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私(ぼく)が君にできること  作者: 本知そら
第二部二章 それは昔の話
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外伝6-11 水無瀬遥(君の名前2)

 遥さんのことを遥と呼び捨てにしているのはこの学校の生徒はおろか、教職員、校長や理事長まで含めても二人だけ。沙枝さんと奈菜さんだけだ。


 沙枝さんは遥さんと同規模の家系の生まれ。そして彼女自身が裏表のないさばさばした性格なこともあり、初等部で出会った当初から遥さんのことを呼び捨てにしていたらしい。ちなみに遥さん曰く、その呼び捨てられたことが、沙枝さんと友達になろうと思ったきっかけらしい。


 奈菜さんと遥さんの付き合いは長い。遥さんの両親と奈菜さんの両親は元学友だったことから、家族ぐるみでの付き合いが幼少の頃からあり、物心つく頃にはすでに二人は友達で、お互いを呼び捨てにしていたらしい。


 遥さんは根が真面目な人だ。真面目過ぎて、潔癖過ぎて、自分がどういう人間か知って、お近づきになろうとする、裏心ある者は全て拒んできた。そうして友達と認められなかった者は彼女に近づくことさえ出来ず、遠巻きから尊敬と畏怖の念を抱きながら、彼女のことを「お姉さま」だとか「水無瀬様」だとか呼んで、ただ見つめるだけだった。


 その結果、遥さんが友達と呼べる人は両手で済むくらいしかいない。沙枝さんと奈菜さんと、沙枝さんと奈菜さんが親しくしている友人の極一部と、去年卒業して今は桜花の高等部に通っている元生徒会長。そして僕。


『お姉さま。どうして奈菜先輩や水無瀬様のことを呼び捨てにしないのですか?』


 ある日の部活中、ふいに水洗寺が尋ねてきた。新入生である彼女でさえ、遥さんがどういう人物なのか知っていた。そして僕が遥さんととても仲が良い友人であることも知っていた。


『聞くところによると、水無瀬様から頻繁に催促されているのですよね? 呼び捨てにしてほしい、と』


 何故か僕と遥さんの会話は筒抜けらしい。おかげで水洗寺以外にもよく同じ質問を投げかけられる。せっかく仲良しなのだから、呼び捨てにすればいいのに、と。


 僕だってできるならとうの昔にやっている。できないからこうして困っているんだ。


 遥。ただそう呼べばいいだけ。それだけで済む話。でもそれは僕にとってベルリンの壁を壊すが如く難しい話で、易々と解決できるものではなかった。理由は僕にも不明。なんとなく彼女を、彼女達を呼び捨てにすることはできなかった。


 それは単純に恥ずかしいからなのか。それとも、僕にとって呼び捨てると言うことが、思っている以上に大切にしているからなのか。


 ◇◆◇◆


「ええ。はい。承りました。寮母様もお気を付けて。では、ごきげんよう」


 寮部屋にやってきた寮母の応対をしていた遥さんが、ドアを閉めて振り返った。


「大雨で今日は一日休校だってよ」


「そっか。凄い雨だもんね」


 遥さんの変わり身の早さに内心驚きながら、窓の外に目を移す。隙間のないくらいに大量の雨粒がガラスに叩きつけられている。突然バリンと割れて、部屋が浸水するんじゃないかと心配になってくる。


