第73話 大丈夫
「楓さん。次の理科は実習室だって。早く行こうぜ」
「楓さん。トイレの場所分かるか? 連れてってやるよ」
「楓さん。食堂行こうぜ。最近のおすすめはビーフシチューで、これが結構旨いんだよ」
「楓さん。部活は何に入るつもりなんだ?」
「楓さん。放課後はどうする? 良かったら購買部に行って足りてない物でも買いに行かないか?」
◇◆◇◆
「お疲れのようね」
「本当にね……」
朝の食堂。寝ている水無瀬さんを起こさず、誰に言うことなく食堂に来たのに、今日もまた、高峰さんと出会ってしまった。彼女といるのは水無瀬さんと比べると全然楽だけど、朝のこの時間くらいは一人でいたかった。
桜花に来て早一週間。いまだ話ができるのは高峰さんと水無瀬さんの二人だけど、それでもおじさんの家にいた頃よりは充実した毎日を送っていた。まあ、水無瀬さんがあまりにも僕に構い過ぎるので、他に知人を必要としないというのもあった。
「水無瀬さんは自分勝手すぎる」
「ふふ。まったくよね」
「笑い事じゃない」
「でも、そんな彼女と友達になろうとしてくれているのよね?」
「……どうだろう。あの時はそう思った。でも気の迷いだったのかもしれない」
蓮君と同じように友達になれたらいいなと思った。でも彼女と蓮君では違いすぎた。僕には無理だ。最近よく思う。
「あらあら。せっかく始めたのだから、もう少し頑張ってみたらどう?」
「分かってる」
すぐに投げだす臆病者だと思われたくない。約束は守る。もう絶対約束は破らない。僕はそう心に決めたのだから。
「それにしても、変われば変わるものね。朝から晩まで楓さん楓さん。あんな遥、初めて見たわ」
「初めて?」
スプーンを置いて、高峰さんを見る。彼女はいつもの微笑みを浮かべている。
「ええ。ああ見えて、一年の頃は荒れていたから。それに、あなたも気付いているでしょ?」
僕はそれに答えず、無言で雑炊を口に運ぶ。水無瀬さんは友達が多い。それは間違いない。休み時間になれば彼女の周りには人が集まるのだから。彼女も話に加わり、楽しそうに笑う。しかし、あまり親しくないクラスメイトの前や、廊下ですれ違う他学年他学級の生徒とすれ違うと一変する。彼女とすれ違う人は誰もが挨拶する。その多くが、彼女のことを先輩後輩関係なく「水無瀬様」と呼ぶ。彼女の家柄なんて知らないし、知りたいとも思わないけど、おそらくは、ここ桜花でもそれなりの位置にいるのだろう。
そんな彼女達を、水無瀬さんは無視していた。目を合わせようとせず、まるでそこに人がいないかのように振る舞う。理由は知らない。知ろうとも思わない。ただ、そんな彼女が少しかわいそうに見えた。
「この学校の多くの生徒が、彼女ではなく、彼女の家柄を見て、お近づきになろうとしている。そんな子と仲良くなろうだなんて思える? 無理よ。だからどうしても身構えてしまう。この子も自分を見てくれてはいないんじゃないかって」
「……その話が僕とどう繋がるの?」
「あなたと遥は出会ってすぐに喧嘩したでしょ? 最初は遥も部屋を変えるって怒っていたけど、冷静になってからは、久しぶりにアタシを見てくれる人が出来たって喜んでいたわ」
それは僕が彼女の家柄を知らなかったからだ。今も聞いていないから知らないけど、そんなに凄いところだと知っていれば、僕だって当たり障りのない対応をしていただろう。それを続けられていたかどうかは別として。
「それで僕に四六時中話しかけるようになったってこと?」
「ツンツンしてかわいいって」
「どこが……」
こんな人当り最悪な僕のどこがいいのだろう。しかも元は男だったっていうのに……。ああそうだ。いざとなればそれを言えばいいんだ。いくら彼女でも、僕を遠ざけるに違いない。
半分ほど食べた雑炊を持って立ち上がる。
「まだ残っているわよ?」
「これでも食べた方なんだよ」
高峰さんが目を丸くする。変なことは言われたくない。彼女が何か言う前に、僕はその場を去った。
◇◆◇◆
「楓さん。体育の更衣室のロッカーは場所が決まっているんだ。楓さんの場所はここ。あたしは向こうで位置が遠いけど、何か困ったことがあったら呼んでくれ」
「き、着替えくらい自分でできるっ。こんなところまで僕に構うな」
「うん? 何をそんなに恥ずかしがってるんだ?」
「べ、別に恥ずかしがってない!」
「顔真っ赤だぞ? あーそうか。裸を見られたくないのか。それでアタシより早く起きて着替えてるわけか」
「違う! 朝早いのは食堂が混むからだ!」
「じゃあなんで今はそんなに部屋の隅っこにいるんだ?」
「こ、これは……みんなの裸を見ないようにするためで……」
「ん? 聞こえない」
「~~~っ。うるさい!」
◇◆◇◆
「鬱陶しい……」
どこかのリビングの一室。見覚えのあるようなないような、不思議と心が落ち着く場所。
「ほんと。清々しいくらいに鬱陶しいね」
僕の隣りに座る、僕とそっくりな女の子がくすくすと笑う。それは僕には出来ない自然な笑顔。
「それで私と『会話』しにきたの?」
