外伝6-8 ありがとう(バレンタイン3) ◆
奈菜さんの言っていたことは正しかった。
「依岡様! お願いします!」
「さ、さまっ!?」
それは寮を出てすぐのことだった。どこから湧いて出てきたのか、下級生と思われる女の子が突如として僕の前に現われた。彼女は緊張した様子で頭を下げ、キレイにラッピングされた手のひら大の箱を差し出してきた。いまだ様付けで呼ばれることに抵抗のある僕は一瞬にして頭の中が真っ白に。反射的に手を出し受け取ると、彼女は顔を上げて僕を見、パアッと表情を輝かせた。
「ありがとうございます!」
もう一度深くお辞儀すると踵を返し、一目散に走って行ってしまった。あっと言う間に人の波に消えて見えなくなり、取り残された僕は箱を持ったまま呆然と立ち尽くした。
……え。なに? 今のなに? これはどういうこと?
「さっそく貰ったのね」
聞き慣れた声に、大量の疑問符を頭の中から振り落として振り返る。今朝方ぶりの奈菜さんは、その手にいくつかのラッピングされた箱を持って苦笑を浮かべていた。
「奈菜さん。それ……」
「ええ。あたしも貰っちゃった。去年まではこれほどじゃなかったのだけれどね。生徒会長に選ばれたせいかしら」
奈菜さんが目線まで箱を持ち上げる。ピンクや青の包装紙にくるまれた小さな箱。振るとカタカタと音が鳴った。
「これはたぶんチョコね。こっちのは……飴かしら」
「……チョコ。やっぱりチョコなんだ」
今日はバレンタインデー。奈菜さんが貰ったもの、そして僕が貰ったもの。これらは全て、バレンタインデーの贈り物なんだ。
「ええ。お嬢様学校とは言え、あたし達も普通の女の子。日頃お世話になった人への感謝を、そして敬愛する人へ自分の気持ちを伝えるために、こうして贈り物をするのよ。ただ閉鎖的な学校だから、むしろ世間より力が入っているかもしれないわね」
そう言って奈菜さんが周囲を見回す。全寮制であるためか、多くの生徒が宿舎の玄関前に集まり、何層もの人垣を形成していた。遠くを見やれば、僕達の住む風月館だけでなく、他の三棟にも人だかりは出来ていた。しかし、ここ風月館だけはどこよりもその数が多いように見えた。
まあそれも、後ろを見ればすぐに理由が分かることだったけど。
「みっ、水無瀬様! よろしければわたくしのを受け取って下さいませ!」
「お姉様、ぜひ私のを!」
……あはは。もの凄い人気だ。まるで台風のように、遥さんの周りには人の渦ができていた。
「押さないように。アタシは別に逃げたりしないから、順番によろしく」
台風の眼である彼女は一見すると冷静に対応しているように見えた。しかし時折頬のあたりがヒクヒクと引きつっているのが見えるから、かなり無理をしているんだと思う。
と、突如として黄色い悲鳴が上がる。だいたいの予想をしつつそちらに目を向ければ、案の定困り顔の沙枝さんがそこにいた。桜花のナンバー1とナンバー2。二人が揃ったことで、さらに周りが騒がしくなった。
「さすがね」
「うん」
他人事のように二人を見守る僕と奈菜さん。だけどその間も僕達が手にするチョコの数が増えていく。あの二人ほどではないにしろ、僕達の元へチョコを渡しに来る女の子も少なからずいた。
「奈菜先輩。いつも部活でお世話になってます!」
「あら、ありがとう。別に気を遣わなくても良いのに」
「依岡さん。受け取って下さるかしら?」
「は、はい。あの、ありがとうございます」
なるほど、たしかにこれじゃタイミングが合わせられなくて、チョコを渡せそうにない。奈菜さんの言うとおりにしておいて良かった。
「水無瀬さん」
「水無瀬様」
……でも、なんだろう。遥さんがチョコを受け取るところを見ていると、心がもやもやする。焦ってるのかな。みんなが渡しているのに友達の僕が出遅れて、負けているような気がして。
「我慢よ」
「わ、分かってるよ……」
心を見透かされ、ぶっきらぼうに答える。貰ったチョコを鞄に入れつつ、遥さんを見る。
