第69話 長い話が始まるその前
「だー、疲れたー」
シャーペンを放り投げ、バタンと遥が床に倒れる。両手を上げてぐっと伸びをすると、大きなため息をついた。
学園祭が無事終わってから数日後、熱気冷めやらぬ間に学園は中間テスト期間に入った。あちこちから悲鳴に似た声が聞こえるなか、僕も早々にテスト範囲の復習を始めた。転校当時の実力テストで9位なんて目立つ順位を取ってしまったばかりに、みんなからそれなりに期待されているらしく、先生や他のクラスの子からは「がんばれ」と声をかけられ、クラスメイトからは勉強を教えてほしいと頼まれ、今まで以上に休み時間が忙しくなってしまった。ただ、前とは違って、期待されるということが素直に嬉しくて、プレッシャーをそれほど感じることはなかった。桜花にいた頃だと、大抵テスト期間中は寮の部屋に引き込もって、できるだけ人と会わないようにしていたものだ。少し変わった自分に驚いた。
そして今日は日曜日。遥を家に招いての勉強会だ。遥とこうして勉強するのは1年ぶりだから、ちょっと楽しみにしていた。勉強が好きじゃない遥はどうだか知らないけど。
「お疲れ様。それじゃチェックするね」
「よろしく」
遥のノートを眼前に開き、赤ペンを添えて目を走らせる。お世辞にも綺麗とは言い難い文字に、時には丸、時には×印を付けて黒一色だったノートに赤色を足していく。
「……うん。結構いいかも」
「ほんとか!?」
5分後。採点を終えて言うと、遥は勢い良く起き上がった。ノートの左上に点数を記入して遥に返す。
「75点」
「よしっ!」
遥がガッツポーズをする。それは僕が無作為にテスト範囲から問題を選んで作った、一問5点の全20問、100点満点の小テストだ。簡単な問題から応用問題まで取り入れているので、本番のテストさながらの出来だと思う。
「でもここ、さっきと同じ間違いしてる。ここはこうする前に、全体にルート3をかけるんだよ」
「あーそうか。気をつけてはいるんだけど、毎回それ抜けるんだよなー」
「あとまだケアレスミスがあるよ。こことか」
「うわ、ほんとだ。5足し忘れてるな」
「これがなかったら80点だったのに」
「もったいねー」
遥が頭を抱える。それを見てこっそり笑う。と、ふいにコンコンとドアがノックされる。
『お姉ちゃん。飲み物持ってきたけど入っていい?』
「どうぞー」
ドアが開き、お盆にグラスを乗せた椿が入ってきた。が、椿は僕達を見ると立ち止まり、怪訝な顔をした。
「なんでお姉ちゃんと遥先輩、そんなに近いの?」
「なんでって、勉強会だから」
長方形のテーブルに、僕と遥は並んで座っていた。僕が説明しても椿の表情は変わらない。テーブルを挟んで正面に座り、グラスを置いた。
「それだと狭くない? こっち空いてるよ」
「向かい合わせだと教えにくいでしょ?」
椿がなるほどと納得してくれる。けれど、それでも首を傾げていた。
「楓の勉強会っていうのは、アタシに勉強を教える会なんだよ」
「あー!」
椿が手を打ち鳴らす。今度は僕が首を傾げた。
「どういうこと?」
「勉強会だからといって、みんながみんな同じ教科を勉強するわけじゃないんだよ。個々に勉強したい教科をやって、それで分からないところがあったら、その教科が得意なヤツに聞いたりするんだよ。数学が得意なヤツが数学勉強しても意味ないだろ?」
「あぁ」
たしかにそうだ。時間を共有するからといって人に合わせる必要はないんだ。復習にはなるだろうけど、効率がいいとは言えない。
「きっと楓はアタシとしか一緒に勉強したことがないから、これが普通なんだよな」
「うん。こうするものだと思ってた」
みんなで同じ教科をして、分からないところがあったらそこを教えあって進めていく。そういうものだと思っていた。
「でもお姉ちゃん、教えるにしても、それはちょっと近すぎじゃない?」
椿が僕達の境目を指さす。僕と遥は右腕と左腕がぴったりとくっついている。
「それじゃ恋人同士みたいだよ」
「どうして?」
「恋人同士なぁ……だったらもっとくっつくか」
遥が腕を交差させ、肩と肩をぶつける。
「これでどうだ」
「なんで近づくの?」
「アタシと楓の仲だからだ」
さっぱり意味が分からない。どうして女の子同士なのに恋人みたいと言われ、アタシと僕の仲だからとくっついてくるんだろう。とにかくこれじゃ書きにくくて仕方ない。
「こんなに近いとやりづらいから離れて」
「えー」
「勉強教えないよ?」
遥が渋々といった様子で離れる。僕は椿の持ってきたグラスを取り一口飲む。グレープジュースだった。
「でも、やっぱり遥はやればできるんだよ。実力テストの順位が思っていたよりも低かったから、もしかして、と思ったけど、単純に勉強してなかっただけなんだね」