「うん。だって水無瀬さんや高峰さんといると疲れるんだ。こっちはそっとしておいてほしいのに、水無瀬さんはずけずけと入り込んでくるし、高峰さんは気を遣っているように見えて、僕の退路を塞いで話しかけてくる」
「あはは。どっちも蓮とは大違いだね」
足をブラブラとさせて、彼女が楽しそうに笑う。それだけで心が安らいだ気がするのだから、ここへきて良かったと思える。あとで酷い頭痛に苛まれることが分かっていても。
「蓮君なら機嫌が悪いときはそっとしておいてくれたんだ。ただ横にいてくれるだけとか」
「おかげで仲良くなるのに時間かかったけどね」
「うっ……」
蓮君と僕がまともに話すようになったのは、おじさんの家に引き取られてから二年後。夏祭りに行った後くらいからだ。対して彼女が蓮君と仲良くなったのは一ヶ月ちょっと。この差はあまりに大きいと思う。
「あれはあれで良かったと思うけど、みんなが二年も待ってくれるとは限らないよ? 中学だってあと二年しかないんだし」
「そ、そうだけど……」
「楓だって、なんだかんだで水無瀬さんや高峰さんと一緒にいて、ほっとしてるでしょ?」
「……」
彼女の前では嘘をつけない。僕は小さく頷いた。鬱陶しい、何処かに行ってほしい、一人にしてほしい。それはたしかに本心だ。けれど、同時に傍にいてほしいとも思う。我が儘で矛盾している。でも、本当の気持ちだ。
「一人は寂しいもんね」
目の前が霞みがかる。ぐっと我慢して、目をゴシゴシと擦る。
「心の中でくらい、泣いてもいいんだよ?」
「泣かない」
「強情だなあ」
彼女は苦笑して、僕の頭を撫でる。それだけでまた涙が溢れそうになったけど、なんとか耐えてみせる。
「明日は学校休みなんだよね?」
「うん」
「じゃあ楓は休んでて。代わりに私が外に出るから」
「うん。……ありがとう」
「私以外にも、そうやって素直になれたらいいのにね」
きっと無理だよ。そう言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。
◇◆◇◆
目が覚める。見慣れない天井、見慣れないベッド、見慣れない部屋。腕を持ち上げて、手を閉じて、開く。うん、動く。ちゃんと『私』が動かしている。目覚まし時計を見て、それから隣のベッドで眠るルームメイトを見る。
なるほど。この人が水無瀬さんか。こうして実際に見るのは初めてだから、ちょっと緊張する。
松葉杖を取って洗面所へ。身支度を整え、制服に着替える。外出するなら私服で出歩いてもいいらしいけど、そうでなければ基本休みの間でも、自室から出るときは制服が好ましいとシラバスには書いていた。ただ、高峰さんによると、結構私服姿で寮内をうろうろする人もいるのだとか。どうせ制服を着るつもりだったから、どっちでもいいけど。
椅子に座り、化粧道具を広げる。楓ほど上手じゃないけど、私もそれなりに隈を消すことができる。若干悪戦苦闘したけど、なんとかそれっぽくなった。
自分の出来映えに満足していると、背後でゴソゴソと動く音が聞こえた。振り返れば、いつもより早い時間なのに、水無瀬さんがベッドから体を起こしていた。
「ふぁ……ねむ」
欠伸をして、頭をガシガシと掻く。ちょっと男らしい仕草。見た目は長身でスラッとしたモデル体型なので、黙っていればカッコイイのに、いろいろとだいなしだ。
「ん、楓、おはよう。休みなのに早いな」
水無瀬さんがいつものように挨拶する。私からすると初めての挨拶。初めての接触。怪しまれないように、『楓』を意識して返事する。
「……おはよう」
眉間に皺を寄せ、目をそらす。楓がよくする挨拶だ。これで怪しまれることは――
「誰だ? 楓さんじゃないよな?」
「え……?」
たった一言。しかも今まで蓮君以外には誰にもばれなかった楓のまねをしての挨拶。おじさんやおばさんさえ欺いたそれを、水無瀬さんはたった一言交わしただけで見破った?
「何言ってるんだ? ボクは――」
「違う。アンタはアタシの知ってる楓さんじゃない」
信じ切った目。その瞳は少しも揺れていなかった。見た目は楓のままなのに、どうしてそこまで言い切れるのか。
「……どうしてそう思うの?」
楓ではなく、自分自身の声で聞いてみる。水無瀬さんはきょとんとしたけど、すぐに表情を戻した。
「表情が全然違う。楓さんは何かを我慢しているような……泣きそうな顔をするんだよ」
今度は私が驚く。楓はたしかにいつも泣きそうな顔をしている。でもそれは楓のことを何年もずっと見てきた人にしか分からないほどの僅かな変化。それを彼女は読み取ったのだと言う。自然と笑みが浮かぶ。水無瀬さんが表情を険しくした。
……楓。この人なら大丈夫だよ。
私は椅子から立ち上がり、彼女の傍に行く。そして、彼女が楓さんにしたように、今度は私が彼女に手を差し出す。
「初めまして。私は柊と言います」
……うん。やっぱりそうだ。この人なら大丈夫。戸惑いながらも私の手を握ってくれた水無瀬さんを見て、私はそう確信した。