そう。別に焦る必要はない。僕は遥さんのルームメイト。寮に帰ればいつでも渡せるんだから。無理矢理渡しても、それが他のと混ざって分からなくなったら嫌だもんね。うん、そうだよ。ちゃんと僕のだって分かるように、後で渡そう。
言い聞かせるように反芻して、なんとか自分を納得させた。
◇◆◇◆
そうして長かった一日が終わり、放課後。
運良くお昼休みに廊下ですれ違った沙枝さんへチョコを渡せた僕に未練はなく、チョコを渡そうと集まってきた生徒に立ち往生している遥を置いて、いそいそと寮へ戻った。僕の本番はここからなのだから。
部屋に戻ると、冷蔵庫に貰ったチョコを入れ、代わりに僕のチョコを取り出してベッドの上に置く。折りたたんでいた布団を広げ、そこにチョコを見ないようにして隠す。その傍に腰を下ろした。
これで準備はオーケー。あとは遥さんが帰ってきたら「はい、いつもありがとう」と、隠していたチョコを笑って渡せばいいだけだ。
日中あんなにイライラしていたのに、心のモヤモヤもどこへやら。今は胸がドキドキと煩いほどに脈打っていた。別に緊張する必要はないし、緊張する要素なんてどこにもない。ただいつもの感謝の印として、奈菜さんや沙枝さんと同様にチョコをあげるだけ。チョコをあげて、遥さんが喜んで、僕も作って良かったと喜ぶ。それだけのことだ。
心を落ち着かせるように、頭の中でその光景を思い浮かべる。……うん、何も問題はない。あるとすれば、出来映えが他の子のチョコより良くないこと。初めての手作りだから仕方ないにしても、他の子はきっと高級なデパートのチョコとか、お菓子職人に作って貰ったチョコを遥さんに渡しているはず。それと比べられるのがちょっと恥ずかしいかもしれない。
……。
ふと心配になって、冷蔵庫から一つ、名前も知らない女の子から貰ったチョコを取り出す。リボンを解いて蓋を開けてみる。丸いチョコが一粒一粒区分けされて収まっていた。
……高い。絶対高いチョコだ、これ。たしかトリュフチョコレートっていう名前のチョコだ。高級感が箱からも漂ってきている。
一粒食べてみる。……美味しかった。僕の平凡な生チョコよりもずっと。
ガクリと肩を落とし、チョコの箱を冷蔵庫に戻してベッドへ戻った。
「……喜んでくれるか、自信なくなってきたかも」
「よぉー。楓、ただいま」
「へっ、遥さん!? おお、おかえり」
突然現われた遥さんに心拍数が一気に跳ね上がる。……独り言聞かれてないよね?
「はあ疲れた。楓も今日は大変だったろ」
「う、うん。遥さんほどじゃないけどね」
遥さんが鞄と紙袋3つをベッドに放り投げる。よほど今日は疲れたのだろう。紙袋から溢れた色とりどりの箱に見向きもせず、ベッドに横たわった。人一人悠々手足を伸ばせるベッドが上下に揺れる。
「凄い数だね」
「ん? ああ」
僕の視線の先、チョコの入った紙袋を見て遥さんがため息を漏らす。
「あとで名前をリストアップしないとな」
「ホワイトデーのお返し? ちゃんと返すんだ」
「一応そういう行事だからな。まったく。来月のことを考えると気が重い。なんでホワイトデーなんかあるんだよ。本場じゃそんな風習ないってのに。メーカーの陰謀だ」
「ヨーロッパではバレンタイデーには男女関係なく贈り物をするんだっけ。一日で終わるから良いよね」
「そうそう。ああでも、そうなるとアタシから渡せない子も出てくるのか。次の日渡すって手もあるけど……やっぱりアタシ的にはホワイトデーは必要か?」
真剣に悩む遥さんを見て含み笑いする。なんがかんだで優しい人だ。
「それはそうと、さっきはなんで先に帰ったんだ? いつもなら待ってくれるのに」
責めるような視線に心臓が跳ね上がる。一瞬にして頭の中がこんがらがるも、なんとか言い訳を考えて口を開く。
「えっと、それは……遥さん、忙しそうだったから、邪魔しちゃだめかなと思って」
