の前では吐かない椿の本音。それはそうだ。これだけ僕を慕ってくれているのなら、同じ学校に通いたかったと思うのは当然。椿には、僕しか家族がいないのだから。


 離れてしまったのは僕のせい。弱かった僕のせい。溢れ出る自らの感情に蓋をして妹を第一に考える、そんな兄として当たり前のことができなかった僕のせい。……あの時僕が我慢できていれば、僕も椿と同じ中学に通っていたのかもしれない。そう考えると申し訳なくなってしまう。


 チクリと頭が痛む。針で刺されたような、鋭くも短い痛み。まるで彼女が僕を叱っているようだ。


「……さて、休憩終わり。頑張ろうっ」


 頬をパシパシと叩いて、再びシャーペンを手に取る椿。あのやる気。前言通り徹夜コースらしい。


 頑張れ。


 届かない声で椿にエールを送り、僕はその場を離れた。

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