「学校が休みなのは嬉しいが、こう大雨じゃ外へ遊びにもいけないな」


「外に出られないから休校なんだよ」


 暢気な発言にクスッと笑う。遥さんは台風で休校になっても外へ出て楽しむタイプの人なんだろう。


「しゃーない。沙枝と奈菜を呼んで茶でも飲むか」


「いいね。でもその前に遥さんはやることがあるんじゃない?」


「やること? なんかあったっけかな……」


 遥さんが首を捻る。僕は机に移動して、鞄の中から一枚の紙を取り出す。昨日返却された小テストだ。


「おー、100点。さすが楓だな」


 拍手された。遥さんに褒められて嬉しく――って違う。


「遥さん。このテスト、何点だった?」


「ん。60点だけど?」


 あっけらかんと答える。60点……。可もなく不可もなく。一応平均点よりは僅かに上だけど、遥さん的には著しく低い点数だった。


「ねえ、遥さん」


「なんだ?」


「二年生の頃、期末考査の五教科の合計点。何点だった?」


「んー、たしか400から430点だったと思う」


 一教科の点数、80点以上。平均を大きく上回っている。


「もうすぐで期末考査だよね?」


「へぇー。もうそんな時期か」


 なるほど……。これは由々しき事態だ。


「遥さん。三年生になってから、あまり勉強してないよね?」


「そうか? あまり気にしたことないから分からないな」


「し・て・な・い・よ!」


 遥さんの机を指差し、意識して声を張り上げる。珍しく大声を出したことに驚いた遥さんが目を白黒させている。


「遥さんの机の上、本が山積みになってる! 全然勉強してない証拠だよ!」


「あー。たしかに最近、机に座ってなかったなあ」


 まるで他人事のように遥さんが言う。まったくこの人は、なんでこう周りの評価を気にしないのか。他のことはまだいいとしても、学校に通う以上、テストの点数は最も重要な要素のはず。それを蔑ろにするなんて。


 というより、自分が勉強しているかしていないかも自覚がないだなんて、それってつまり、前は自覚なく自然と勉強ができていたということ。じゃあ今はどうして勉強していないんだろう。


 そういえば、遥さんって僕が勉強している間は何をしてたっけ。遥さんはやれぎ出来る人。僕が勉強している間、同じだけ彼女も勉強していれば、僕以上の点数を取れているはずなんだ。


 んー……。僕が勉強していると、遥さんはよくお茶を淹れてくれる。一緒にお菓子も用意して、「気を張らずに、適度に休憩しろよ」と労ってくれる。眠くなってきたら話しかけてくれるし、肩が凝れば揉んで――


 ……あれ。もしかして、僕のせい?


「と、とにかく!」


「何がとにかくなんだ?」


「とにかく! 今日はせっかくの休みなんだし、奈菜さんや沙枝さんと遊ぶ前に、期末考査の勉強をしようよ!」


「うぇー。勉強するのかよ」


 遥さんが嫌そうな顔をする。抗議を無視して、二人のベッドの間にあるテーブルに教科書とノートを運び、広げる。


「勉強なんて夜だけで良いじゃないか」


「問答無用。さあ始めるよ!」


 ベッドに座っていた遥さんを無理矢理テーブルに着かせ、急遽勉強会を始めることにした。


 ◇◆◇◆


 ここまでは作戦通り。もちろんこの勉強会は遥さんの成績を上げるためではあるけれど、今回はそれともう一つ、重要な事案があった。


 それは、遥さんを「遥」と呼び捨てること。


 僕の性格からして、遥さんに「呼び捨てて良いかな?」と許可を得て呼び捨てることはできない。なんで? と聞かれても、出来ないものは出来ないから仕方ない。出来るとしたら、極々自然に、気付いたら呼び捨てていたという状態だ。遥さんと呼び慣れている今、意識せず呼び捨てることは無理、事故を装って意識的に呼び捨てるしかないのだ。ただしみんながいる前では無理。二人だけの状況で、何気なくぽろっと呼び捨てるしかない。


 そんなわけで今回の作戦は、寮部屋で二人だけの状態を作りだし、自然を装って遥さんのことを「遥」と呼び捨てる。そして「ごめん。今呼び捨てにしちゃったね」と、遥さんを呼び捨てにしてしまったことに気付いて貰う。彼女のことだ。間違いなく「いいよいいよ」と言ってくれるはずだ。これで以降は何の気兼ねもなく呼び捨てにできるわけだ。


