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私(ぼく)が君にできること  作者: 本知そら
第二部二章 それは昔の話
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第76話 その手は優しくて

「ごきげんよう」


 帰り道。幾人もの名も知らぬ学友に挨拶される。廊下ですれ違ったことのあるような人から、顔さえも見たことのないまったくの赤の他人まで。疑わずとも水無瀬さんの影響だ。学校、寮問わず、呆れるほどに四六時中僕に付きまとうから、僕の知らないところで僕の名と顔が知れ渡っている。まったく知らない人から知っているように挨拶されるのは、正直気持ちのいいものじゃない。とくに今のような気持ちがささくれ立っているときだとなおさらだ。嫌悪感さえしてくる。彼女達に返事をすることなく、少し前の石畳を睨み付けて寮へと急いだ。


 自室に戻ると鞄と杖を床に放り投げてベッドに倒れ込んだ。スプリングが僕の体を押し返し、一度だけ小さく宙に浮いた。ふかふかな布団に顔が埋まり、息苦しさから体を返し、仰向けになる。


 胸が大きく上下し、荒い息が耳についた。額には汗が滲んでいる。目の奧でチカチカと白い星が瞬き、視界を埋めていく。汗、拭かないと。そう思ったが、疲労で体が動かない。ここへ来てからあまり眠れていないせいで、元からない体力がさらに低下していた。無理して速く歩こうとするからだ。おかげで頭痛も酷くなってきた。


「薬、まだあったかな」


 学校に通うにあたり、薬は多めに貰っている。まだ開けていない分はクローゼットの右隅の箱に保管し、1週間分だけを引き出しに入れてある。「出来る限り薬は飲まないように」と釘を刺されたからだ。それでも頭痛だけは我慢できなくて、他の薬より早いペースで鎮痛剤が減っていく。あまり飲み過ぎるとおじさんが心配してしまうから、飲みたくはないんだけど、水無瀬さんに苦しそうにしている姿を見られたくなくて、どうしても手が伸びてしまう。


「――っ」


 脳を針で突き刺すような鋭い痛みが走る。思わず手を持っていってしまうが、そうしたところで痛みが和らぐことはない。不定期に襲う痛みに体を強張らせて、ただ耐えるのみだ。


 時間は何時だろう。水無瀬さんはまだ手伝いをしているだろうからすぐ帰ってくることはないと思うけど、彼女が帰ってくるまでに頭痛が引かないようなら飲んでおかないといけない。ああでも、目覚ましは頭の上。今は体を起こすのも億劫だ。


 痛みが引くのことを願いつつ、ぼんやりと天井を見つめる。シミ一つない綺麗な白。寮部屋もドアの外の廊下も食堂も玄関も、建物全体がまるで新築のような輝きを保っているのだから珍しくはないのだが、おじさんの家に住んでいたときの自室の天井は僅かに汚れていたので、ここが自分の部屋だと思えず、気分が落ち着かない。そういえば、おじさんの家に厄介になった当初も落ち着かなくて、眠れない日が続いたっけ。肉体的にも精神的にもかなりきてたせいでぼんやりとしか覚えていないけど、椿と別れたショックから毎日のように泣いて喚いて、そして……やめよう、あの頃のことは思い出したくない。


 小さく頭を振って体を横にし、ドアに背を向ける。はあ、と一つ大きく息を吐いて、目を閉じた。眠れはしないだろうが、少しでも疲れが取れたら良いな。そう願って、意識を手放すよう努力した。


 ◇◆◇◆


 足元さえ見えない暗闇に支配された空間に、僕は立っていた。ここはどこだろう。そう思う前に、自分が杖を持たず、二本の足だけで立っていることに驚いた。慌てて視線を下げるが、漆黒の闇はたかだか百センチ先さえ見通すことができず、捉えることができたのは腰より上の上半身くらいのものだった。


 何気なく両手を胸の辺りまで持ち上げて、再び驚愕する。そこにあったのは健康的な肌の色をした、懐かしい形の手のひらだった。まさかと視線を動かせば、最近先端が布地に擦れると痛みを伴うようになってきた胸は平らで、見えない下半身にも違和感を覚えた。


 それは失われたはずの僕の体だった。事故で治療不可能にまでボロボロになり、焼却処分されたはずの、『四条楓』の体だった。


 どうして? と動揺する。その時、突然僕の正面がライトで照らされる。誰もいないと思っていた空間。そこに現われたのは、両の瞳から大粒の涙をポロポロと零す小さな女の子と、その女の子に背を向けて俯く、車椅子の女の子だった。


 二人が誰なのか、頭で理解する前に、僕は顔を背け目を閉じ、耳を強く押さえた。僕の頭が、記憶が、二人は○○と○○であると伝える。そんなこと知っている。だから目と耳を閉じたんだ。


 もちろん理解したのは僕自身だ。しかし、思い出したくない記憶を掘り起こしてしまったことに苛立ちを覚え、自分で自分を怒鳴りつけたくなった。


『やだ! お兄ちゃん行っちゃやだ!』


 耳を封じても、雑音のまったくないこの暗闇では、女の子の声はよく聞こえた。僕の心を抉る声。早く終わって欲しい。心からそう願う。でもそれは壊れたテレビのように繰り返し僕の耳まで届き、終わらない。数分とも永遠とも思える時が過ぎ、ついにはそっと目を開いた。


