第70話 気分は最悪
その日は最悪にも雨が降っていた。偏頭痛持ちの僕は天気によって体調が左右がされる。理由はよく分からないけど、雨が降るとズキズキと頭が痛みだす。気圧の変化じゃないかと蓮君は言っていた。そうかもしれないし違うかも知れない。どちらにしろ頭痛はするので、どうでも良かった。
中学一年に当たる年が終わろうとしていた頃、ようやく僕は車椅子を降りることができた。まだまだ体を動かすのは疲れるしぎこちないけど、松葉杖があればなんとか一人で散歩できるくらいまでにはなっていた。まあ、なっていたというだけで、実際におじさんの家の周りを散歩したことなんて一度もないけど。
リハビリも一区切りし、通院する必要のなくなった僕は中学二年からまた学校へ通うことにした。おじさん達にこれ以上心配をかけるわけにもいかないし、このままじゃいつか会う椿に会わせる顔がない。いつまでも引きこもっているわけにはいかなかった。
ただし、前の学校はおじさんの家から遠かったし、小学校の頃の僕を知っている子が多く在籍していたので、そこだけには通いたくなかった。そんな僕に気を遣ってくれたのだろう。おじさんはいくつかの学校をパンフレットとともに紹介してくれた。公立や私立、その中で僕の目を引いたのは、とあるお嬢様学校だった。多額の寄付金を求められるという、それなりに裕福な家庭の子ではないと通えない正真正銘のお嬢様が通う女子校、私立桜花女学院中等部。もちろんお嬢様だとか、女子校だとか、そんなことはどうでもよく、僕が目を引いたのはその学校が全寮制だったからだ。これなら僕はこの家から離れられ、これ以上おじさん達に迷惑をかけることもないし、気を遣うこともない。ただ、金銭的負担は想像することもできない額になることは中学生の僕にでも分かった。しかし、『ここに行ってみたいのかい?』と問う声に反射的に頷くと、おじさんは何のためらいもなく入学手続きを進めた。後々考えれば、そのパンフレットを持ってきたのはおじさんだ。僕がその学校を選んでも何ら問題はなかったのだろう。
二月に転入試験を受け、三月には合格通知を貰い、そして年度が変わった四月。中学二年生となった僕はおじさん達から離れ、入学式の一日前に桜花の寮である凜風館へ入寮することにした。
事前に荷物は配達してもらっていたので、おじさん達とは家で別れ、一人で家を出た。毎日のように会っていた蓮君とは、「落ち着いたらこちらから連絡する」と約束して、しばらくは会わないようにした。そうしないと、きっと僕は彼に甘えてしまうから。そして同時に、僕は少し彼を心の何処かで邪魔に思っていた。一人にしてほしかったのだ。
「広い……」
広大な敷地を一人歩く。それなりに歩いたはずなのに、いまだ寮らしき建物は見えてこない。パンフレットで見た通り、敷地の半分以上が緑化公園や人工的な林で構成されていて、視界はほぼ緑一色だ。
環境的にはいいのだろうけど、移動には時間がかかりそうだ。そんなことを考える。前腕部支持型という片腕に装着して使用する松葉杖は負担が腕一本にかかるため疲れやすい。それなりにリハビリしたのに腕はもうガクガクだ。どこかで休憩したいけど、今は雨だ。多少きつくても早く寮にたどり着くべきだと判断して先を急ぐ。
しばらくレンガ敷の道を歩いて行くと、やっと目当ての凜風寮を見つけた。もう一息と自分にむち打ち、引きずるようにして歩を進める。なんとかたどり着き、手前の事務室に入るとすぐに手近な椅子に座った。肩で息をする僕に何事かと寮母さんらしき女の人が駆け寄ってくる。視線は合わせず、松葉杖を見せて「疲れただけです」というとすぐに納得してくれた。
その後、入寮の簡単な手続きを済ませる。僕の部屋は花月館、鳥月館、風月館、月館とあるうちの風月館の二〇九号室ということだった。一通りの寮内の説明を受けてから事務室を後にし、風月館へと向かった。
凜風寮はさきほどの四館と食堂や大浴場などがある涼風館の計五棟によって構成させる。中央に涼風館があり、それを囲むように花鳥風月それぞれの館が立っている。風水的な配置なのだろうかと思ったけど、単純にどの館からも涼風館へ行けるようにとのことらしい。
事務室は花月館にあったので、涼風館を通って風月館に入った。外から見れば四館ともそれほどの違いはないのに、花月館の内装はどちらかというと洋風で全体的に桜色の春をイメージした造りだったのに対し、風月館は木造建築らしく木目を活かした純和風の造りになっていた。