「邪魔なもんか。でもまあ、気を遣わせて悪かったな」
ぶんぶんと首を振る。遥さんは悪くない。悪いのは隠し事をしている僕なんだから。
これ以上後ろめたい思いをするのは嫌だ。よし、渡そう。今渡そう。今なら「これを渡してびっくりさせようと思ったんだ。ごめんね」と自然に謝ることが出来る。なんかさっきから遥さんがこっちをチラチラ見てくるし、きっと早く帰ったことを気にしているんだ。チョコさえ渡せば「なんだそんなことか」と笑ってくれるはず。渡すなら今しかない。
僕はコッソリと布団の中に隠してあったチョコを手に――
「ん。楓、その大事そうに持ったチョコは……」
み、見つかった? 何故か遥さんの視線がきつくなり、胸がぎゅっと締め付けられる。……い、いいや、このまま渡してしまおう。せっかく頑張って作ったんだ。他の子のより見劣りしても、渡さなかったら作った意味がなくなるんだから。
「楓、それは誰からもら――」
「はい!」
勢い良く遥さんの前にチョコを差し出す。心臓が飛び出そうなほどドキドキしている。こんなに緊張したのは、ダンスの授業で先生から直々に指名され、みんなの前で奈菜さんと踊りを披露した時以来だ。
なんでこんなに緊張しているんだろう。……そういえば、こうして人に贈り物をするのは初めてだった。ましてやそれが一番大切な人に贈り物だなんて、緊張して当たり前じゃないか。
気付いたところでもう遅い、プルプルと震える両手で持ったチョコは遥さんの目の前。今更手を引っ込めるわけにもいかない。
「楓、これは……?」
「ち、チョコ!」
「いや、それは分かるんだけど……もしかして、アタシに?」
目を丸くして自分を指差す遥に、コクコクと頷く。
「あのっ、が、頑張って作ったんだけど、初めてだからちょっと崩れたりしてるかもだけど、いつもお世話になってるから、そ、そのお礼にっ」
「……楓の、手作り?」
「うん!」
あまりにも恥ずかく、僕を凝視する遥に耐えられなくて、ぎゅっと目を瞑る。顔は火が出そうな程に熱くて、今すぐにでもここから走り去りたい衝動に駆られる。でも、どうしてもこれだけは渡したかったので必死に我慢する。
「えっと、えっと、その、いつもありがとう!」
言いたいことはもっといろいろあったのに、それしか言葉は出なかった。
「……アタシこそ、ありがとう」
遥さんの穏やかな声色に、おそるおそる目を開ける。彼女はいつもの優しい笑みを浮かべて、僕のチョコを受け取ってくれた。
「もう諦めかけてたから凄く嬉しい」
遥さんがチョコを高く掲げて、見上げる。
「諦めてた?」
「恥ずかしながら、昨日からずっと楓からチョコが貰えないかと期待して、気が気じゃなかったんだよ。学校じゃ奈菜と沙枝がやけに嬉しそうにしてたし、尋ねてもアイツらはぐらかすし、楓は先に帰るしさ」
遥さんは目をそらし、少しだけ顔を赤くして頬を掻いた。
「だから本当にありがとう。どのチョコよりも一番嬉しい」
「ほんと?」
「ああ」
「良かったぁ……」
ほっと胸を撫で下ろす。遥さんが喜んでくれている。それがとても嬉しかった。
チョコを作って、渡せて良かった。僕は心からそう思った。
「開けていいよな?」
「もう!? 他の子の後でも良いよ?」
「好きな物は一番最初に手を付けるタイプなんだよ。さて、どんないびつなハート形になってるやら。楓は案外不器用だからな~」
「ホントに開けるの!? あと、ハートじゃないよ!」
慌ててチョコを取り上げようと手を伸ばす。けれど遥さんは上手くそれをかわしつつリボンを解いていく。
「じゃあ文字か? LOVEとか」
「そんなんじゃないよ!」
「ははは」
遥さんが声を上げて笑う。次第に僕もどうでもよくなって、じゃれ合いながらつられて笑ってしまう。
ここに転入してきたときは、こんな風にまた笑えるなんて思いもしなかった。これも全て遥さんのおかげだ。
ありがとう、遥さん。そして、これからもよろしくね。