 回りくどいような気もするけど、僕にはこれが最善の策。あまり懲りすぎたり直接的だと失敗以前に呼び捨てまでに至らない可能性がある。これぐらいがちょうどいい。


 と、いうことで頑張っているんだけど……


「ここがこうなって、そうしたらこれがこっちにくるから……」


 テーブルに並んで座り、すぐ隣にいる遥の腕に自分の肩を当て、ノートを見る。遥さんの字は綺麗だから、自分のノートより見やすい。まとめ方も上手だし。


「なるほど」


「次にこれをここへ……。どう? ここまでは分かった、遥、さん?」


 うぅ。口が勝手に動く。今のところ、遥って呼び捨てにするいいチャンスだったのに。……まあ、さっきからこんな感じで失敗続きだったりするわけだけど。


「最後にこうして……これで合ってるか?」


「ん、ちょっと見せてね」


 腰を上げ、身を乗り出す。とめはねがキチンとできた文字を目で追っていく。


「楓は良い匂いがするよな~」


「ちょっと、くっつかないでよ」


 顔を寄せてくる遥さんを押し返す。汗はかいていないから変な匂いはしないと思うけど、それでもくんくんと鼻を鳴らされるのは、いくら遥さんでもあまり良い気分はしない。というより嗅がないでほしい恥ずかしいから。


「ほーらぐりぐり」


「だからくっつかな――わっ!?」


 突然抱え上げられ、あぐらをかいた遥さんの膝の上に乗せられた。


「ちょっと遥さん」


「勉強だけじゃ疲れるんだよ。こうやって楓成分を補給しながらじゃないと保たないっての」


 遥さんが僕をぎゅーっと抱きしめ、頬をすり寄せ、頭を撫でてくる。背中には彼女の胸の感触。僕より一回りも二回りも大きい遥さんもやっぱり女の子で、その体はとても柔らかい。度々こうして遥さんには抱きつかれることがあるから幾分慣れてはいるけど、まだ恥ずかしくて僅かに頬が上気する。