 女の子は頬を涙で濡らしながら両目を手で覆い、震えた声を上げる。対して車椅子の女の子は微動だにせず、俯いたまま、膝に手を置き、唇を噛むこともなく、涙を流すこともなく、聞いているのかそれすらも分からないくらいに、そこにいるだけだった。


『お兄ちゃん! おにぃちゃぁん!』


 車椅子の女の子が車輪に手をかけた。少しずつ離れていく背中に、女の子があらん限りの声で叫んだ。それでもやはり、車椅子の女の子の手が止まることはなく、振り返ることもない。俯いたまま、まっすぐに進んでいく。


『お兄、ちゃん……うわぁぁぁぁぁんっ!』


 言葉を成さなくなった女の子の泣き声が心臓をぎゅっと締め付ける。息苦しくて、これ以上見ていられなくて、その場に蹲って目を瞑り、前以上にきつく耳を押さえた。バクバクと心臓が痛いほどに鼓動し、ガチガチと歯が鳴り、背中を嫌な汗が流れる。頭も割れるように痛い。激痛が何度も僕を襲う。掌にぬるりとしたものを感じて、頭の血管が破裂して血が溢れたかのような錯覚に陥る。


 気を失いそうになりながらもなんとか耐え凌ぎ、立ち上がった頃には再び僕の周りは漆黒の闇に包まれていた。クラリとする頭を支え、ほっと息を吐く。安堵は眠気を伴い、瞼を重くする。それに抗う術はなく、僕はゆっくりと意識をまどろませた。


 それは2年と半年前のこと。泣き叫ぶ女の子は僕の妹の椿。そして冷酷なほどに彼女を無視し続けた車椅子の女の子は僕。退院して、親戚に引き取られるときの僕と椿だ。


 ◇◆◇◆


「お、目を覚ましたか。気分はどうだ?」


 朧気な視界に人の顔が映る。親しげな声に、知人の中の誰かと判断してフワフワとした頭で思案する。


「椿?」


 苦笑して首を横に振られた。違うらしい。徐々に鮮明になる頭と視界で、それが水無瀬さんで、ここが寮の自室だと気付くまでにはしばらくかかった。どうやら僕は眠っていたようだ。いつの間にか水無瀬さんがいるのがなによりの証拠だ。断片的に残った記憶の残骸が夢の産物だったことに、心底胸を撫で下ろした。


 何時だろう。頭上にある目覚ましを見ようと体を起こしたときだった。めまいを起こして再び枕に頭を預けると同時にパサリと額から濡れたタオルが滑り落ちた。


 まさかと視線を水無瀬さんに向ける。ばつが悪そうに目を逸らした彼女はベッドに腰を下ろし、学習机から引っ張ってきたであろう椅子に水を湛えたボールを置き、自分の手元に寄せていた。誰が見てもそれは看病をしているようにしか見えなかった。


「帰ってきたらさ。楓さんがベッドの上でうなされてたんだ。苦しそうなおま……楓さんを放っておけなくて、介抱させてもらった」


 勝手なことをして、僕に怒られると思ったのだろう。いいことをしたはずなのに、言い訳がましく言う。日頃からの僕の冷たい対応のせいだ。素直に悪いと思う。……あれ、なんかやけに今は素直だ。きっと水無瀬さんが悪夢から助けてくれたからだろう。あの夢から抜け出せたのは、このタオルのひんやりとした心地よさと、彼女の優しさのおかげだから。


「ありがとう」


 短くお礼を言っただけなのに、水無瀬さんは目を丸くした。タオルを絞ったまま、まじまじと僕を凝視する。そういえばお礼を言ったのもこれが初めてだったかもしれない。少し前のまでの僕がどれだけ冷たい人間だったか、今更になって気付く。


 ハッと気付いた水無瀬さんが絞ったタオルを綺麗に折りたたみ、額に乗せる。疲労からか、体温が上がっているようだ。冷たくて気持ちいい。ゆっくりと離れようとする水無瀬さんの手がふいに恋しくなって、逃がすまいと手を伸ばし捕まえた。そのまま顔の横に導く。


「か、楓さん?」


 困惑を滲ませる声。緊張しているのが見て取れる。だけど離すつもりはなかった。僕を助けてくれたこの手に、もっと触れていたかった。


『楓さんは一人で抱え込みすぎなんだよ。人はそんなに強くない。ましてや楓さんは人一倍弱いのに』


 彼女の言う通りだ。人は弱い。僕は人一倍弱い。それなのに弱い自分を見ていられなくて、目を背け、抱え込み、強がってみせる。強がって見せたところで、所詮中身はこれだ。周りに当たり散らして、一体何がしたいのか。ただ周りを不快にさせてるだけじゃないか。


 おじさんの家にいた頃、僕は寂しかった。いつ蓮君が遊びに来てくれるだろうと、その時間を心待ちにしていた。桜花には友達と言える人は水無瀬さんに高峰さん、そして浅野さんしかいない。僕は寂しがり屋だ。もし寂しがり屋な僕が彼女達に見放されていたらどうなっていただろう。考えたくはなかった。彼女達のおかげで今も僕はこうしてここにいる。ここにいられるのだ。


 だから僕は言う。いつもより素直になっている今に。今のうちだけに言える言葉を。精一杯の気持ちを込めて。こんな僕にずっと話しかけてくれたことへの感謝を。そしてこれからもよろしくという思いを乗せて。


「ありがとう。僕と友達になってくれて」


 その日。僕は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。

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