第74話 距離の違い
どこかのリビングの一室。見覚えのあるようなないような、不思議と心が落ち着く場所。
「……」
しかし今の僕は気分が悪かった。いや、悪いというよりかは、複雑な気分、という方が近いのかもしれない。
「そんなに怒らないでよー」
「……別に怒ってないよ」
僕にそっくりな少女が困ったような顔をして小さく笑う。実際僕は怒っていない。ただ呆れていた。
「だって仕方ないでしょ? まさかあれで水無瀬さんにばれるとは思わなかったんだもん」
彼女の言うことはもっともだ。彼女の存在に気付いたのは今までで蓮君ただ一人。この二年とちょっとの間、蓮君以外に気付いた人は今まで誰もいなかった。その蓮君でさえ、彼女をひと目見ただけでは分からなかったのに、水無瀬さんは本当に、たったひと目、たった一言で彼女のことを見抜いてしまった。彼女の僕のマネは完璧だった。だから水無瀬さんに彼女のことがばれたのは仕方ないと思う。
でも、僕が気にしているのはそこじゃなかった。
「ばれたことはいいんだよ。問題なのはそのあと、なんで高峰さんまで呼んで、僕達のことを話しちゃったんだよ」
そう。彼女は水無瀬さんに正体がばれた後、まだ知られていなかった高峰さんにまで僕達のことを話してしまったのだ。
僕達は二人で一人だと言うこと。大抵は僕が外に出るけど、たまに彼女が表に顔を出すこと。そして彼女は表に出たとき、彼女は自分の存在が知られないように僕のマネをしていること。彼女のことを知っているのは親戚の子ただ一人だと言うこと。
「どうせばれちゃったんだし、だったらこちらから話して、口封じしたほうがいいでしょ?」
「そうだけど……」
「そんなに心配しなくても、あの二人なら大丈夫だよ」
たった一度会っただけなのに、彼女の水無瀬さんと高峰さんへの信頼は厚いようだ。
僕のことをいつも気遣ってくれる高峰さん。多少……いや、かなり強引だけど、僕と友達のように親しく接してくる水無瀬さん。たしかに二人はいい人だ、いい人だと思う、思いたい。でも僕には、彼女のように二人を信じ切ることはできなかった。そもそもどうしてそこまで信用できるのかが分からなかった。
ただ、水無瀬さんも高峰さんも、普通なら疑ってかかるような僕達の話を真剣に聞いてくれた。二人は彼女の言葉全てを信じ、誰にも言わないこと、僕達に最大限の協力をしてくれることを誓ってくれた。信用できずとも、二人ならきっと守ってくれるだろうと、僕は心のどこかで思った。それは信じるというよりも、願望に近いのかもしれない。
そうあってほしいと願うくせに、信じない。我ながら捻くれていると思う。
「水無瀬さんと高峰さんはいい人だよ。あの人達なら、きっといい友達になってくれる」
「……うん。そうだといいね」
微笑む彼女を見て、僕は薄ら笑いを浮かべた。
◇◆◇◆
桜花の生徒は大なり小なりお嬢様だ。そこに通っている僕ももちろんそれに当てはまる。亡くなった両親は普通のサラリーマンだったけれど、僕を引き取ったおじさんはこの街で評判の良い有名な大病院を経営している。養子であれなんであれ、そのおじさんの子供となった僕は、世間一般的には充分お嬢様なのだろう。
そんな桜花でもお嬢様の中のお嬢様、慣例では姫と呼ばれる、両親が凄まじい財力を持ったお嬢様が二人いる。一人が、全ての分野に手を出し、全て成功させた水無瀬グループを統べる父を持つ、ルームメイトの水無瀬遥さん。そしてもう一人が、