蛍光灯でキラキラと光る床や天井を物珍しく見ながら、目的の部屋を探す。エレベーターがないとのことなので、階段を使って二階へ上がる。それだけで息がまたあがり、手すりに体を預けて一休みする。
息を整えながら松葉杖を持つ右腕をマッサージする。小刻みに震える指が恨めしい。ただ歩いただけなのにこんな状態だ。ふくらはぎも張っているような気がする。きっと明日は筋肉痛だ。俯いて嘆息する。
「明日から学校なのに、こんなことでどうするんだろう」
自嘲して鼻で笑う。自分で一人になりたいからと選んだ学校だ。これくらい苦労するのは分かっていたことじゃないか。
「あら、あなた、そんなところでどうしたの?」
ビクッと体が揺れる。静かな廊下に響いた女の子の声。視線は下を向いたままなので姿は見えない。しかし視界の隅に僅かに誰かの足が見えた。それはこちらを向いている。他に人の気配はしない。おそらく今の声の持ち主だろう。
心臓がばくばくと主張し、変な汗が噴き出してくる。この二年間、おじさんの家と病院を往復するだけの生活だった僕が会話する相手と言えば片手で足りるくらいの人だけ。こんなふうに他人に声をかけられるなんて本当に久しぶりだった。
右腕が違う意味で震えてくる。左手でそれをぐっと抑え込む。逃げ出したい。僕なんて放っておいてくれたら良かったのに。なんで話しかけてきたんだ? 理不尽な怒り。彼女は何も悪くない。むしろ僕のことを心配してくれている。それでもこの気持ちを抑えつけることができなかった僕は視線はそのままにきつい口調で言う。
「別に。何でもありません」
これ以上話しかけるな。早くどこかに行け。そういう思いを込めた。
「何でもないわけないでしょ。疲れたの? 手を貸しましょうか」
それなのに彼女はずけずけと僕の近くまでやってきて手を伸ばしてきた。それを払い除けて後ずさる。その最中に足から力が抜けて倒れそうになり、近くの手すりに掴まる。柵に体を少しぶつけてしまい、それが痛くて彼女を睨み付けた。
肩にかからないくらいの長さの黒髪に眼鏡をかけたその女の子は、驚いた表情をして僕の顔をまじまじと見つめていた。彼女は何も言わない。ただただ僕を見つめるだけ。気になって自分の姿を見下ろすも、別におかしなところはない。いつも着ているワンピースだ。
「……なんですか?」
「……えっ? あ、ああっ、ごめんなさい。つい見とれちゃって……」
見とれる? なにに? 意味不明なことを言う彼女をさらにきつく睨み付ける。
「そんなに睨まないで。本当にごめんなさい」
彼女がくすっと笑う。謝る気があるのかないのか……。僕をいらっとさせた。彼女はこほんと咳をすると自己紹介を始めた。
「あたしは二年一組の高峰奈菜。あなたは……見たことないけれど、新入生? 今年の新入生は鳥月館じゃなかったかしら」
「転入。二年」
「あ、ああごめんなさい。転入生だったのね」
奈菜と名乗った女の子は同い年だったらしい。短く答えて彼女の間違いを指摘すると、再び彼女は謝罪した。今度は笑ってなかった。
「ということは……今日初めてここにきて、今は自分の部屋を探しているところ、なのかしら?」
隠すことでもないので頷いて肯定する。
「そう。じゃあその部屋まであたしが案内するわ」
「別に構いません」
「遠慮しないで。それと、同い年なのだから敬語なんて使わなくていいのよ? あたしはいいところのお嬢さんでもないし」
彼女の言おうとしていることが分からず首を傾げ、少ししてから理解する。そういえばおじさんが言っていた。ここでは年功序列なのでなく家柄で序列が決まるのだと。彼女はそれを言いたいのだろう。どうでも良かった。無言で返すと彼女は苦笑した。
「何号室?」
「……二〇九」
「……そう。あなたがそうだったのね」
勝手に納得する彼女に不快感を覚える。彼女は気付く様子もなく「ついてきて」と歩き始める。仕方なく彼女の後を追う。
「二人部屋なのは聞いているわよね?」
「はい」
「もちろんあなたの部屋にももう一人いて、その子と生活を共にすることになるのだけど……きっとあなたなら仲良くできそうね」
なんで会って数分なのにそんなことが分かるのだろう。勝手に人を決めつけないでほしい。もし彼女と同じクラスでも仲良くはできなさそうだ。
「あ、そういえば」
彼女がくるりと振り返る。
「あなたのお名前は?」
そう言われて、自分が自己紹介していないことに気付いた。胸に手を当てて深呼吸する。
「依岡楓です」
「依岡楓さん、か……。いい名前ね」
彼女が微笑む。それは花が咲いたように柔らかくて、僕は思わず見とれてしまった。