「楓成分って、僕は遥、さんにとってなんなの」


「空気だな」


 間髪入れずに答えた。それは僕がいないと死ぬってこと? 言い過ぎだ。


「それにほら、ここの方がノートもよく見えるだろ?」


「見えるけど……はあ。もういいや」


 抗議の声を上げても聞く耳持たず。渋々諦めてノートに視線を戻した。


「……うん。合ってる。さすが遥、さんだよ」


 なかなか上手くいかない。クセというか慣れというか、今までそう呼んでいたものをふいに変えるのは、いくら頭の中でシミュレートしていても難しい。


 遥、遥、遥。うん、今度はいけるはず。たぶん、きっと。


「んじゃ次の問題行くか」


「おー。遥、さん、やる気だね」


 不意打ち過ぎてさっそく失敗。


「まあな。やると決めたらグダグダ言わずやる。時間が無駄になるしな」


「うんうん。そういうところ、遥っさんのいいところだと思うよ」


 僕は現在進行形でできてないけどね! もうなんでだよ! どうしても遥さんって言ってしまう。


「どうしたんだ楓。頭なんか抱えて」


「き、気にしないで。ちょっと頭が痛くなっただけだから」


「なんだって! そりゃ大変じゃないか。すぐ横になって――」


「あー気分良くなってきたかも!」


 勢い良く顔を上げ、ぐーっと伸びをする。あ、ちょっとクラッときた。すぐに遥が背中を支えてくれる。


「大丈夫か?」


「うん、平気」


「無理はするなよ。楓は体調を崩すと治りが遅いんだからな」


「分かってるって。遥、さんは心配性だなあ」


 今のは無理。心配そうに僕を見つめる遥さんを前にして、呼び捨てることなんてできなかった。


「……楓?」


 遥さんが怪訝な顔をする。ちょっと目眩がしただけなのにこれだ。心配してくれるのは嬉しいけど、過剰に反応するのもどうかなと思ってしまう。


「楓、もしかして……」


「なにかな。遥、さん」


 睨むような視線が僕に突き刺さる。今日は嫌にしつこい。いつもならこの辺で納得してくれるはずなのに。


 ……それよりも、だ。まったくさっきから遥さんのことを呼び捨てられていない。やっぱり無理なのかな。午後からは奈菜さんと沙枝さんが来るし、そうなるときっと夜までお茶会だ。ご飯とお風呂を挟んでの長いお茶会。このところ沙枝さんと僕と奈菜さんのスケジュールが合わなくて、四人揃って遊ぶことが少なくなっているからなおさらだ。あの奈菜さんでさえ、今日は無礼講だとかなんとか言って、寮則で決められた勉強時間を無視して消灯まで話し込むに違いない。奈菜さんは遥さんと逆で、凄く真面目そうだけど、時によっては羽目を外すからなあ……。そして僕が眠くなったところでお開き。気付けば明日になっていることだろう。


 一週間もあれば遥さんのことを呼び捨てにできると思っていたけど甘かった。よくよく考えれば、僕が呼び捨てにしている人は一人だけ。うん、無理だ。遥さんを呼び捨てるには、もっと長い時間をかけて、長期的に進めていくしかない。


 よし。今回は諦めよう。そしてプランを練り直してまた次回――


「ふぁ~。あー、なんか眠くなってきたな。一眠りするか」


 遥さんが大きな欠伸をしてベッドに転がった。さっきまであんなに集中していたのに眠くなるなんて。しかもまだ午前中。勉強も始めたばかりだ。夜更かししたわけでもないのにどうしたのだろう。


「えっと、もしかして具合悪い?」


「いや別に。ちょーっと眠いような気がするから横になってみるだけだ」


「ちょっとだけ? だったらまだ寝なくても」


「そうなんだよ。まだ寝なくても良いとは思うんだけど、なんとなーく横になりたくなったんだよ」


「なんとなく?」


「そう。なんとなく」


 どういうこと? いまいち意味が分からない。遥さんにしては歯切れの悪すぎる物言いだ。……もしかして、何か別の意味が隠されているとか?


「アタシは楓に背を向けて寝るから、どーしてもアタシを起こして勉強させたいっていうなら、名前を呼んで起こしてくれ」


「……へっ?」


 呆然とする僕を無視して、遥さんが背を向けて動かなくなった。


 酷い説明口調。いつもとは違う遥さんの挙動。そして「名前で起こしてくれ」。蛍光灯の光を浴びる遥さんの左頬が若干朱に染まっている。自分でも下手すぎたと後悔しているのだろうか。


 いつから遥さんは気付いていた? 最初から? それとも途中から? しつこく僕の様子を覗っていた、あの時?


 ためしに遥さんの体を揺すってみる。反応なし。


「遥さん」


 名前を呼んでも反応なし。やっぱりだ。


 遥さんは僕が「遥」と呼び捨てにしようとしていることに気付いた。そして、それをやりやすい状況を作ってくれたんだ。


 うー。どうしよう。ちょうど諦めようとしていたのに、こうまでされちゃ諦めるわけにはいかなくなってしまった。むしろなんとしても言わなくちゃいけない。遥さんのためにも。


「ぐー……。むにゃ……。頑張れ……」


 わざとらしい寝息。頑張れって、それは露骨過ぎだと思う。


 遥さんのベッドの脇に腰掛け、そっと彼女の肩に手を置く。触れていると、勇気を貰えるような気がするから。


 バクバクと強く脈打つ心臓を胸の上から押さえつけ、背中を向ける遥さんを見据えた。




 そうしてようやく、僕が彼女のことを「遥」と呼び、すぐさま起き上がった満面の笑みを浮かべる彼女にきつく抱きしめられたのは、それから1時間後のことだった。

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