遥のノートをパラパラと捲りながら言う。最初の方は散々だったけど、問題を解く毎に正解率が上がっていく。これだけ如実に教えた成果が出ると教える側の僕も楽しくなってくる。
「んー。勉強すれば順位上がるってのは分かってんだけど、一人だと勉強する気が全然起きないんだよな」
遥が苦笑する。自分でもそれがダメなことを分かっているからだ。
「葵さんと綾音さんは?」
「アイツら小さい頃からの幼馴染みだろ? 昔から勉強もよく二人でするらしいから、邪魔したくないんだよ」
「あの、桜花にいた頃はどうしてたんですか? たしか奈菜さんと沙枝さんっていう友達がいるってお姉ちゃんから聞いてますけど、4人で勉強したりしなかったんですか?」
椿の問いに、やっぱり遥は苦笑する。理由を知っている僕も小さく笑う。
「アタシは人が集まるとすぐ遊んじゃうんだよ」
「何回かは4人で勉強会を開いてみたんだけど。毎回必ず遥と沙枝が勉強そっちのけで競い出すんだよね。アタシの方が文字を早く書けるだとか、わたしの方が高く本を積めるだとか。奈菜に怒られても今度はどっちのせいで怒られたのかって喧嘩を始めるし、結局遥の勉強は僕が見るようになったんだよ。寮で同室だったから」
「同室じゃなくても、アタシは楓に見てもらってたと思うけどな」
そう言ってくれるのは嬉しいけど、それじゃ遥のためにならない。僕は肩を竦めて嘆息する。
「もう。見るのはいいけど、ちゃんと一人でも勉強できるようにならないと」
「じゃあそうなるように楓が教えてくれ」
「そうやってまた僕を頼る」
「アタシには楓が必要なんだ」
「うーん……」
テーブルに頬杖をついて唸る。どうしたら一人でも勉強してくれるようになるだろう。遥は僕なんかよりずっといい子で、ずっと頭もいいんだ。こんなことで過小評価されてほしくない。
ちらりと横を見る。いつにもまして真面目な表情をした遥がいた。……まあ、結局は本人のやる気なんだろうけど。
「……ん? 椿、顔赤いけどどうしたの?」
気付けば正面に座る椿の顔が真っ赤だった。目も泳いでいるし、なんか変だ。
「あの、その……さっきの遥先輩の言葉が告白みたいだったから」
「告白? 遥、何か言った?」
「んん? ……ああ、アタシには楓が必要なんだ、か?」
コクンと椿が頷く。なんだそんなことか。僕と遥から力が抜けていく。
「アタシはただ事実を言ったまでなんだけどな。なるほど、それで桜花にいた頃も……」
遥がぶつぶつと呟いている。なんとなく聞いてはいけない気がするからそっとしておこう。
「さっきのは桜花にいた頃によく遥が言ってたんだよ。遥に勉強教えるのが僕くらいしかいなかったから」
一緒にいると忘れてしまいがちになるけど、遥はお嬢様だ。桜花の中でもトップクラスのお嬢様だ。そんなお嬢様と対等に話そうとする人は、学年よりも家柄で上下関係が決まる桜花では限られていた。僕は出会いの経緯や同室だったこともあって、遥がお嬢様だと気付く前に今のような関係に落ち着いていた。それで僕は限られた人の中の一人になれたけど、きっと僕も彼女がそんな凄い家の人だと知っていれば、友達になることもなかっただろう。
「そ、そうなんだ。……お姉ちゃんと遥先輩って本当に仲いいよね。出会ったときからそうなの?」
「ううん。全然」
首を横に振ると、椿が目を丸くした。
「そ、そうなんですか?」
僕の言葉が信じられないらしく、今度は遥に聞いた。
「ああ。最初は最悪だったなあ」
「さ、最悪だったんですか……?」
「どっちもピリピリしててさ。初対面で初喧嘩。すぐに部屋を移してもらおうと思ったよ」
「僕も」
お互いを見て笑う。あの時は辛かったけど、今ならそれもいい思い出だ。あの時あの部屋で出会えたから、僕達は友達になれたのだ。
「よし、休憩ついでに楓の妹である椿に、アタシと楓のなれそめでも語ってあげよう。そのかわりに、晩ご飯アタシの分もよろしく」
「任せてください!」
椿が目を輝かせて話に飛びついた。椿には桜花での僕の話はほとんどしていない。興味があるのはなんとなく理解できる。けれどなぜ遥がその話を進んでしようと思ったのかが分からない。遥に視線を送る。口調はとても軽かったけど、その目は決して冗談を言っているようには見えなかった。
「いいよな、楓」
「……うん」
いつかは僕も椿に聞いてもらおうと思っていたことだ。ここは遥に任せよう。そう心に決めて、遥が話を始めやすいよう、その先を促す。
「僕と遥が初めてであったのは、始業式の1日前だっけ」
「ああ。あの日のことは今でも鮮明に思い出せる。たしか雨が降ってたんだよな」
そうして、少し昔の、少し長い、僕と遥の話が始まった。