外伝6-3 夏休みの始まり
「やっぱりだ! 楓ちゃんにはぴったり似合うと思っていたんだよ!」
「そ、そうですか」
ストロボの光に照らされながら、曖昧な笑みを浮かべる。視線の先にはカメラを持って機敏な動きを見せるおじさんが、今まで見たことのない表情でシャッターをしきりに押している。その度に眩い光が僕を包み、反射的に目が閉じようとする。なんとか目に力を込めて耐えつつ、笑ってみせるのはなかなかの労力が必要で、雑誌なんかに載っているモデルさんはいつもこれに耐えてるのかと感心した。
夏休み。家に帰って早々おじさんにプレゼントされたのは、レースやフリルがふんだんにあしらわれた、白と黒を基調とする洋服だった。中世のヨーロッパの貴族が着ていたようなその服は、おじさんが知り合いにオーダーメイドしたものであり、曰くゴスロリというファッションだとか。絶対に似合うから着てみてほしいとせがむおじさんに負け、遥さんに買って貰った物以上の女の子らしい服に袖を通したところ、急遽撮影会が始まってしまった。今まで苦労をかけたこともあり、お世話になっている身としては断るわけにもいかず、こうしておじさんの気のすむまで被写体を買って出ていた。
「いやー、かわいいなあ! 本当にかわいい! このままショーケースに飾って四六時中眺めていたいくらいだよ」
しかし、この人は本当にあのおじさんなのだろうか。病院を経営し、自身も医者である理知的なおじさん。人当りが良く親身に的確な診察をしてくれると街でも評判のおじさん。昔、親戚の集まりで顔を合わせたときも優しい笑みで頭を撫でてくれたおじさん。
そんなおじさんの像が今、僕の目の前で崩れ去った。息を荒げ、様々な角度から僕の姿をカメラに収めるおじさん。頬はだらしなく緩み、口は半開き。額には汗をかき、目はギラギラと輝いている。その様子を少し遠くの椅子に座って眺めているおばさんの冷ややかな視線には目もくれず、僕を手放しで褒めちぎり、ストロボを絶え間なく光らせる。そこに僕の知るおじさんの姿はなかった。
「いやいや、さっきのは悪い意味ではないよ? あくまでもたとえ、たとえ話だ。それぐらい今の楓はビスクドールのように愛らしいということだよ」
考え事をして、気が緩んだのだろう。表情から笑みが消えていた。慌ててニッコリと笑うと、おじさんは深く頷いてから年相応ではない動きを再開した。
ビスクドールってなんだろう。おじさんの書斎にあるショーケースに並んでいる人形のことかな。おじさん的にはたぶん褒めてくれているんだろうけど、あの人形、夜見ると怖いんだよね。動き出しそうで。
「いい、いいよ。凄くいい! 」
おじさんのテンションが上がる一方、おばさんの視線は冷たさを増していく。たまに僕と目が合うと「黙らせましょうか?」と声なく聞いてくるけど、僕はそれをやんわりと断る。「ごめんなさいね」と頭を下げ、さらに温度を下げるおばさんの目。雷が落ちるのも時間の問題かなと、内心苦笑した。
◇◆◇◆
桜花は原則的に全寮制だ。何か寮に入れない事情がない限りは全生徒が入寮する。この学校に入学する生徒及びその両親は世間体を酷く気にする者が多く、事実、入寮しないという選択肢を選ぶ生徒は僕の知る限りでは一人もいなかった。姫である遥さんと佐枝さんが寮にいたことも多分に影響していたと思う。
そんなわけで、桜花が長期休暇に入ると生徒は一斉に実家へと帰る。寮が長期休暇に入るためというのもあるけど、早い人は終業式その日のうちに、遅い人でも翌日の夜までには寮を後にする。終業式後一週間は普段通り運営されるにも関わらずだ。ここでもやはり世間体というものが大きく関わっている。実家に帰ろうとしない、またはすぐに迎えに来ない家は家庭に問題があると見なされるからだ。
七月下旬のとある二日間。多額の寄付金によって整備された並木道に高級車がずらりと並ぶ光景は圧巻で、この街の隠れた名物となっているらしい。
「楓と会えなくなるのは寂しいなあ……」
僕を持ち上げて抱きしめ、頬をすり寄せる遥さんが本当に残念そうに呟く。背後には遥さんと僕を迎えに来た車が二台。僕のは有名な国産車(とはいえそれでもグレードの高いもの)だけど、遥さんのはやたら胴体の長い変な形をした外国車だった。ドアの開いた後部座席にはすでに奈菜さんが乗っていて、半眼で僕達を見つめている。ちなみに奈菜さんの家は遥さんの実家の近くにあるらしく、いつもこうして長期休暇の際は一緒に乗せていって貰うらしい。
「公衆の面前で何駄々こねているの。次の人が待ってるんだし、早く乗りなさい」
奈菜さんがシートを叩く。奈菜さんの言うとおり、遥さんの車の後ろには長蛇の列ができていた。しかしドアの前に立つ黒いスーツを着た男の人は何も言わず、遥さんが車に乗り込むのを待つように、ただ僕達の頭上に大きな日傘を差してくれている。実際、遥さんを急かす人なんていない。ふと目が合った次の車の生徒と思われる女の子は、途端に両手を振って頭を下げた。お気になさらず、ということらしい。
「んなこといわれても寂しいもんは寂しいんだよ。なあ、楓もそうだよな?」
「う、うん。でも遊ぶ約束はしてるんだし、一ヶ月ずっと会えなくなるわけじゃないから」
「そうよ。さっきも今週末の予定を組んだばかりじゃない」
「毎日会ってたのが突然週一になるんだぞ? 7分の1ってかなり低くないか!?」