「ん、わたしの顔になんかついてる?」
「……何もついてないよ」
「そっか。それなら良かった」
今僕の目の前で朝から豚カツ定食を食べている、浅野沙枝さんだ。
「あなた……朝からよく食べるわね」
「さっきまで朝練してたからお腹が減っててな」
減っていようが減っていまいが、朝からそんな重い物を食べられることが僕としては驚きだ。見ているだけで吐きそうになる。
頭痛を伴いながら起きた日曜の朝。休みの日はいつも以上に起きるのが遅い水無瀬さんをそのままに食堂へ向かうと、入口のところでばったりと高峰さんに出会ってしまった。水無瀬さんとはまた違う強引さで席を一緒することになったのだけど、その隣には見知らぬ女の子がいた。
「2年3組の浅野沙枝や。よろしくな」
笑いながら浅野さんは言った。僕も自己紹介しようとしたところ、「遥から話は聞いている」と言われてしまった。何を話しているんだろう。
「彼女はあたしと遥の共通の友達なの」
「初等部から同じなんよ。まっ、わたしは部活やら習い事やら両親の手伝いでそんなに二人ほど遊んでないけどな」
「小さい頃はあなたの暇を見つけて連れ出すことがあたしと遥の遊びだったわね」
聞くところによると、浅野さんの両親も浅野建設という大手ゼネコンと、電子機器メーカーの社長をしているらしく、水無瀬さんに次ぐお嬢様の中のお嬢様なのだそうだ。しかし彼女の第一印象はお嬢様とはほど遠い、『方言のきつい子』だった。いわく、小さい頃に両親といろいろなところへ飛び回ったせいでこんな喋り方になったのだという。
「まあ、主に関西弁が強いんやけどな。他にもいろいろ混ざってるから似非関西弁ってところやな」
「直そうと思わなかったの?」
「うん。わたしのこれは両親といろんな場所を回った思い出やからな。誇りはしても恥じたりはしない」
「……そっか」
両親との思い出……。つまり彼女にとって方言は大切な贈り物なんだろう。僕には彼女のように明確な両親からの贈り物はなかった。今の体じゃ剣道はできないし、両親以上に妹に懐かれた『僕』ももういない。あの頃から何もかもが変わってしまった。
……羨ましい。強い口調で「誇り」だと言い切った彼女がとても羨ましい。
「そうや。依岡さんのご両親は何をしてる人?」
「……さあ、何をしてるんだろうね」
生きていた頃は普通の会社員だった。でも二人とも2年前に亡くなってしまった。だから今頃は天国で別の何かをしてるんだと思う。……そうだといいな。少しだけ上を見上げて、ここからじゃ見えない空に想いを馳せる。
「……ごめん、依岡さん。初対面なのに図々しいこと聞いて」
突然浅野さんが頭を下げた。途端に周りがざわざわと騒がしくなる。姫と称される彼女が頭を下げたのだ。その反応は納得できる。でも向けられた視線の内の半分がこっちを向いているのはどうしてだろう。そしてそれ以前に、どうして浅野さんが僕に頭を下げたのか。
「依岡さん。これ、使って」
高峰さんが差し出したのは白いハンカチ。訳が分からず僕は首を傾げる。
「あなた、泣いてるわよ」
僕の頬を高峰さんが優しく拭う。慌てて目尻に触れた。高峰さんの言うように、僕は泣いていた。
……なんで?