夏休みの間は最低一週間に一回みんなで遊ぶことになっている。ただし用事のある佐枝さんは不参加だ。なんでもお父さんの手伝いだとか。
「そうね。およそ14.3パーセントってところかしら」
「2割切ってるじゃないか!」
遥さんの腕に力が入る。ぎゅっと締め付けられて息が苦しくなる。
「寂しいのはあたしも同じ。でも、あたし達のわがままに楓を巻き込んではだめよ」
「うぐ……」
遥さんがたじろぎ、僕を見る。しばらくそのままジッと見つめてから、やがて両腕を離した。5分振りくらいの地面の感触。アスファルトのそれは夏ということもあり、堅く、暑かった。日傘の下から出た僕に容赦なく日差しが照り付ける。暑くても、体質的に汗はほとんど出ないけど、決して暑くないわけじゃない。体の中に熱が溜まっていくのが分かるくらいに、体温が急激に上がっていく。日差しも肌を焼くように痛い。
「あたしはいい。楓にさしてやってくれ」
「ですが……」
ぷつぷつと汗を吹き出す遥さんの方が僕より暑そうに見える。男の人もそれに気付いており、遥さんの命令に困惑している。
「いいから早くしろ」
「は、はい」
遥さんの態度が一変。きつい口調と表情で指示を出した。すぐさま男の人が僕の頭上に日傘を持ってくる。
「大丈夫か、楓」
「うん。ありがとう」
遥さんは照れくさそうに目をそらし、頭を掻く。
「悪い。楓の体調のことを忘れていた。寂しいが、もうくだくだ言わない。早く車に乗ってくれ」
促されて車に乗り込む。見知った運転手さんに「お久しぶりです」と頭を下げると、運転手さんは目を丸くしてから、嬉しそうに「元気みたいで良かったよ」と微笑んでくれた。
「次の日曜の朝10時に駅前で待ち合わせだからな。忘れるなよ?」
「分かってるって。それじゃ、ばいばい」
「ああ。またな」
短い別れの挨拶を交わして、遥さんも車に乗り込む。先に出発した遥さんと奈菜さんを乗せた車は、後に続く僕と一緒に寮の敷地を抜け、並木道に出たところで別れた。
◇◆◇◆
そうして帰ってきたのが2時間前。杖無しで歩けるようになった僕の姿を見て、涙ぐみながら出迎えてくれたおじさんとおばさんにリビングでお茶を飲みながら学校での話をしたのが1時間前。話を聞いて何故かテンションの上がったおじさんからプレゼントを貰い、開けてみると高価な洋服が入っていて、それを着て記念撮影をしようと始まった一人撮影会が終わったのがついさっき。ようやく解放されて自室に戻った頃にはヘトヘトになっていた。
「疲れただろうから、晩ご飯まで寝ていなさい」と、床に正座させられてシュンと縮こまってしまったおじさんを横目におばさんは言った。せっかく帰ってきたのだから、今までの分も含めて恩返しをしたかったのだけど、歩けるようになったとはいえ、まだまだ僕に人並みの体力はなく、晩ご飯の用意を手伝うだけの余力は残されていなかった。申し訳なく思いつつも甘えさせて貰った。
部屋は綺麗に掃除されていた。僕がいない間もおばさんが掃除してくれていたのだろう。後でお礼を言わないと。ベッドに倒れ込み、溜まった疲れを吐き出す。頬の筋肉がピクピクと引き攣りを起こしていたので、手のひらで円を描くようにマッサージする。引き攣りはしばらくして止まった。
仰向けになって天井を見上げる。僅か4ヶ月前まで2年もの間、毎日ベッドの上から見つめ続けた薄水色の天井。一日の大半をここで過ごした僕にとって見慣れたはずのものなのに、違和感を覚えるのは何故だろう。
「あ、猫がいる」
規則的な壁紙の模様の中に猫を見つける。デフォルメされたかわいらしい猫。そこまで大きくなく、一通り見回した限りではこの一匹だけしかいないようだけど、規則性の中に突如現われる猫はとても目立っていて、一見しただけでも大抵の人は見つけるんじゃないだろうかというほどの存在感を出していた。
「あの子は知ってたのかな。知ってたなら教えてくれれば良かったのに」
聞こえるはずのない問いかけに、彼女からの返事はやはりなく、僕の声だけが部屋に響き耳に届く。きっと聞こえていたら「こういうのは自分で見つけるのが楽しんだよ」と言って笑うに違いない。僕にはできない、自然な笑顔で。
……。
シンと静かな部屋。壁を隔てた向こう側から聞こえるおばさんの怒った声とおじさんの言い訳がましい弱々しい声。おじさんの「つい出来心で!」なんていう可笑しな叫びにクスリと笑ってしまう。
それでもふいに寂しいと思ってしまったのは、隣に遥さんがいないせいだろうか。四六時中一緒だったから、こうして長い時間離ればなれになるのは、五月にちゃんと友達になってから初めてのこと。賑やかなことに慣れてしまって、昔みたいに一人でいることができなくなってしまったんだ。
……ううん。違う。あの頃も本当は寂しかった。だって蓮君が遊びに来るのをいつも内心心待ちにしていたのだから。久しぶりに彼に会いたい気もするけど、さっきおじさんが蓮君はここから少し離れたところへ先月末に引っ越したと言っていた。前みたいに気軽にここへは来られない距離だとか。まあ、そのうち親戚の集まりがあるだろうから、それまでの楽しみということにしよう。できれば、その時には僕も普通に歩けるようになっていたらと思う。
と、ポケットの中の携帯が震える。誰だろうと考え、すぐに心当たりが浮かぶ。彼女のことだ。きっとすぐに電話してくると思っていた。
少しだけドキドキしながら、焦る気持ちを抑えてポケットから携帯を取りだした。