羞恥心よりも疑問が僕の頭を占めた。悲しくはなかったと言えば嘘になるけど、泣くほどに心が震えたわけじゃない。自分のことなのに、なぜ泣いているのかさっぱり分からなかった。
「あ、あの浅野さん。これは別に――」
「よおー、楓さん、おはよう。朝ご飯いくなら遠慮せずアタシをたたき起こして誘ってくれても良かっ……」
背後から水無瀬さんの声。反射的に振り返り目を合わせた瞬間、水無瀬さんが驚愕に目を見開き、すぐに浅野さんへと目を向けた。
「み、水無瀬さ――」
「沙枝! お前か!」
水無瀬さんの怒声に僕の声が掻き消される。ガタンッと大きな音を立てて、浅野さんの椅子が倒れた。目をつり上げ歯を食いしばる水無瀬さんが、沙枝さんの襟首を掴み、捻り上げていた。
食堂に悲鳴がこだまする。お嬢様学校の朝の寮内でのこの騒ぎ。しかもそれが有名な二人なのだからなおさらだ。
「遥!」
「奈菜は黙ってろ!」
水無瀬さんがもの凄い剣幕で怒鳴る。高峰さんが息を飲んだ。
「沙枝、お前自分がやったこと、分かってるよな?」
浅野さんが頷き、水無瀬さんの表情が一層に険しくなる。
「じゃあ、仕方ないよな」
水無瀬さんが右腕を引いた。二人を止めないと。浅野さんは何も悪くないし、水無瀬さんが怒る必要は何もない。訳も解らず泣いてしまった僕がいけないんだ。
水無瀬さんを止めるため、僕は慌てて立ち上がった。立ち上がろうとした。
「――っ!」
これがお昼頃ならまだ良かったのかもしれない。朝起きたばかり、体は本調子じゃなかった。足に力が入らず、椅子から崩れ落ちるようにして床に倒れてしまった。
「楓さん!」
すぐに水無瀬さんが駆け寄ってくる。差し伸べられた手を、彼女が浅野さんの元へ戻らないように両手で握りしめた。足が痛い。たぶん倒れたときに捻ったんだと思う。ぐっと痛みを堪えて水無瀬さんを見据える。
「浅野さんは悪くない。今のは僕が勝手に泣いたんだよ」
「な、何言ってんだ? 泣いたんなら勝手だろうがなんだろうがアイツが何かしたんだろ? アイツが悪いじゃないか!」
「そうやで依岡さん。今のは無神経なわたしが悪かった。遥に殴られても仕方ないことをしたんや」
「分かってるなら――!」
「水無瀬さん!」
食堂に僕の声が響き渡る。精一杯の大声。こんなに叫んだのは何年ぶりだろう。水無瀬さん、そして高峰さんが目を丸くしていた。こほっと咳き込む。喉が痛い。視界がちょっと滲んだので、袖で目尻を拭う。
「今浅野さんに怪我をさせたら、僕は水無瀬さんとは一生友達にならない」
立ち上がりかけたままの水無瀬さんの手を、ぎゅっと掴んで僕は言った。振り解かないでほしい。そう願いながら。
「……分かった」
水無瀬さんの体から力が抜ける。ほっと胸を撫で下ろす。
「楓さん、離してくれ。もう沙枝を殴るつもりはないよ。これで殴ったら、アタシが悪者になるからな」
「え? ……あ」
慌てて手を離す。水無瀬さんは困ったように小さく笑い、僕の手を引いて立ち上がった。僕が椅子に座り直すまで支えてくれて、その後隣に座った。水無瀬さんの正面には浅野さんがいた。
「……謝らないぞ」
「うん。それでええ」
笑って浅野さんが返事した。睨んだままだった水無瀬さんも、大きくため息をついて苦笑した。
「まったく。沙枝はほんとアタシとの運がないな」
「沙枝と遥の相性が悪い、じゃなくて?」
「悪くはないだろ、なあ沙枝」
「んー、まあ、そうやな」
「なんだよその曖昧な言い方は」
僕は呆気にとられた。水無瀬さんと浅野さんと高峰さんがさっきまでのことがなかったかのように談笑を始めたからだ。緊迫した空気が一気に四散し、日常が戻ってきた。
「にしても、遥があんなに怒るなんて久しぶりやないか? さすがのわたしもちょっとびっくりしたで」
「そうか? あー……そうかもな」
水無瀬さんが視線を巡らしながら答える。
「でも、よく我慢できたな。昔の遥なら間違いなく手が出てただろうに」
「それは依岡さんのおかげよ。ねえ、遥?」
「うっさい」
怒気のない声。ふと僕と目が合った水無瀬さんは、何故か顔を赤くしてあさっての方向を向いてしまった。